卒寿第3回大人の休日パス旅行

'24/11/14(木)~18(月)の5日間を大人の休日パス旅行に当てた。私が定宿にしているビジネスホテルの東横インがわりと早く埋まるようになった。ところが今年の天気は全く「女ごころ」に喩えてぴったりの状態で、たった5日間の空が晴れか雨かなかなか決まらなかった。11/14~18はそのせめぎ合いぎりぎりの結果である。最後まで心配させられたのは17日午後の天気だった。半分の時間を降られた。
行き先は紅葉の東北、そこで寺巡りと決めていた。第1日は仙台、第2日は白河、第3日は只見線の車窓、第4日は盛岡、最終の第5日は奥羽本線の車窓。車窓だけのときは5千歩ほどだが、見物に歩くときは1日1.5万歩ほどになった。第1日と第4日をホテル宿泊とした。第3日は日帰り旅行。東京駅発の新幹線列車はいつも混雑するので、ホテル決定と同時に、えきねっとで指定席の予約をした。
第1日。JR東・仙台駅、仙石線・榴ヶ岡駅と地下鉄東西線薬師堂駅を結ぶ三角地帯は仙台市の寺町だ。地名に新寺とか連坊がある。連坊は寺が連なっているという意味だろう。夏の旅行では東端の国分寺、国分尼寺を訪れた(「卒寿第3回大人の休日パス旅行」('24))。まず仙台駅近くの見瑞寺、次が久近寺、徳泉寺。徳泉寺にはたまたま集まりがあり、住職の奥方が立ち話に応じてくれた。真宗大谷派の寺院。この寺あたりが寺町の外れに当たる位置で、年に一度は本願寺に赴くとか。私が京都育ちで本願寺も幾分知っていたためか、懐かしがってくれた。
願行寺、慈恩寺、孝勝寺、蓮香院、法輪院、妙音院、円徳寺、報恩寺、竜泉院、阿弥陀寺、光寿院、応瑞寺、正楽寺、善導寺、林香院、洞林禅寺、妙心院、瑞雲寺。以上で20寺。めぐりきれなかったお寺がまだまだあって、この界隈にはお寺は総数30を超えるのではないかと思う。普通の寺町は、京都のように、寺が通りを挟んでその両脇に並ぶいわば一次元的配置なのだが、仙台市のは二次元的で、三角内に収まりきらぬ近くのお寺を入れたら随分と広大な面積になる。モミジのほかにニシキギが赤く染まっているお寺があった。
地下鉄連坊駅から国際センター駅へ。市立博物館入場。埴輪の時代からの仙台市の歴史が展示してある。玉虫左太夫の蝦夷地巡見(幕末の安政4年=1857年)地図には南樺太が入っていた。間宮林蔵の樺太探検から遅れること半世紀あまりだった。彼の探検は知らなかったので目に付いた。Wikipediaによると、佐幕派で最後は獄中自決だったという。戊辰戦争で敗退、藩領は数県に分割される。遺品展示は模造品を含めて少なかった。NHKの「ブラタモリ」とか「新日本風土記」とか「もういちど、日本」とかで仙台は再々取り上げられた。これらの多様な歴史的地政学的な視角は、常設展での展示に応用しても良いのではないか。
第2日。午前の時間を白河市観光に当て、午後はいわきに出て特急ひたち20号で帰宅する。
ホテルから白河駅まではJRバス車窓から街中を見物。人影が少ない。要所要所に街歩きのための地図パネルが出ているのでとても助かる。あとで市役所に立ち寄り、貰った「街歩きマップ」には歩いて楽しむ白河という副題が付いていた。石垣が豪壮な小峰城の城下町の面影を町の区画と地名、寺社群が残している。鷹匠町、金屋町、手代町、大工町、新蔵町、馬町、年貢町などを見ると、初めて歩く道なのに何か親しみを覚えさせる。観光地図はえてして商店街の宣伝用になってしまって、便所を探すのに役立たなかったりするが、白河の地図は出来が良い。
旧奥州街道の大きな鉤形を曲がると、白河宿脇本陣本陣跡に出る。永蔵寺、太統寺では境内を墓石がぎっしり埋め尽くしていた。竜蔵寺から初代藩主・丹羽長重廟を目指す。その頃の城下町人口は1.5万人ほどで、武家と町民の比率は半々だったと立て札に書いてあった。合併前の旧白河町は2.8万ほどだった。清流(谷津田川)に円明寺橋とあったが、円明寺という寺はもう無かった。小峰八幡神社は元・山王寺だったと立て札が示していた。丹羽長重廟参詣路入り口の、小南湖という小さな沼の紅葉は、樹木数は少なかったが、なかなか見事であった。苔に覆われた石段は上下が苦労だった。廟はしっかり維持されていた。信長以来の名家・丹羽家は白河から二本松(「2022年度第1回大人の休日倶楽部パス旅行」('22))に藩主家として移って、幕末まで続いた。
戊辰戦争戦没者を弔う墓石や碑はあちこちに見かけた。丹羽長重廟前の二本松藩墓碑には戦死者名が刻まれていた。筆頭の2名が丹羽姓であった。敗者側の、ひときわ小作りの、今は関川寺の外の細道路傍の墓石には花を手向けたあともなく、草の中に淋しそうであった。常宣寺の参詣路両脇の杉林は立派だった。谷津田川は水量豊富でけっこう急流。昔は水車小屋が並んでいたらしい。市役所の裏から関川寺、妙関寺、妙徳寺、月心院、勝軍地蔵堂の順にめぐった。関川寺はおそらく町第一の大寺なのだろう。土塁と空堀の遺構が取り囲んでいる、戦国時代の城館あとという。
郡山からいわきまでの磐越東線山間部の車窓は、次の第3日の只見線山地、ダム部と双璧の、どう表現したらいいのだろう、薄緑、緑、橙、黄色、桃色、赤から深紅とそれぞれの中間色のグラデ−ションが加わった、錦をちりばめたような秋景色であった。山奥になるほど空気が澄んで、かつ乱反射させて色を濁らせる表面塵埃の影響がとれてであろう、久しぶりに鮮やかな色彩というものを楽しめた。
第4日。盛岡駅の観光案内所の勧めで、まず北山寺町通りを歩くこととした。盛岡には「でんでんむし」という循環バスがあって、日中には1時間に3本ほどの発着がある。大泉寺、光勝寺、東顕寺。裏通りに移って鬼の手形(三ツ石神社)、大きな岩三個がご神体のようだった。表に戻って證明寺、本誓寺、専立寺、光台寺、徳玄寺、吉祥寺、清養院、龍谷寺。小雨になった。バスで盛岡城址公園へ。
寺町のお寺にもモミジはあったが、お城全体ことに本丸の紅葉は素晴らしかった。イロハモミジの大木が中央にあって、周囲を圧倒していた。戦中の金属供出でなくなった南部伯爵銅像の台座が残っていた。南部家はずっと盛岡藩主で銅像の伯爵は42代目。公園内のもりおか歴史文化館内を一巡した。町南方を区切る北上川に架かっていたのであろうか、「盛岡の玄関・新山舟橋」の模型と、それを示す古地図にしばらく見入っていた。近代戦でも工兵隊がときには舟橋を架けるが、この舟橋は常設らしかった。増水のときはどうするのだろう。盛岡駅地下にわんこそば屋があった。大きな外人3~4人が椀を重ねていた。以前来たときも、わんこそば屋の前で逡巡したことを思い出した。目の前であんなに椀を頑張る客がいてはと、以前よりもっと小食になっている自分の胃袋と相談して、客になるのは遠慮した。
第5日。お目当ては秋田から新潟までのいなほ8号の車窓。ちょっと心配だった秋田新幹線は、盛岡からちょっと出たところで、踏切信号からの異常通知とかで、3分ほど遅れたが、通過待ち合わせとか、停車時間を調節したとかで、定刻に秋田に滑り込んだ。実はこの旅行の初日だったかに、こまち号がカモシカと衝突し、運行停止になった事件を列車の通路上のテロップで知っていたのである。奥羽本線の両脇は、ススキの白い穂とときどきの薄茶のアシの穂で賑やかだった。風力発電の風車がけっこう勢いよく回転する風のある天気だった。風に合わせて穂の波が走る。ときおり見える日本海には白波があり、砂浜を覆い岩礁で砕けていた。何回も通ったコースだけれど、毎度違う景色を見せてくれる。遠くの山々には冠雪はあったが、まだ心持ち雪景色といった風情であった。

('24/11/21)