法隆寺を支えた木

西岡常一、小原二郎:「法隆寺を支えた木[改版]」、NHK出版(2019)を読む。著者はともに故人。前者は法隆寺大工棟梁、後者は千葉大名誉教授。元版出版が1978年の有名な本で、その存在は古くから知っていたが、10/19の毎日新聞・今週の本棚・なつかしい一冊に取り上げられたのを機に、読み通すことにした。
西岡常一氏が没したのが2016年。本書に後継者が気掛かりとでているので、Copiotに聞いてみたら、佐藤秀一氏が後を継いだとあった。明治の時代改革ことに廃仏毀釈で、伝統の宮大工制度が解体し、法隆寺棟梁も4家になり、やがて実勢は西岡家のみとなりと言った記述があり、その西岡家も次代候補としては内弟子一人と心細い話になっていた。ごく近年まで建築はすべてと云っていいほどに木造だった。部材から組み上げまでの宮大工の総合技量は世界に冠たるものであろう。中でも世界最古の大型建築を、現在にまで持ち堪えた法隆寺棟梁はその頂点だ。本書は「昭和の最後の宮大工」が自身の肉体の衰えを自覚して、「棟梁学」伝承のための一端として書かれたのだろう。
昭和24年の金堂炎上事件は覚えている。佐伯定胤管長が炎の中に飛び込もうとするのを、常一氏の弟が抱き留めたという逸話がでている。壁画は失われた。だが屋根組と仏像は別途保管されていたため助かった。これを契機に、まだ戦後でろくに予算も付かなかった昭和大修理が復活し、昭和29年に完工する。1日8.2円だった賃金が450円になったとある。ただし町の大工は日当600円で、国の文化財保護意識はまだまだだったようだ。碩学の学僧として有名だった管長は完工を待たずに死んだ。
創建当初の法隆寺はほぼ総ヒノキ造り。1300年経過した今でも、主要構造体は創建当初の木材だ。樹齢1000年、2000年の大木が使われている。カンナを当てて部材の表面を削ると2mmも下からは、殆ど切り取ったときと同じような生き生きとしたヒノキが現れる。撓みと歪み回復の粘弾性的物性は、創建時とあまり変わらない。まだまだ(千年は)保つ。ヒノキ以外は駄目。杉はまだましで800年、松、ケヤキ、トガ(=ツガ)などはその半分。
創建の頃はヒノキは奈良盆地に豊富で、近隣のヒノキの大木を使った。時代が新しくなるに従って、ヒノキは奥地から切り出さねばならなくなる。DNA解析などまだ進んでいなかったはずだが、棟梁は、補修で取り替えた部材からそれが判る。秀頼は、軍資金保存のためもあったろうが、マツとスギを使い、江戸期ではトガが入った。上段の耐用年数の比較は部材の傷み観察から出ている。読んでみると原因は材料の疲労ではなく虫害と腐食だ。Webを見る。ヒノキには抗菌効果・防虫効果があり、特にヒノキオールは白アリやダニなどの虫が嫌がる臭いを発している点は注目できる。
大型建築が掘立柱から礎石柱に変換した時代だった。先月見た陸奥国分寺跡(「卒寿第2回大人の休日パス旅行」('24))には回廊まで礎石が残っていた。出雲大社本殿前には中世(C-14による時代測定)の掘立柱跡が柱残骸と共に残っている。その説明が本HPの「冬の山陰観光旅行U」('15)に載っている。Webの「御遷宮の歴史 - 出雲大社」によると、造営遷宮が繰り返され、「1609の造営では、それまでの掘立柱建物であった様式から、礎石建物の様式に変更され、以後、この様式が踏襲される・・。」とある。400年以上前まで、神代以来の掘立形式を維持していたらしい。柱はスギで幸いにも地下水が保存してくれたという。
本書は、五重塔建設に際し、飛鳥人が、「地山」粘土層まで地面を掘ってその上に粘土と砂の版築を繰り返した基壇に、心柱石(心礎)を載せた工夫を高く評価している。かの出雲大社本殿は高さで有名だが、史上何回も倒壊焼失している。京の大仏が壊れて秀吉が怒った慶長伏見大地震は有名だが、そのちょきの法隆寺五重塔の損傷は報告されていないようだ。ただし地面下の木材は昭和大修理では放棄されたという。腐食でぼろぼろだった。
工具と木目の関係が強調されている。大鋸や台カンナが使える世になったのが室町時代からで、大工道具がノミやクサビやチョウナやヤリガンナほどの創建期では、ヒノキは大型建築物の建材として最適であった。大工の仕事は作業6、研ぎ4だそうで、仕事が集中的に多い王城には良い砥石の産地がある。砥取家のHPには、「かつては京都から亀岡まで続く天然仕上げ砥石の本層には幾つもの砥石山があり、採掘が盛んに行われ地場産業として非常に活気がありました」とある。
宮大工の「棟梁学」の本領は、大工連を掌握しその能力を最大限引き出すと云ったことは当たり前だが、山を見、堂を見、伽藍を見る総括力にある。いちいち紹介しないが、同じヒノキでも大きさはもちろん成育する位置、同じ木でも南面かそうでない場所か、幹か枝かで物性は変化する。堂には使う位置によって要求物性の重点が変わる。堂の南面部か北面部かでも微妙に異なる。伽藍への配慮としては、堂が落とす影や風の通る通路と言ったものがあるだろう。忘れてはならぬものに宗教がある。お寺なら仏法への理解尊敬と歴史への洞察がある。
木造建築が1300年も殆どを原型のままで保存されたことは世界の奇跡で、その重要パーツを大工棟梁とその組織が貢献したことが判る。
以上の第1章70pが西岡氏の著述、残りの第2~第7章約160pは小原氏の著作のようだ。第2章では、小原氏は木材工学の立場から、第1章を補足修正している。木材の異方性を顕微鏡的構造、化学成分の分布、生育条件、樹齢などから解説する。本HPの「竹取工学物語」('24)で見た竹と同じく、針葉樹も広葉樹も、自然環境を生き抜き競争を制するための絶妙な複合材料となっている。木材では、細胞はセルローズの細長いフクロが1次元的に繋がり、その両端を先細りで閉じて、あたかも節でバックリングを防ぐ微細な竹の集合体に似た構造になっているという説明がしてある。
五重塔心柱のヒノキは年輪から440年ほどの樹齢と推定された。年輪幅からは成育環境が知れる。芽を出してから50年ほどは周囲の大木に陽光を奪われていたが、その大木が倒れてからさらに50年は成長が早まったとか、最後に成長速度が異常に伸びたのは、重年輪から見て環境異変、例えば最後の競争相手が倒れたとかの推定ができる。科学的には近畿系のヒノキだとある。手入れのよい植林の木曽ヒノキの優勢木並みの成長を遂げている。針葉樹のヒノキは大半の材部が仮導管1種類であるから、材質は、細い木繊維と太い導管が不均質に並ぶ広葉樹よりも均一である。
第3章「木用貧乏」は建築外用途の木のはなし。
第4章は「木は生きている」という題で木材劣化の科学を紹介する。劣化には腐敗分解、風化と老化があるが、本章は老化の話である。木材の細胞はセルローズの細胞膜で覆われ、リグニンで相互に接着されている。成長方向にセルローズの鎖状高分子が並ぶから、結晶化度は高い。木材のセルローズは経年的に崩壊する。だが結晶の方が安定だから時間と共に結晶化しようとする。ヒノキはそのせめぎ合いの結果200年ほどで強度はピークに達し1000年ほど後に伐採当初の値に落ち着く。ケヤキは漸減する一方という傾向だ。針葉樹はだいたい前者、広葉樹は後者の傾向が普通だという。
地上材は吸湿乾燥により膨張収縮する。新材料だと7%といったオーダーの大きな伸び縮みで、しかも材料面に対して方向性がある。棟梁はその影響を考えた使い方が必要だ。埋没材の劣化は地上材とは様子が異なる。セルローズだけを見ると、水中に近い埋没針葉樹は4万年を経てもまだ40%が崩壊せずに残る。広葉樹は2000年ほど。だが法隆寺五重塔心柱の地中基礎部は、昭和大修理では、再生再利用できなかった。主な理由は外見でもはっきり判る周囲の腐食と空洞化である。微生物などに食い荒らされたのであろう。地下水位が高かった出雲大社本殿の残留柱埋没部外周には、腐食は見られなかった。中心部の空洞もなかったのではないか。
第5章は「ヒノキと日本人」、第6章は「古代における木材の輸送」、第7章は「ヒノキ考」。
天然のヒノキは福島県あたりが北限で、標高千m前後の温暖帯に最も良質のヒノキを産する。我が国のヒノキは、太古からの伐採で資源的に枯渇状態に追いやられている。木曽ヒノキは「木一本に首一つ」の留木とした尾州藩の管理保護政策で有名だが、留木にした藩はほかに18藩もあったという。藩だけでなく高野山のお寺が、ヒノキ営林事業を活発に行っていることは有名。青森はヒバで有名。ヒバは日本固有種のヒノキ科アスナロ属の樹木で、木材としてヒノキによく似ている。あまりに遠方なためか、京都での使用例は少なく、それも近世に入ってからのようだ。青森で森林博物館(「大人の休日倶楽部パス(東北スペシャル)」('12))のアオモリヒバを見学したことがある。西岡棟梁が采配をふるった法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔をふくめ、近年の寺社の長大材の必要な大型復旧修理工事用のヒノキとしては、台湾ヒノキが活用された。しかし今後は森林保護政策のため、台湾ヒノキを入手するのは難しくなる。
東大寺建立用材はどこから来たか。創建の頃既に大和平野からは良材が失われていた。厖大なことに大型用材の輸送は水運に頼るしかない。その川が木津川系だった。津は港という意味だから材木を集散させる川というわけだろう。比良山脈や野洲川流域の木材までも、琵琶湖−瀬田川−宇治川−木津川のルートで運ばれた。今「光る君へ」で脚光を浴びた石山寺は、琵琶湖に運び出された木材の検収所が始まりだとある。後白河法皇の再建事業には、遠く周防国から良材を刈りだした。山中から引き出すのに、あるいは綱(葛藤)、あるいはロクロで山を切り開いた道を通したという。瀬戸内海−淀川−木津川の水路を経て木津で陸揚げし、10kmはある工事現場へ人力と牛力で運んだ。
松永久秀の乱でまたも消失。17世紀末元禄期に現在の大仏殿が竣工する。でももう日本の山林に長大材を見つけることはできなかったのが大きな理由となって、創建時の6割強の建造物になった。柱は継ぎ合わせの合成柱になっている。さらに真柱の周囲に樽のクレ材のような捌木(はねぎ)を重ね合わせ、鉄と銅輪で締め付けると言う手法によって解決している。同一の樹種を揃えることができず、各地から集めたいろいろな材が混用された。
鎌倉幕府、江戸幕府の開設と共に周辺地域は木材供給源にされる。まず伊豆地方、天竜川流域、富士川流域。やがて紀伊、飛騨、信濃。創建時の東大寺大仏殿との比較で、江戸城の巨大さが判る。本丸御殿が8.3倍、西丸御殿が4.8倍。大仏殿は焼失2回だったが、本丸御殿は5度、西丸御殿は6度。木材資源には大変な負担だった。

('24/11/19)