生命はゲルでできている
- 長田義仁:「岩波科学ライブラリー325 生命はゲルでできている」、岩波書店(2024)を読む。緒言がないので、終章「生命活動の舞台を理解する」と「あとがき」をまず読んでみた。生命科学ではなく、生体科学(そんなくくりがあるかどうかは知らないが)の本のようだ。生命を支える柔軟組織がほぼ高分子の三次元的構造のゲル体で成り立っている以上は、ゲルの理解は生命活動の理解に不可分だという視点から書かれている。私は現役最後の研究テーマに高分子レオロジーが関係していた。本書に惹かれた理由の一つである。
- NHKの「アニマルドック ペンギン「かわいい」は進化の証し」を見ていたら、南極のペンギンの足はなぜ「しもやけ」にならないかという質問が子供から出た。しもやけ(凍瘡)は、寒さのため、ことに指先などに起こる炎症だ。血行が悪くなるのが原因。ペンギンは極寒の南極で、孵化までの抱卵期を立ち尽くしていても平気なのは、血行に工夫ができているからと説明されていた。
- 生物組織の水は凍らない。植物にはしかし時たま凍裂と云って、樹木が縦方向に真っ二つに割れる現象がある。あれは厳冬の中ちょっと寒さがゆるんだ時に、春が来たと樹木が勘違いをして、根っこから水を吸い上げとたんに、寒さがぶり返して氷点以下となり、植物組織に馴染む間がなかった新水が凍ったためだと書いてある。TVで凍裂の木を見たことがあるが面白い現象だ。
- 本書には回転相関時間Trcを使った説明がある。TrcはNMRやMRIでの緩和時間の解釈に重要な概念で、分極性分子、この場合はゲル内や生体内の水分子が、どれほど環境に拘束されているかを示す。細胞壁に付着した水分子は、純水のそれより、ピーク中心のTrcは長い(水より氷に近い状態)が、幅広の分布をする。そのため冷えても過冷却状態のままで、氷の四面体構造はできにくい。核たるべき細胞壁の高分子イオンを囲む水分子のクラスターに、Trc的に毛色が違う分子が入り混じるため、結晶化が妨げられていると云ったところか。結晶化しないから、ラットの肝臓のTrcは、-50℃でもほとんど同じ分布で分子の運動性は変わらない。ヒト皮膚の角質の水分子も、極低温で運動性を維持しているという。示差走査熱量計のグラフもそんな印象だ。高分子のネットワークには、微細に見ると、ポテンシャルの山や谷があるから、はまり込んだ水分子は外へ流れ出ない。
- 第4章は、モデルゲルによる、ゲルのレオロジー特性の記述である。ゲル内の物質拡散は生命維持に直結する因子だ。レオロジーは生体臓器の生理機能とか運動特性に関係するからであろう、わりと詳しく書いてある。
- 第5章「命を支える賢いゲル」に入って、筆者の云う「生命はゲル」が、主に細胞外マトリックスを指すとわかる。生命科学の本でもそれには多少は触れられてあるが、主たる対象は細胞内の物語でその神秘さは驚異だ。近頃では神経科学が大規模言語モデルというAIをお供にしながら急展開している。5/4の毎日に「神への挑戦 第2部 生命科学」と言う特集シリーズがあって、目が離せない。それに比べれば細胞外は幾分地味な話題である。
- 植物は、セルローズを主成分とする細胞膜が、強固な三次元構造体を作って、生命を維持する。我々がゲルと云っている高分子架橋体などとはサイズも姿も違う高次構造だ。植物では「生命はゲル」とはちょっと云いにくいのだろう。本書は、だから、動物それも脊椎動物でヒトに近い高等動物が対象だと心得ておく必要がある。動物の細胞膜は隣接細胞間での高次構造要素ではあるが、そのリン脂質二重層はゲル構造の力学的支持体にはならない、つまり水分子を物理化学的に抱え込むネットワークにはならないとしているようだ(区分曖昧できっちりとは書いてない)。
- 細胞外マトリックスの模式図がある。多量の水を含んだゲルで、ネットワークはコラーゲン(タンパク質)とプロテオグリカン(糖タンパク質)の繊維が絡み合った三次元構造になっている(第3成分に繊維状タンパク質のエスチランがあって柔軟性に関係する)。どれも総称で、機能に合わせて組成、比率、形状を見事に変える。張力を受け持つのがコラーゲンで、腱や靱帯では、3重へリックス構造が5本重なってミクロフィブリル、さらに集まって四面体フィブリルさらにさらにと重なって見事な階層構造繊維速になる。プロテオグリカンは糖主鎖に箒状にタンパク質がグラフトしそれらがさらに多重化した構造で組織のゲル化に貢献する。
- 本書からは脱線になるが、こんな複雑な「天然」ゲルを作る指令は、どこからどうしてくるのだろうと考える。細胞内の遺伝子は鎖状の高分子は生むが、コラーゲン繊維のような高次構造体を作れないだろう。繊維では細胞壁を通過できない。プロテオグリカンともなればさらに複雑だ。グラフトが細胞内でやれたとしても、分子量5千万にもなる高分子を細胞の外に吐き出せないだろう。高次構造のための酵素があって、それが細胞外で活躍するのかな。NHKの科学番組を見ていたら、クローン犬の表皮模様が親犬と違う場合があると知った。細胞を出た一次高分子の生長に、遺伝子はどのように関与しているのか知りたいものだ。二次三次の遺伝方法があって、それは未開拓分野なのだろうか。
- 高齢になって膝関節には用心している。身近には人工関節に置き換えたヒトが何人もいる。サプリメントの広告にはヒアルソン酸の文字が必ず入っている。関節軟骨は、コラーゲン繊維とプロテオグリカン集合体が互いに織り込まれた細胞外マトリックスでできていて、水を70%含むとある。プロテオグリカン集合体は、ヒアルロン酸がタンパク質と非共有結合的に結合してつくったボトルブラシのような巨大集合体だという。その陰イオンの静電気反発力で潤滑性を維持する。クッション性はコラーゲン繊維が受け持つ。
- 関節液には本書では触れられていない。関節の潤滑には、関節軟骨だけでなく、関節液も重要な役割を果たすはず。整形外科に行くと、ヒアルロン酸系の注射を直接関節腔に打ってくれる。Copilotに聞くと、「関節軟骨は滑らかな表面を提供し、摩擦を減少させることで関節の動きをスムーズにし、関節液は関節の潤滑剤として機能し、関節軟骨間の摩擦をさらに低減させる。関節液は滑膜によって生成され、関節軟骨の表面を覆い、摩擦を軽減すると同時に、関節軟骨に栄養を供給する。」と出てきた。
- 皮膚は美容と関係しているから世人の関心が深い。加齢や紫外線暴露で化学架橋が進むと、皮膚に弾力が無くなりシワが増える。お化粧品に紫外線吸収剤が入っていることは知っている。肌のみずみずしさを保つには、表皮最下層の皮膚幹細胞を活性化すればいい。再生医療というのであろうか、美容皮膚科は流行っていると聞く。iPS技術により皮膚細胞の若返りを施す治療が、臨床実験段階にまで進んでいる(「4月の概要(2024)」)。アキレス腱はパチンと切れるが、皮膚の刀傷は刃物が斬った部分で傷が停まる。腱(筋肉も)ではコラーゲン繊維が整列しているが、皮膚では、多方向に2次元的な並び方をするためである。
- 深手の刀傷には、治療に牛や豚の真皮や腱からつくったスポンジ状のコラーゲンの「人工皮膚」が使われる。1週間ほどで、周辺の皮下組織から新たな毛細血管や細胞の元となる線維芽細胞が生長し、人工皮膚に入り込みやがて、発汗や発毛はなく瘢痕が残るが、元の皮膚に近い状態になる。炎症や拒絶反応を天然の同質タンパク使用で逃げ切ったと云いうるのだろう。
- 再生医療ではiPS細胞からの増殖がよく話題になる。拒絶反応を避けるには理想的なルートだからだ。大量にかつ器官のような3次元的な構造体に培養するには、スキャフォールド(細胞支持体)という、いわば生体の鋳型のようなものが必要だが、体内器官細胞が接している細胞外マトリックスと同じ条件に保たねばならぬから、その研究は困難を極める。増殖、分化を支持する仕組みが複雑でよく判らないのだ。色んな研究例が書き上げてある。ラットでは神経幹細胞が培養できた例がある。
- 血液の血管内流動は、生物物理化学の絶好の研究テーマだったのだろう。太い血管の中では、水や油のように、ハーゲン・ポアズイユの法則に従うのに、毛細血管に近づくと半径とともに粘性が減ってゆく。赤血球が細長になって、楽々と細い血管を通り抜けるのだ。この変形機能が不十分になると、高血圧や血栓などの循環器系疾病を引き起こす。赤血球の粘弾性特性測定は診断に重要である。循環器系以外でも糖尿病患者の赤血球は硬化していることが認められる。
- 細胞の変形は細胞内の骨格ネットワークで決まる。細胞内の表面近傍には、アクチンフィラメントが傘の骨のように細胞膜を支え、その補強剤のように中間径フィラメントが細胞内を埋める。細胞の中央からは微少管が何本も伸びていて、いわば傘の柄になっている。心臓が赤血球に与えたエネルギーの大半が、血球や血管の粘弾性的変化に用いられるようだ。血管の径と圧の関係はヒステレシスカーブを描く、それはエネルギー損がけっこう発生することを示す。血球も同じだろう。だが毛細血管に近づくと細長に変身する機作には触れられていないから、まだ研究中なのだろう。
- 理解すれば理解するほど、次の疑問がわいてくるのが生命というものらしい。いつも云うことだが、専門用語に対する索引がないのは困る。ゲルを生命や生体機作に結びつけた説明は、私には斬新だが、それで何か見晴らしが良くなったというような印象はない。どこまでをゲルと認識しているのかがよく判らなかったことがその裏にある。
('24/5/6)