米国の日本占領政策(下)その2

私が見聞きした範囲での話だが、戦後の日本のメディアは戦争責任については軍閥パッシング一途で、天皇への言及は極力避けられ、国民はつんぼ桟敷のまま銃剣に脅かされてやむなく軍閥の路線に従った、どちらかと云えば被害者だと云わんばかりの論調が多かった。皇居礼拝、忠臣愛国、八紘一宇、死んで陛下の御盾となれなどなど、数々の標語を教壇から小国民に吹きまくっていた先生方が、戦後は民主主義者に豹変した。ワルは軍閥というグルーの日本論そのままで、我らはどんなに混乱したことか。この路線はその後の、大きく揺れ動いたが、占領政策大綱と軌を一にする。
第9章は「ポッダム宣言―上からの革命」。新大統領トルーマンは、ローズベルト外交とは異なり、高官官僚の助言を重視する姿勢だった。国務、陸軍、海軍トップの三人委は米国政府の意向を決定した。国務・陸軍・海軍三省調製委員会SWNCCの対日基本文書の方針に変更を加える「上からの革命」を行う。沖縄作戦が進行している時点での米国軍部の次の目標は本土侵攻である。まずは九州を南方から上陸制圧する、続いて関東に上陸。大統領は玉砕自爆の抵抗による、常規を逸する抵抗を、対日戦争終結のシナリオに組み込んで考える。沖縄では米軍の35%が死傷したという。本土作戦では完遂に50〜100万の犠牲と踏む。そこへ原爆実験成功の報が入り、8月上旬には実弾投下準備が終わると判る。原爆とソ連参戦の2つのカードを使って、時期を間違えずに対日声明を発すれば、条件次第で日本の早期降伏を導ける。
スティムソン陸軍長官は原爆の責任者であり、79歳の軍縮外交の経験のある、軍出身ながら政治手腕に長けた、ノブレス・オブリージュを知る伝統的自由主義者とも言える古参だった。グルーの、未来を見た日本取り込み案に通じる発想があった。大統領の信頼は高かった。ポッダム宣言では草案起草の時から重要な役割を演じる。原爆実験成功により「日本に対する通告の時期が来た」「日本の対ソ工作のニュースが、戦後の日本のソ連傾斜を防ぐためにも、速やかな通告実施を求めている」と解いた。京都を原爆投下第1候補地とすることに反対し、広島、小倉、新潟という序列を打ち出した。
対日声明草案に対するチャーチルの修正は、わずかに字句3点だった。しかしそれは重大な意味を持っていた。占領下に日本政府が存続し、占領は日本領土内の諸地点に限定され、直接的な軍政ではなく間接統治することとなる。草案では天皇制へのコミットを避けていた。しかし間接統治が打ち出された以上、天皇制否定の線は後退した。イギリス側の修正は公使サムソン卿の文脈で、彼の日本研究はアメリカの知日派にもよく知られていた。米英の大正デモクラシーを肌で知る知日派が、民族の壊滅を防いだと言える。日本国民と軍部は区別され、無条件降伏は日本軍に対するもので、日本国家を指さないものになっていた。
中国はヤルタ秘密協定の通知を米国より受けて激怒した。スターリンは領土的野心を否定し、蒋介石政権への支持を明言したと伝えられ、幾分の安堵を覚える。これは沖縄戦が終盤に向かっている頃の話で、そのときもソ連参戦の重要性をアメリカは中国に伝えている。一方では脱帝国主義、中国4大国入りを唱っているのだから、身内に対してでも政治とは二枚舌の連続事象である。
敗戦直後の武装解除に対する抵抗と、戦後の占領軍に対する反発に対抗しつつ、米国負担を軽減する。早期降伏があったときの、副次的反応を見据えた目論見が、日本分割占領案になった。第1局面3ヶ月米軍23師団85.0万、第2局面9ヶ月連合軍82万、第3局面(占領終了まで)連合軍36万。連合軍には多数のソ連軍が予定された。大筋で合意されていたかに見える分割占領回避の原則は、このように統合参謀長会議JCSの下部組織JWPCによって否定された。ソ連軍は北海道、東北を管理下に置くこととなっていた。JCSはローズベルト新設の広義軍機のトップ会議で、戦勝までメンバーが替わらず強力な下部組織に支えられていた。国務省とローズベルトの距離が遠かったのとは対照的だった。
占領最高責任者に擬されていたマッカーサーは平和的進駐に楽観的だった。1年後の占領軍を8個師団と見積もった。JWPCの23個師団とかけ離れていた。それに他国軍の進駐には消極的だった。最終案では最高権力をマッカーサー司令部が握る案に後退するが、マッカーサーはもともとは日本政府を全面的に用いる統治を考えていた。重点占領域に大陸への睨みである青森、佐世保があり、京城には、それと朝鮮権益のソ連からの防衛意欲が入っていた。
原爆、ソ連参戦そして聖断と事態は急転する。ポツダム宣言受託は、陸軍の国体保持論や徹底抗戦派への配慮のために、1日また1日と結論が先送りとなり、10日9時発信の聖断でやっと決まる。原爆の広島投下が8/6、東郷外相は受託判断を上奏、以降東郷と佐藤駐ロシア大使らが早期講和推進の核となる。ソ連は敏捷に原爆に反応した。8/8対日宣戦布告。8/9長崎原爆は、陸軍によるもたつきがなければ、あるいは避けられたかも知れない。
聖断に基づく申し入れには、ポッダム宣言が「天皇の国家統治の大権(prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler)」を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、受託されるとあった。米国の返書案は、それを肯定し、ただし連合国最高司令官に従属する、最終的には天皇問題は日本国民の意思に委ねるとした。ソ連は戦争継続による占領域拡大が国益だった。モロトフ外相は2元的占領統治を目指す修正を主張したが、結局はマッカーサー一人を最高司令官とすることで同意した。東京が返書の内容を知ったのは、12日早朝だった。御前会議が繰り返され、14日午前にやっと天皇の判断で受託を決定した。
満州、朝鮮をソ連が席巻する前に米国の影響力を広げる意欲を、トルーマンは隠さなかった。しかしJCSは日本本土占領にコンサーバティブで、派遣できる軍勢余裕を少なく見積もっていた。米軍の進出北限は朝鮮半島の38度線までで、それより北とカラフトの日本軍はソ連軍に降伏することが指示された。スターリンはさらに千島列島と北海道の北半分のソ連軍占領を要求した。トルーマンは、北海道の拒否と千島に米国基地を設ける案で対抗し、スターリンを怒らせた。
初期対日方針の改定はスティムソンに依託された。彼は、かねてより、下部から出されていた方針が相手を信じない方向であることに不満だった。彼が熱狂的支持を与えたとするバンクライク・メモがある。明治維新と大正デモクラシーを重視し、民主勢力の復活を予想している。「日本軍部は降伏しようとしまいと、信望を失う。天皇の存続が、外地の全日本軍の降伏に資する。連合国の軍政が不器用な結果をもたらさないための民政指導要員は全く足らない。」と述べてある。
陸軍省はマッカーサーに間接統治方針に変更になったことを通知する。米軍は拍子抜けするほどの平和的進駐になったことを驚く。武装解除できればあとは勝者の思いのままだ。ワシントンでは、知日派がより後退し、天皇処罰論とか天皇制廃止論がまたも頭を擡げ、「ポッダム宣言」の骨抜きさえ危惧される状態になった。天皇制存続を決定づけたのはマッカーサーであった。
第4部だけでも230編の引用文献がある。検索に12p。緻密に調査され、バランスが取れた議論が展開されている。内容が「米国の日本占領政策」ではなく「連合国の・・・」になっておればなお完璧だが、ソ連の内部資料など期待すべくもない時代の論文だ、これ以上は無理だろう。逆にもしも日本が戦勝国であったなら、対米占領政策はどんなものだったろうと想像したりする。信念を通す知米派が出現するだろうか。スターリンのソ連に分断占領されなくて我々は幸運だった。プーチンのロシアに食いつかれたウクライナを、何としてでも救ってやりたいとも思う。五百旗頭真のこの本は、そんな分厚い久しぶりの良書だった。

('24/4/28)