
- 首相官邸および与党の自民党、新党さきがけ、社民党に宛てて以下のE-mailを発信した。小二を轢いたダンプ運転手の不起訴処分に関する疑問である。
- 「片山隼君轢死加害者の不起訴処分に関する新聞記事を見ました。また両親のホームページhttp://www.ask.or.jp/~tadkata/を読みました。あれだけ目撃証言を並べられれば、不起訴判断は誰にも不可思議に思えるでしょう。(担当検事の)転勤前のやっつけとも受け取れます。昔は4人に3人は起訴されていたが、今は8人に1人しか起訴されないと云うことでした。どうもご都合的恣意的専断的と思えます。検察のお上的対応も思い当たるところがあります。
- 司法の公明正大性が疑われると法治国家の基本が揺るぎます。司法の判断が透明になるようになんらかのチェック制度を導入する立法処置をお考えいただきたい。検察審査会を強化して、陪審員制にするのも一つです。司法試験を通った人にすべての判断を預けられるほど世の中は単純ではありません。」
- この手紙は被害者の両親にも私のエールとして送っておいた。その日の夕刊に「地検の(親に)説明の義務はない」という言葉は不適切であったとする法務局長の国会法務委員会での発言が報じられた。法相は「説明を制度化する」という。これは私の云う「お上的対応」の修正を意味する。私が本当に問題にしたいのは、上文最後の起訴不起訴さらには有罪無罪を誰が判断するかの問題である。
- 極端な表現をすれば、司法界は司法試験合格者だけが人である。だが、彼らだけでこれだけ多様化細分化専門化した社会すべてを正義をもって律する事ができると判断してよいだろうか。司法試験合格者のイメージは残念ながら暗い。「ただただ六法全書に取り組んで、100人に一人の試験合格を目指した」人が世の中の良識常識それから五万とある専門に対しても教養豊かに判断能力を持っているか。
- この疑問を抱いたのは会社勤めの頃重合触媒に関する特許係争に関わったときである。言葉尻の取り合い、揚げ足の取り合いとでも云うか、およそ化学とは別世界の討論であったという印象が今でも残っている。最近では、事件は何であったか忘れたが、医学教授に対する弁護団の反対尋問であった。あまりの程度の低さに教授が立腹していた。このときは、専門家が素人の司法関係者の見当違いの質問に辟易している裁判ではなくて、まっとうな専門家がレベルの高い質問で雰囲気を引き締めるような裁判であって欲しいと思った。
- 餅屋は餅屋。法の番人は法の番人でよい。しかし現在の司法関係者は社会百般すべてについて番人を演じようとしている。たしかに参考証言は聞くであろう。だが、今回の不起訴問題でもそう思えるが、聞く前に「不可思議な」「低水準の」自分の論理と結論あるいは思い込みがあるように見える。それが問題である。これは報道関係者がしばしば陥る落とし穴と同列である。環境問題が激しかった頃、記者は一応両方の意見を聞いた。しかし公害企業に擬せられた側の論理が表に出ることはまれで、説明に使った資料が曲解されて反対の論理に使われたと云っていた人がある。NHKまで反公害に「やらせ」をやった時代である。
- 法の番人は、陪審員の結論に見合った量刑を言い渡す役だけでよいのではないか。
('98/05/25)