極楽征夷大将軍(その二)
- 第3章は朝敵。210pを越える、これだけでも一編の中編小説である。廃帝・後醍醐前天皇が吉野で崩御されるまで。1333〜1340年の7年間の話である。建武の中興(新政)が破れて足利一族が朝敵になるまでが前半、それ以降が後半だろう。
- 「私本太平記の「建武らくがき帖」」('19)と「私本太平記の「風花帖」」('19)の中段あたりまでが本小説の前半に相当する。史実は変わらないが、解釈の違いは当然ある。吉川本に比べて赤松円心に対する記述が多い。彼は播磨国の西部にある佐用庄の地頭にすぎなかったが、正成に劣らぬ老巧な名将で、六波羅勢の壊滅には多大の戦功があり、後半の足利一門の都落ちでは、追跡してきた新田勢を地盤の小勢で食い止める。だが新政での後醍醐天皇は、彼を意識的に冷遇した。基本は後醍醐天皇と大塔の宮の反目で、大塔の宮(護良親王)の令旨のみで立ち上がった円心は、大塔の宮派に数えられたからと云う。恩賞は他と比べて少ない播磨1国だけの守護職で、新領地は下されず、しかも後にはその上の国司に、新田義貞を置いた。官位を与えられることもなかった。
- 大塔の宮は征夷大将軍に任じられてはいたが、後醍醐天皇に謀れて名和長年に捕らえられ、皇太子の位まで剥奪された上、足利の牢獄に送られ、その鎌倉東光寺の土獄で、のちに直義の配下に殺される。大塔の宮の悲劇は、目標の天皇親政が成ったと思ったとたんの事件で、両雄並び立たずを天子皇太子の間で地でいった惨劇であった。その親政が律令体制よりも、平安中世の皇族公家寺社による荘園による社会の支配体制を目指すものであれば、「犬」扱いであった地下の武士たちの憤懣が膨れあがり、足利尊氏を頭領にする反朝廷勢力になるのは当然であった。
- いきなり足利に地域勢力が集結したのではない。北条残党が直義の討伐軍を駆逐して鎌倉を占領した時もある。天皇とは別手形になる領地安堵で士の不平不満をなだめる行動を取った足利を後醍醐は朝敵と宣言し、鎌倉下向中の足利勢に対し、新田に追討を命じた時は、彼に従う地方軍団は足利を凌駕する勢いであった。氏単位のせいぜい千単位の軍団の集合離散の模様は、先述の赤松円心の例にもよく出ている。奥羽に下向した北畠親房・顕家が足利勢魔下の斯波一族を凌駕するほどの勢力を集めたが、北畠家は奥州に代々からの地盤があったわけではない。近江の佐々木のように、去就があやふやな一族も希ではなかった。
- 朝敵になった足利勢は都落ちをする時に、大覚寺統の後醍醐天皇に廃位させられた持明院統の光厳上皇より院宣をもらい、北朝軍という錦の御旗を立てる。円心の提案だと本書には書かれている。賊軍となり敗走を続けてはいたが、尊氏を慕うものが続々集まるという形勢であったから、新たな旗印が有効なカンフル剤になったのは間違いない。足利宗家は九州に落ち伸びる道すがら、四国や中国の諸国へ軍旗下の武将を派遣する。後世に云う国大将制の始まりで、やがて日本の各地で国大将が絶大な権力をふるい、さらに後年には、将軍家からは半ば自立した勢力になる。それが応仁の乱を起こし戦国時代を呼ぶ。
- 最終章は「敵対」。北朝方が優勢になり室町幕府の地盤が固まってゆく。足利の内部抗争が火を吹く。本HPの「観応の擾乱」(18)や「私本太平記の「黒白帖」」('19)に纏めてある。「観応の擾乱」は楠木正行の南朝伺候からで、「私本太平記の「黒白帖」」は義貞の金ヶ崎城が落城するあたりから始まる。本書では前者が最終章の中頃にさしかかったころ、後者が第3章の終わり頃だ。足利宗家vs執事高氏でもあり、直義vs師直でもあり、尊氏vs直義でもある「敵対」騒動を、登場人物の個人的感覚を通して物語ってゆく。これまでは直義や師直に任せきりで、お飾りの惣領を気取っていた尊氏が、まず師直を失い次いで直義を失うと、征夷大将軍に相応しい政治家となり武将に成長する、面白い1章である。
- 有力武家御家人などの向背裏切り寝返り離反与力同心が、日常茶飯事のように出てくる。信長秀吉家康の時代とは違って、足利征夷大将軍が謀反に烈火の如く怒っても、流罪程度の処置で、時世が変わると彼らが復活してくるときもある。一所懸命の武家の独立性がそれだけ高いと云うことで、足利一族内部の紛糾ではその程度だった。尊氏の兄弟愛は深く、南朝との和睦の条件だった直義厳罰は実行せぬまま、幽閉寺院で糟糠の妻を迎えての病死で終わらせた。直義は側室を持たなかった。例外は、それ以前の足利直義vs高師直の抗争だ。後醍醐が吉野に逃れ彼の有力武将がほぼ戦死し、尊氏が室町幕府の征夷大将軍になってから、権力争いが両者の間に持ち上がる。
- まずは師直派の柳営(幕閣)からの追放、だが彼らの反撃は強烈だった。高一族は主筋である尊氏と直義2人分の軍事力をはるかに上回る日本最大かつ最強の武門になっていた。師直軍2.7万が300の将軍と直義のいる屋敷を囲む。直義側の首謀者2人は流罪だったが斬られる。「御所巻」と言う一連の軍事行動と政変だった。その後の室町幕府の悪しき慣行になったとある。最後の戦いは高氏に対する直義の、北条得宗家が見せたような、対立勢力根絶やしの峻烈さだった。僧形の高氏降人、家人を含めての何百人、がすべて直義の配下に斬り殺された。
- 直冬にはかなりのページが割かれている。尊氏の長子だが私生児で、尊氏が父親視されることを嫌ったのを受けるように、直義が養子にする。既に青年で尊氏の嫡男・義詮の3つ年上だった。彼には尊氏の壮年期まで続く、優柔不断で定見のないその場逃れで世を過ごすような面がなく、若年のときより武将の頭目としての素質を備えていた。南朝勢の蜂起を鎮める22歳の初陣に才能を発揮する。しかし師直やその他の足利一門には危険人物に映った。彼は体よく西国へ追いやられる。直義が晩年に尊氏と戦いあげくは病死する羽目に陥った時は、敢然と西国の大軍を牽きいて尊氏を京に追い詰める。しかし正面対決を避けたために幸運の神から見放される結果になる。そのころになると、尊氏が真の武将としての器を開花させていたのも、彼には不運であった。
- 楠木正成死後11年に世嗣・正行は500で立ち、細川軍山名軍は蹴散らしたが、師直が出陣した4万の大軍には抗しきれず、四条畷で討ち死。2年後だった。南朝は既に後村上天皇の時代に入っていた。直義は、尊氏と最後の仲違いをする前は、南朝北朝の和睦交渉を進めていた。師直討伐の挙兵の時直義は南朝側に与した時があり、南朝側の楠木正儀(正成3男)とパイプをつないでいた。直義が鎌倉で死んだころ、南朝軍を率いて一時は京を占拠したこともある、正成譲りの武略に優れた大将だった。
- 彼はもともとは和睦推進派だった。だが肝心の後村上が後醍醐以上に頑迷で、進捗は見られなかった。その主張は、北朝を認めず尊氏の奪った天下を南朝へ戻し、南朝方である公家や武家の以前の荘園と所領を、すべて返却するというものだった。正儀は夜郎自大の境地へと陥っておられると表現した。その後も主戦派とは合わず、時代が移って南朝・長慶天皇、第3代将軍義満のころ、正儀は北朝側に投降する。
- 尊氏は54歳、直冬軍との京都での市街戦から3年の後に他界した。
- 京洛を目指して10万を超す大軍が攻め寄せてくる。こんな記載が各所に出てくる。平安末期の人口は、鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」、講談社学術文庫(2000)によれば、全700万ほどで、うち関東が160万、九州+四国+山陽が同じく160万ほどだ。遠征軍にこれほどの兵力が集まるとは、人口論から云ってちょっと信じられない。細かい兵員分析を知りたいと思った。
('24/1/19)