極楽征夷大将軍(その一)
- 垣根涼介:「極楽征夷大将軍」、文藝春秋(2023)を読む。'23年直木賞受賞作品である。征夷大将軍とは足利尊氏で、極楽という冠が付いている理由は、又太郎といった少年時代に、周囲から「極楽蜻蛉」と思われ、極楽殿とあだ名されていたからだ。文庫本ほどの小さい活字で2段に分けて紙面いっぱいに印刷して550p。長編歴史小説だ。だいぶ昔になるが、吉川英治の「私本太平記」(本HPに同名の記事(帖ごと)あり)、山岡荘八の「新太平記」は読んだことがある。尊氏は、北条、足利に朝廷勢力が三つ巴でからむ壮大な抗争絵巻の中のひとりで、作家の新規な切り口が楽しみである。
- 第1章の「庶子」は、後醍醐天皇の笠置山挙兵まで。'22年のNHK大河ドラマ:「鎌倉殿の13人」では、千葉、梶原、比企、畠山、和田ら有力郎党御家人が、たいていは一族単位で誅殺されている。幕府側も同じだ、新田勢に敗れた北条得宗家の前執権・高時は一族600名とともに東勝寺で自刃し、朝廷側に追われた六波羅探題の仲時は蓮華寺で一族432名とともに自害した。一族を牽きいる惣領の責任は、今日では想像が付かないほど重いものであった。
- 北条執権時代の御家人にとって、北条一門ことに得宗家との婚姻関係は、反逆疑惑から逃れるために、一族にはほぼ死活に関わる重大事項だった。重婚が許されるという社会通念は、その逃げ道に活用される。足利家は御家人最大の勢力であった。北条も持ちつ持たれつの関係が必要だった。北条の支配力にかげりがでると、足利引き留めの優遇策が出てくる。足利は、北条の監視を意識しながら、対抗勢力への目配りも必要だ。
- 尊氏、直義兄弟は側室の子で、足利宗家は正室の長男が嗣いだ。兄弟はいずれわずかな所領を与えられ分家して、連枝衆として飼い殺しの生活を送る運命だった。だがその長男が急死し、彼には幼子はいたがその子が惣領の役割を果たせるはずがなく、尊氏にお鉢が回ってくる。高氏父子(師直、師泰)は執事として存分に働く。尊氏は既婚だったが、新たに幕府最後の執権・赤橋守時の娘を正室に迎える。互いに婚姻関係を必要とする時代に入っていた。朝廷からは庶子には異例の官位授与を取り付ける。
- この章は、歴史を動かすことになる人々の、性格とか考え方の描写に力点が置かれている。尊氏は茫洋としていて時勢に逆らわないが、高い立場で広く観察できる人となりに描かれている。直義は、兄とは対照的に、勉学に励み論理的に突き詰める真面目な性格になっている。高氏親子は、執事として、歴代足利宗家を守り通してきた。師直の政治家肌に対し師泰は直情的武断的だが、足利の兄弟同様、高の兄弟も一致団結していて仲がよい。
- 第2章は「波上」は鎌倉幕府滅亡までを綴る。題名は、第1章の冒頭に出てくる少年期の尊氏兄弟の海辺の遊びに関して、成長した尊氏が、人生は波上の棒切れのように時世に翻弄されつつ送らざるを得ないものと答えた話に基づいているようだ。
- 後醍醐天皇が笠置山で倒幕の旗を挙げた(馳せ参じた兵3000)。楠木正成がわずか500の手勢で赤坂城で呼応する。六波羅探題は畿内で徴募を行い、7万5千の軍勢(探題筆頭の2人・仲時と時益は前執権・高時と叔父甥の関係にある得宗家に最も近い重要人物で、おそらくその内の5千ほどは関東からの直属の兵であったろう。)により、掃討にかかる。圧倒的兵力差にも拘わらず陥落しない。焦った幕府(実権は高時)が鎌倉遠征軍20万余を出す。大将(全3名)の1人に尊氏を指名してきた。あとの得宗家近縁の2人は身上は小さく、一門以外の御家人を牽きいるには力不足だから、尊氏を指名したとある。この次の第2次遠征軍での足利勢は7千ほどだった。
- 遠征軍到着前に笠置山は落ちた。帝は囚われる。1ヶ月近くかかった。正成は奇想天外の戦術で六波羅を翻弄し続けている。正成は将軍の家臣の御家人ではなく、執権の家臣の御内人だから陪臣だ。後日の尊氏の論功賞などで、こんなところが芽を出すのではないかと思う。尊氏は御家人大軍団の中で、次第にその人柄からか、実質はまだ一度も戦闘の指揮を執ったことがないに、源氏準嫡流の棟梁であることもものを言って、将中の将という評判を取る。実際は直義が時には脳天気と酷評する自然児だった。第1章を受け継いで、この尊氏の人となりの歴史に占める役割を作者は強調する。
- 赤坂城は陥落し、正成は護良親王とともに姿をくらました。だが年が改まると再び倒幕活動を始める。第2次遠征隊が組織される。幕府は尊氏の大将指名に躊躇した。源氏棟梁の異常人気に、北条一門が万一の疑念を抱き始めていた。3万の関東増援軍を入れたが、10万の六波羅軍はまたも攪乱戦法に打つ手なしになって行く。後醍醐天皇が隠岐を名和長年のもとへ脱出、赤松円心の部隊が、老獪に北条加担御家人勢を撃破し、次第と近隣の勢力を吸収し、六波羅軍をじりじりと京へ押し戻し尼崎まで進軍してきた。
- もはや悠長に構えてはおられぬ。第3次遠征隊大将の1人を、尊氏はしぶしぶ大将を引き受けた形で一門のの3000を牽きいて先発する。北条はもはや将と言える器のある人材が払底している。20歳の若造・名越高家を大将に7千の後発隊を発進させる。監視部隊でもある。街道筋には足利一門の領地が繋がっていた。後醍醐天皇の綸旨が届く。得宗家から受けた反逆疑惑の結末を歴史で知っている一門各将は、一致して倒幕を決意する。尊氏をお飾りにする直義、師直の緻密な実務が、これからの軍略と政略を成功させることになる。足利の兵力は後発隊と匹敵する数になった。
- 赤松勢8千は山崎に布陣した。名越+六波羅の1.7万は、桂川を渡河するところを狙われ、主将を射殺させ総崩れとなった。丹波路の足利尊氏は、円心に朝廷軍への寝返りを宣言する。すでに新田義貞には蜂起を促す密書を送っていた。篠村八幡宮で挙兵を正式に表明。篠村八幡宮は、明智光秀が謀反を重臣に打ち明けた場所としても有名だ。一族の上杉家の荘園に近く、遠征できている足利軍の兵站基地としての意味があった。
- 足利軍2.3万が老ノ坂から、赤松軍1.5万が西国街道から探題を目指す。近江の六角と京極が降伏してくる。六波羅勢は惨憺たる末路になった。時益は東山で野伏に射殺され、仲時は米原東の蓮華寺までは落ち伸びたが、退路を断たれて、天皇と上皇を安全な場所に移してから自決した。
- 新田義貞軍は怒濤の勢いで鎌倉を占領した。尊氏の要望通りまだ幼い千寿王を大将に戴き、近隣の部門に檄文を飛ばし、たちまち2万の軍勢を集め、総攻撃前には10万に膨れあがっていた。鎌倉在住であった足利の妻子は、挙兵のころは新田の領内に逃げ込んで無事であった。尊氏の正妻は執権・赤橋守時の妹だったので、守時には尊氏から戦乱を避けるように密使が行っていたが、守時は北条の柳営に殉じた。
('24/1/19)