まちがえる脳
- 桜井芳雄:「まちがえる脳」、岩波新書('23)を読む。BingチャットやGoogle BardのAIは平然とウソをつく。「大規模言語モデル」のAIの学習方法は、ある種のフェイクを起こす原因になっている(「生成AI雑読」('23)、「ChatGPTあれこれ」('23))。似て非なるものとは云いながら、「まちがえ」について、生の脳とAIの双方のメカニズムには類似性があると思う。
- 序章は「ヒトは必ずまちがえる」で、第1章「サイコロを振って伝えている?〜いい加減な信号伝達」に続く。魚からヒトまで脊椎動物のニューロンは基本構造は皆同じ。これはニューロン実験をやりやすくしている。信号が発火してニューロンを伝わる機構は、もう分子化学的に判っている。でも最初の発火は、どこから自発的に出るのか判らない。
- ヒトの脳には約1000億のニューロンがあり、その8割以上が小脳にある、でも大脳皮質のニューロンには、緻密に相互に繋がっているという特徴がある。1つのニューロンに軸索が数1000個あり、それがシナプスを介して他と繋がっている。ところが繋がっていても1つの結合間で信号が伝わる確率(シナプス貢献度)はごく低い。LSIの連結素子間なら貢献度1(必ず伝わる)だが、0.02〜0.25しかない。
- ニューロンは不規則にいつもぼろぼろと発火しているが、例えば集中時や正解時には、同期発火という現象が起こる。貢献度の低い結合でも数多くが一斉に発火を伝えてくると、シナプスを通して信号がニューロンの膜電位の閾値を超す電位に達し、そのニューロン自身が発火する。蛍の集団が見せる同期的な点滅はTVで紹介されたことがある。蛙の合唱もそんなものかと思う。ニューロン集団自体か、それを含むより広範囲なニューロン集団が同期発火させている。人間社会とかコンピュータ・ソフトのように、上から下へヒエラルキー的な制御が行われるのではないらしい。
- 第2章は「まちがえるから役に立つ〜創造、高次機能、機能回復」。
- まずは機能回復について。当たり前に不自由なく生活していた成人(2児の父親になっていた)が、頭部のCT写真で生まれつきの水頭症(一般人の1/4ほどの脳しかない)だったとか、数学の秀才が一般人の10〜20%の大脳しか持たない水頭症だったとかは衝撃的な話だ。生まれたときから小さい脳として成長すれば、大きい脳と同様に働きうることがある。生後手術で大脳半球を切除したヒトも、時間がかかるが、昔と変わらぬところまで回復した例がある。言語障害まで回復することもある。
- 小脳を失った子供が、不自由ながらも、遊び回れるほどになった例もある。高齢者は脳挫折からの回復が難しいとされていたが、実際は信号先端の例えば筋力の衰えなどが問題で、脳だけの回復は結構進んでいる場合がある。アルツハイマー症で脳ががらんどうになったヒトでも、20年を経てまだ通常に生活するケースが見つかっている。コラムには宇宙飛行士が長期間無重力状態に留まると、帰還した時は自力では立てなくなる、そして脳構造はかなり変化が見られる。宇宙移住は話題になっているが、脳生理学的には詰めねばならぬ問題が多い。
- ありのままの脳状態を見るには、fMRIが有力分析機器だ。だが解像力は数mm程度で、しかも実際に測定するのは血流だから、ニューロンの観察ですら盲人がゾウの足を撫でる感じからそう抜けきっていない。神経線維(軸索、シナプス、樹状突起など)のダイナミックな信号伝達を直接観察する方法はまだ存在しない。切り取った生きた状態の神経片に、人工的刺激を与えて反応を見るとか、人間ことに上段記述の如く脳欠損人の長期観察で推論するとか、靴の裏から足を掻くような研究で、しかも人体で最も複雑な機能の脳・神経を解析しているのが現状だ。
- ニューロンは、夜空の星が瞬くように、刺激とは無関係に自発発火を繰り返す。これをシナプスがいちいち隣に伝達していたら、脳は焼けただれるだろう。だからニューロンの信号伝達は低確率なんだ。本当の伝達には、だから、周囲が一斉に同期発火する。でも周辺の瞬きは止まないし、それが「絶え間ない自発的なゆらぎ」を引き起こす。ゆらぎはエラーに繋がる。予期せぬエラーが今までになかった回答であって、斬新なアイデアとか発想になることもあろう。脳が創造を生むプロセスは、遺伝子のコピーミスから起こる生物進化のプロセスに似ている。
- 記憶は脳の信号伝達の確率を向上させる。学習による記憶が、次回の同一刺激に対するより正確な出力に結びつく。記憶が十分形成されたあとは、ニューロン集団発火は減少する。ちょっとの発火で信号が伝わる回路が出来上がっている。二光子顕微鏡がシナプスの変化を高解像度で撮影できるようになった。高頻度信号によって受け側の樹状突起にあるスパイン(棘)が、つまり受け皿が、大きくなって発火しやすくなる。この「入力信号が特定の経路のみを流れる」ようになるのが記憶だという。ハードディスクではないが、記憶痕跡細胞(エングラムセル)を突き止める研究が、光遺伝学活用で進んでいる。
- それでも記憶は変容しやすく正確ではない。見方を変えると、神経回路の構造と機能は固定されておらず、柔軟だ。機能回復で出てきたように、フレキシブルに脳の欠損や損傷の機能代行が行われる。神経回路はまちがえることがあればこその回復だ。まちがえるとは進化の源でもあると既に述べた。まことに神秘な機構だ。
- 第3章は「単なる精密機械ではない〜変革をもたらす新事実」。神経機能が第2章に述べた方法以外からも支えられているらしいと判りだしている。ニューロンの介添え役・グリア細胞の1種類に、神経伝達物質の受容体があり信号伝達に関与している。別種類のグリア細胞は、軸索に巻き付くミエリンの間隔を通じて信号伝達速度に関係している。また学習により記憶が増すとミエリンの太さが変わる。伝達は電気信号だけでなく物理的圧縮波によるものもあるらしい。ニューロンもグリア細胞もない脳の隙間、脳の20%を占める間質液も相応の神経伝達を担っているらしい。
- 「思ったら(ニューロン発火)」「報奨(餌)が貰えたり貰えなくなったりする」実験は、心が脳を制御していることを証明する。同期発火も自ら制御できる。「病は気から」がウソではない場合がいくつも上がっている。パーキンソン病患者のプラセボ効果は偽薬でも偽手術でも現れることがある。患者は改善していると信じて、脳にそう働きかけたためと受け取られる。脳内麻薬が、「騙された」心の働きで、高濃度になったためと分析結果は示す。
- 本章の最後の節は「AIは脳になれない」だ。変化自在の脳はちょっとやそっとではモデル・プログラム化できないことは、本節までの説明でよく判った。ヒトは全長1mmの線虫の神経回路構造を解明し終えた段階だ。ニューロン数302個だった。ヒトのそれは1000億個。自動車の完全自動運転やブレイン−マシン・インターフェース(BMI)で人工の手を動かすような、ヒトの安全に直結するAIは、ヒトのレベルにはなかなか到達できないだろう。しかしチャットGPTのような、人の集積遺産を大量に学習して、「ウソつきごめん」前提で働くAIは、今や私の寵児である。今後はAIは半ば真面目半ば不真面目な、賢くてアホな、脳とは似て似ない、愛玩動物のような役割を、少なくとも私があの世に逝く頃までは演じ続けることであろう。
- 第4章は「迷信を超えて〜脳の実態に迫るために」。
- 12/4の毎日に、量子科学技術研究開発機構(QST)などによる、生成AIを活用して、頭の中で思い描いた画像をある程度まで復元する研究(昨11/30発表)が紹介された。被験者に大量の画像を見せる。そのときの脳のfMRI信号立体地図を作る。AIにも同じ画像を見せ、色や形、質感など約613万の指標からなる「採点表」を作成。脳活動の記録と採点表を照合させ、新たな脳活動の記録を入力すれば新たな採点表が出力されるプログラム「脳信号翻訳機」を作成した(ここがミソらしい)。次に別画像を被験者に見せてから時間を置いて思い出させ、fMRI脳信号を取り、この翻訳機で採点表にする。その採点表を基に、別の生成AIに画像を復元させるとある。
- 本書は「口を酸っぱくして」ニューロンがある程度の受け持ち分担の傾向は示すものの、変化自在で融通性に富んだ存在であることを説明する。脳に先天性あるいは後天性欠陥があったあるいは出来た場合については、既に説明したとおりだ。言語機能が左脳で優位なヒトが多いぐらいは言えるが、左脳と右脳にそこだけにしかない特定の役割などない。言語だって左脳だけの働きではなく右脳の協力が入っている。左利きの言語機能は、左脳にあるヒトは70%と低く、残りは機能を右脳かまたは両方に置いているという。個人個人で言語野すら位置がばらばらだという。
- 脳構造差を差別主義の科学的根拠としようとする研究は現在も続いている。白人優越論、女性蔑視論はその代表だ。それが成功したとはとても思えないようだ。脳は日常は10%しか働いていないとは、昔聞かされた覚えがある。だがこの説の根拠となった大脳皮質のお休みどころは、実は連合野で高次機能を司ると判ってきた。fMRIは脳内活動を検知する貴重な手段で、近年研究はこれに負んぶするところが大きい。脳は常に全体で活動しているが、fMRIデータは対照様態との差し引き表示をするから、血流が数%上がっただけの位置を強調した鮮やかな画像として送り出す。素人どころか研究者さえ間違えやすい。血流=神経活動量とも言えない。機能が向上すると血量は減ってしまう。
- 脳は単なる役割分担の集合ではない。ニューロンには多能性があって、本来は聴覚野なのに視覚入力に繋ぐと視覚野の働きをすると云う。条件一定で、入力と出力の関係を求める今までの実験方法が通用しない場合が見出されている。複合状態ではじめて発火する場所細胞が見つかっている。MBIによりニューロン指示で筋肉を動かす研究がある。でも「ある日の脳地図は次の日にはもはや確かではない」とある。
- さて本章最初に紹介したQSTなどの実験に戻ろう。本書の心配から云えば、脳信号と絵の関係は時々刻々と変化するというのだから「脳信号翻訳機」は極端には測定のたびに更新する必要がある。また人ごとに脳の機能地図は違うのだから、人ごとにこの翻訳機が必要だと云うことだ。QSTは、言葉を介さない新たな意思伝達装置の開発を目指していると云うが、それにはまだまだ何段ものブレークスルーが必要で、かつ最後の結論が研究は無意味だったで終わる可能性があると思わせる。
('23/12/6)