世界を動かした日本の銀
- 磯田道史、近藤誠一、伊藤謙、仲野義文、石橋隆、福本理恵:「世界を動かした日本の銀」、祥伝社新書(2023)を読む。'22年の関連講演会を書籍化した本という。豊臣家から徳川家に支配が移ったころの話を知ってから、石見銀山への旅行は何度か計画したがついに果たさなかった。この年齢では機会はもう来ないだろうと思い、本書を読む気になった。
- 第1章は磯田道史:「世界を動かした日本の銀」。
- 日本は、11世紀に入って、それまでの世界の最貧国状態から飛翔する機会をつかんだ。最初にそれをつかんだのが平清盛で、宋銭は主要輸入品目だった。世界帝国・元になると銀銭の比重が高まる。銅銭は重い上に中近東やヨーロッパでは通用しない。中国で余りだした銅銭を輸入して、室町幕府は、財政基盤にする。幕府の直轄地は少なかった。貨幣経済は産業商業を振興する。15世紀(明)には中国との交易は銀本位になる。だが中国国内と周辺の銀産出量は少なかった。
- 石見銀山は16世紀中頃に灰吹法導入で銀生産が順調になる。それが明の旺盛な銀需要にマッチする。日本の銀輸出量は、中国総輸入量の7割を占めるようになる。中国の銀本位性が安定し、中国のGDPは1700年頃から急激に伸長する。輸出に占める石見銀山のシェアは大きかった。
- 日本の輸出品は、奴隷、兵士、硫黄、刀剣といった品しかなかったが、貴金属輸出が大量の富を呼び込み、国内の経済が活性化し、一人あたりのGDPも1820年には、西ヨーロッパ(産業革命開始半世紀後)の半分強だが、アジア諸国ではトップの位置に登る。富の好循環ぶりは民の抜群に高い識字率に出ている。特に女性の識字率の高さは特筆すべきものと書いてある。
- 好対照なのは、スペインが掘ったポリビアのポトシ銀山の銀である。原住民のインディオが鉱山労働に強制的に狩り出され、800万人が死んだとある。ポリビアの一人あたりのGDPは、今でも隣のペルーやチリの半分だ。儲けはすべてスペイン人の懐に入り、原住民は過労死病死の奉仕だけに終わったのであろう。残忍な話である。
- 覇者は石見銀山の価値を見逃さなかった。だが秀吉は鷹揚(毛利懐柔)で、ある年の全産額22000枚のうちの49枚だったという。秀吉には生野銀山があった。家康は強欲(毛利抑圧)で、関ヶ原の戦いからわずか10日後、石見銀山の天領化への手を打っている。NHK「どうする家康」でこんな話が出てくるかどうか。銀産出量は1700年代の終わり頃には、鉱脈が疲弊してしまって、17世紀のころの1%ほどになってしまう。
- 第2章は近藤誠一:「世界遺産登録の舞台裏」。
- 近藤氏は、石見銀山の世界遺産登録当時のユネスコ特命全権大使である。ユネスコの専門家の諮問機関は一旦は登録延期の判断を下したが、1.5ヶ月のちの世界遺産委員会で登録に決まった。「何事にも短期の政治経済優先の国連にあって、100年先の地球環境に目を向けた100年昔の文化遺産の価値を正しく評価することで、蟷螂の斧の嫌いはあるが、国連のあるべき姿へ一矢を放った。」と言うお話である。技術的価値は灰吹法。世界の銀生産の1/3を石見銀山だけで占めていた時代があった。文化的価値は環境保全(周辺の森林資源維持)と木造建築集落の維持状態である。
- 第3章は仲野義文:「石見銀山の歴史的価値」。
- 仲野氏は石見銀山史料館館長。登録エリアには、鉱山と鉱人集落(太田市大森町)のほかに、3つの山城あとや、2つの出荷港にいたる銀山街道までを含む、広大な地域である。家康の初代代官・大久保長安は、もと武田の臣で、金山奉行の経験が買われたらしい。水平坑道(横相)を掘り、直交する鉱脈坑道を維持するのに便利で、産出鉱石を能率よく運び出せるシステムにしたという。
- 私は灰吹法を南蛮吹きとして知っていた。本書には出てこないが、銅の精練に於いて粗銅から金銀を分離する方法で、南蛮人から教えられた(1590年)方法を、16世紀末頃に住友が実用化した。石見銀山の灰吹法は、16世紀中頃に朝鮮から伝わったという記事が朝鮮の史書に出ているという。生野銀山や佐渡金山にも遅くとも17世紀には伝わった。ウィキペディアには、「紀元前2500年頃には,銀を含んだ鉛鉱石から灰吹き法で銀を作ったことを示す残渣がアルメニアで発見されている。」とある。
- 銀鉱採掘から丁銀や豆板銀までの工程で、いかほどの労働者がどんな組織と環境で働いたのか。鬼平犯科帳「一本眉」に、鬼兵が流刑人に「佐渡(金山)はこの世の生き地獄」と諭すシーンがある。ポトシ銀山で見たインディオの受難は既に紹介した。つい暗い妄想に走りがちだが、石見銀山の労働事情はどんなものだったのか。人買いで集めた奴隷や重罪囚人、戦中なら敵の捕虜と言った人たちが、タコ部屋以上の悪い環境で、牛馬の生活を強いられていたのではないか。代官支配所や富裕商人の屋敷が残り、町役人の子孫も生活しているという。資料はないのだろうか。坑道の絵図面は出ていたが、坑夫への疑問に対する答えは、本書には記載されていなかった。
- 大森の町並みは江戸時代の雰囲気をそのまま伝えている、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。私は宿場町を訪れるのが好きで、あちこち見学したが、町並みの写真は、木曽路の奈良井、妻籠、馬籠などを思わせる。
- 第4章は石橋隆:「江戸時代の鉱石標本の発見」。
- 石橋氏は大阪大学総合学術博物館研究員。町役人宅で発見された鉱石標本について語る。時代劇で出てくる「石見銀山ネズミ捕り」とは、Bingチャットによると、江戸時代に石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石すなわち硫砒鉄鉱(註:笹ヶ谷は銀山からは100kmほど離れた津和野の近くにあり、銀山の標本にはもちろん含まれていない)を焼成して作られた殺鼠剤(ねずみ捕り)で、現在では使われていませんとあった。江戸初期では高品位鉱石を露天掘が出来たが、時代が下るにつれて地下鉱脈を坑道を掘って採掘するようになる。亜鉛銅鉛が混じる。後期になると銅鉱石が積極的に掘られるようになる。ポトシ銀山でも今は錫鉱石を掘っているそうだ。
- 第5章は「座談会・次世代に残すために」。
- 大森町文化財保存会は'57年に町民全員参加で作られたという。ユネスコ登録の半世紀前。ヨーロッパなどの町並み紹介を見ていて、うらやましいのは石造りであることだ。我らの木造建造物は、放置しておくとたとえ火事地震が無くとも、どんどん朽ちてゆく。おそらく石造りの10倍も100倍も劣化が速い。建て替え圧力もある。今後は歴史遺産の町々共通の人口減少、高齢化、観光客の減少などの重荷を、大森町も背負ってゆかねばならぬ。
- 古民家見直しで、カフェとして再生されている例は、NHK:「ふるカフェ系ハルさんの休日」で毎週紹介されているが、これは個人住宅単位。町並みとなると、住民総員に文化遺産自然遺産に対する確たるアイデンティティが必要だ。新日本紀行「木曽妻籠宿」で妻籠の景観保存事業の紹介があった。保存条例成立は'73年だったという。街道の宿場街は保存された例はほかにもいくつかある。三国街道の塩沢のように、町の雰囲気を再建したところもある。しかし古い旅行案内書に、例えば、「武家屋敷群」などと記載されていた町並みで、今日まで過去の姿を残しているものがいくつあるだろうか。「門前町」も同様。都市部となると京都や金沢の茶屋街を除いたら、まずは全滅である。
- 8/6の広島、8/9の長崎の両記念日で平均年齢が85歳となった被爆者が、口々に、原爆反対の思いをどう伝承すべきかの悩みを、記者に語っていた。第5章の内容に通じる話であった。
('23/8/10)