飛び道具の技術文化史

宮崎県立西都原考古博物館特別展:「飛び道具の技術文化史~旧石器時代から西南戦争まで」、展示図録('22)を読む。「にっぽん丸"春の船旅"(その二)」('23)に紹介したように、クルーズ寄港先で参加したオプショナル・ツアーの中にこの博物館があり、特別展そのものは終わっていたものの、題名に興味をそそられてこの図録を買った。
私は「リニューアルの歴博第1展示室」('19)に「フィリッピンのコロン島の土産物屋を見たことがある(「悠久のオリエンタルクルーズZ」('18))。そこには昔未開であった頃の戦士が手にしたであろう木製の盾が木彫りで並んでいた。盾を左、槍を右手に褌だけの半裸の戦士の木彫りがあった。だが弓矢のような飛び道具は見当たらなかった。たまたまかどうか知らないが、実戦に使える飛び道具の製作は技術的に難しいものなのだろう。代わって使われる飛び道具が吹き矢である(「日本人はるかな旅展」('01)、「西ボルネオ紀行」('18)、「ブルネイとマレーシア」('19))。」と書いた。新Bingにチャットで聞いてみると「東南アジアの石器時代の遺跡からは、石鏃が出土しているという記録があります。」と回答してきた。
吹き矢の遺物を見たことはない。論じられたこともないと思う。でも弓矢が必ずしも飛び道具の始まりではないと認識して本書を読み出す。日本では縄文遺跡から石鏃が遺物として出土することはよく知られている。南九州で特異な関係遺物は縄文草創期の矢柄研磨器だ。この地方はそれまで人の痕跡が連続的でなかったのに、草創期の14000年前から急に遺跡遺物の出土が多くなる。その中に悩ましいことに1遺跡だけから石製の矢柄研磨器が石鏃と共に出土した。
矢柄研磨器とは矢柄(シャフト)を真っ直ぐにかつ表面を滑らかにする道具である。多分当時も矢柄には細めの竹を用いたであろう。目標に矢がより正確に直進するように、節や表面を直径に合った凹みの入った研磨器に挟み砂を研磨剤にして磨く。曲がりも温湯を同時に使って直す。現在の和矢作成法を参考にすればそんなものだろう。現在の矢柄研磨器も似たような構造だが、石製もあれば木製もある。出土遺跡以外では木製だったのかも知れない。弓矢(石鏃以外)と同じくこれら有機物は全部腐敗して証拠として残らない。考古学は大変だ。
矢尻とか槍の先端とか石刀とわかるものはまだいいが、中間的な遺物はわかりにくい。南九州では姶良火山大噴火の3万年昔以前の旧石器時代遺物に、細石器マイクロリスと言うナイフ系石器が出てくる。棒に植え込んで細石刃にする話は、「日本人はるかな旅展」('01)で覚えた。このマンモス・ハンター系と矢柄研磨器系はどんな接点を持つのか、まことに考古学は大変だ。
「生物としてのヒトの特徴」として「自分よりも大きく重い獲物を仕留める霊長類」という見方を載せている。チンパンジーも狩猟を行うが、獲物はせいぜい自分の1/3ほどだ。マンモスハンター的狩猟はヒト独特のもの。それが旧石器時代から行われてきた。日本列島のナウマンゾウは、たちまちのうちに獲り尽くされたことは知っている。しかし縄文時代早期(7500年前頃)に、石製の銛で捕鯨が実践されていたらしいとは知らなかった。海面上昇で狭い平戸瀬戸が開通し、そこを遊泳するようになったクジラを獲ったと考えられる。岸から石銛を投射・刺突した。捕鯨可能の条件は長くは続かなかった。海面上昇で水深が深まり瀬戸の幅も広がったからである。現在もナガスクジラとかコクジラが往来するらしい。
弥生時代中期の弓矢猟が銅鐸に描かれている。魏志倭人伝は弥生時代後期の日本を描写するが、矢は鉄の鏃あるいは骨鏃を竹の矢柄につけたもの(箭)で、木弓を下を短く上を長くして使うと書いてあるという。現在の弓道場のイラストでは、弦の中央に矢を番えるものや倭人伝式の弓構えをするものの両方が出ている。流鏑馬でも双方が見られる。本書には倭人伝の方法は弓矢漁に向いた使い方であるという。倭人伝が描く日本はおそらく北九州であろうから、九州はもともと弓矢の技術に優れた土地であったのかも知れない。私は30年ほど前に大分に勤務していた。弓道が盛んな土地だった。
弩は弥生時代にはすでに本邦で知られていた。大陸ではこの技術は発達著しく、TVでときおり紹介される実射の模様では、飛距離命中率共に驚異的と思えるほどだ。なぜか我が国ではその後使われなくなった。復活したこともなかった。大陸での戦闘に比べて我が国でのそれでは、きっとより小回りが利く兵器の方が好まれたのであろう。古墳時代に入ると、二段逆刺(かえし)鏃を備えた殺傷力に富む矢が生産される。奈良・平安時代を過ぎると遺物として弓矢を出土する機会はごく希になる。代わって絵画とか文献資料にその証拠が求められるようになる。
元寇で日本は初めて火薬を用いた飛び道具「てつはう」を経験する。太平記にそのさまが記述されている。「鼓を打て兵刃既に交る時、鉄炮とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事下坂輪の如く、霹靂する事閃電光の如くなるを、一度に二、三千放出したるに、日本兵多焼殺され、関櫓に火燃付て、可打消隙も無りけり。」新兵器に度肝を抜かれた様子が活写してある。海底から「てつほう」実弾が陸揚げされ解析された。鉄の短冊や陶片を殻の中に詰めて、黒色火薬爆発により四散させ、殺傷力を高めたという。証拠はないが4kgほどの「てつほう」は投石機で投げつけられたらしい。中世のある山城には大型の「つぶて石」が曲輪に貯蔵されていた。投石戦争も昔から行われていた。
この投石機による爆弾は日本でその後実用化されなかった。「もののけ姫」に爆雷が登場したことは覚えていたので、新Bingにより、作者は「平安末期から鎌倉初期を想定して描いた」と発表していると知った。元寇以前だから、もののけ姫のこのシーンは絵空事だったわけだ。
飛び道具に関する次のエポックは火縄銃伝来だ。先日NHKブラタモリの「種子島」編が放映された。1543年に漂着した倭寇船(中国船)のポルトガル人から、鉄砲2丁を現在価格で1億円ほど支払って入手したという。国産化の理由に、戦国時代のニーズと、種子島海岸では良質の砂鉄を産したことを挙げていた。新Bingに国産化の苦心を聞いてみた。「当時の日本にネジの発想がなかったため、銃身の底は焼きしめて塞いだ。そのため火薬の滓を取り除けずに不発や爆発を引き起こした。招聘された刀鍛冶は悪戦苦闘しながらネジの仕組みを完全理解し、わずか一年で鉄砲の国産化に成功した。」というのがその主旨だった。ブラタモリにも似たような発言があった。それから30年後の島津氏での、軍事および狩猟両面での普及状態が重臣の日記から推定されている。
最後のトピックスは西南戦争小銃弾丸遺物。新Bingに尋ねると、「スナイドル銃は西南戦争で政府軍の主力装備として用いられた。薩軍も使った。スナイドル銃は、後装式ライフル小銃。金属製の薬莢に発射薬として黒色火薬を詰め、雷管を叩けば爆発して弾を押し出す仕掛けになっている。農民層からの徴兵を主体とする政府軍は銃撃戦で士族中心の薩軍と対峙したため、陸軍省は諸外国の商会を通じて大量の弾薬の調達に奔走し、清国から弾薬を借用する交渉まで進められていた記録が残されている。」と出た。
本書にはエンフィールド銃(紙薬莢、金属薬莢の両方がある)、ツンナール銃(紙薬莢)なども顔を出す。鉄弾と鉛弾が使い分けられている。薩軍が鉛不足で打ち込まれた敵鉛弾を回収再生使用したという記事も見かける。図録の写真は薩軍の敗色が濃い宮崎の戦場での収集品で、何と6mほどしか離れていない至近距離で撃ち合っているという。両軍とも(ことに西郷軍では)全部ではないにせよ、当時世界最先端の小銃を使っている。現在の猟師が獲物を仕留める時の猟銃との距離が、これも6mぐらいだということで、まともに殺し合う距離は、弓矢鉄砲いずれでもそう変わらないという点に注目している。

('23/6/10)