ゼロからの「資本論」
- 斉藤幸平:「セロからの「資本論」」、NHK出版新書('23)を読む。本HPの「高校生の経済学」('08)に、私の経済学遍歴を載せている。「私の経済学がものにならなかったことだけは事実で」と書き、その理由の1つにマルクスの「資本論」の難解ぶりを例に挙げている。本書題名の「ゼロからの」は「経済学にはさっぱり無知無縁である大衆の立場からの」と言った意味合いのようなので、性こりもなくまた資本論に首を突っ込むことにした。
- 本HPには「人新世の「資本論」」('22)があって、同じ著者・斉藤幸平氏の題名と同名の本に対する私なりの要約と感想を述べている。「文藝春秋オピニオン2023年の論点100」、文藝春秋('23)の冒頭に著者は成田悠輔氏と、「「敵」は資本主義なのか、人間の欲望なのか?」というテーマで対談している。5/7の毎日に著者の故・坂本龍一氏評が載っていた。コラムニストとしても活躍する、専門に閉じこもらず幅広い視野を持った社会学者らしい。
- 資本主義も民主主義も制度疲労状態になったと言う認識は誰もが認めるところ。対談では、対策に斉藤氏は脱成長を、成田氏は無意識民主主義、端的にはAI的進路決定を唱える。AIのリコメンドは、なぜかを解説できない難点があることを頭に置いて読むと、なかなか面白い議論だ。古典的革命はロシア革命で終わりを告げ、「静かでコスパのいい革命」時代に入った。民衆総員が、政権を、トコトンひっくりかさねばならぬほどには不幸でななくなっている(cf.「人口で語る世界史」('23))、という認識は正しいように思える。異次元金融緩和の日本の1人あたりのGDPは世界第27位だが、SPI(社会進歩指数)は第9位。ちなみにトランプを出したアメリカは前者では1位だが後者では25位。10pほどの対談だが刺激的な内容だ。
- 本書第1章は「「商品」に振り回される私たち」。「ゼロからの」と言うだけあって各章の題名、それに含まれる各節の名称ともごく親しみやすく具体的である。難解な抽象語の羅列が次々と出てきて結局は手を挙げるのだが、マルクス「資本論」の第1巻のここらあたりは誰でも解るし、共産主義が輝いていた時代という背景もあり、私がしばらくは「資本論」に取り組むきっかけになった。
- 資本主義は何でもかんでも、家族の関係や社会の公共概念の対象すらも、商品に変えてしまう。使用価値には値段−価値が付く。価値の土台は労働だ。我らは今や「コスパ思考」中毒症にかかり、町内会、お祭り、PTA、労働組合などなどお金にならない活動は切り捨てがちだ。子供を作ってなんのリターンがある?、民族維持文化維持などオレの知ったことか、図書館、美術館、博物館などカッコだけでよい、だが個人に対するGOTOキャンペーンは大いに賛成。
- 第2章は「なぜ過労死はなくならないのか」。昨年度、中学教諭の77%、小学教諭の64%が残業上限超だったという。サービス残業に名ばかり管理職の無償労働。コロナ禍で始まったテレワークにリモート会議は、自宅内24時間労働を疑わさせる。生活や社会を豊にさせる、文化を継承し発展させる営みに必要な時間を労働者から奪ってゆく。労働者には労働力に対する処分権がある、しかし労働は100%資本のもの。どう使われようと文句は言えない。それどころか仕事を自ら進んで死ぬ気でやる。追われたら逃げ込むセイフティネットなどしれている。人間らしく生きるには、「賃上げよりも労働日短縮だ」。これはマルクスの言葉である。無機的な人間関係が進行し、「東京砂漠」を実感するようになって久しい。マルクスは正しいと思う。
- 第3章は「イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む」。マクロ経済学の元祖・ケインズの思想は、私には「資本論」以上に難解で、門前払いに近かったと思い出すが、現今政治には深く浸透していて、「アベノミクスはケインズ的な経済政策だった?」と言った議論が出るほどだ。彼は資本論の60年後に、資本主義が発展してゆけばやがて労働時間は短くなる、21世紀最大の課題は、増えすぎた余暇をどうやり過ごすかだと予言した。それから100年近く経った。著者はケインズとは正反対な悲観的な現実を指摘している。
- 二次大戦後イノベーションが世界を狂わす。世界のGDPは戦後でなくなってから今日に至るまでに、おそらく100倍ほどは増加しただろう。マルクスにもケインズにも想定外だった。労働者は自律的に「構想」して「実行」することが、分業による単純化と科学的労働管理法によって不可能になり、機械に奉仕するようになる。労働者はいつでも代替可能状態という「資本の専制」状態に置かれる。生産力は向上するから仕事にあぶれるという脅迫感を持ち続けなければならない。それが「経営者(が喜ぶ)目線」で働くという過酷過重労働になる。
- 弱い労働者は商品に籠絡されやすい弱い消費者だ。資本家はそれにつけ込んで必要以上に消費させようとする。確かに例えばスマホを見ればよく判る。製品の買い換え周期はどんどん短縮するが、余計な機能がわんさか付いているだけで、本来的には無意味なことが多い。PCやスマホを開くと広告の洪水だ。広告の来ないしくみにするとそのソフト代を取られる。人間社会にとってあだ花的な仕事(ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事))が、広告業やコンサルタント業を中心に急速に増える。
- 第4章は「緑の資本主義というおとぎ話」。人間と自然との物質代謝は、生態系という複雑に絡み合った有限のクローズド・システムの中で、かろうじてバランスを保ちつつ今日に至った。資本主義による価値の増殖運動は、コスト(環境被害)を外部化(無限希釈の想定)して行われる無限運動だ。それが物質代謝に「修復不可能な亀裂」をもたらしつつある。この亀裂が資本主義下では「修復不可能」だと論じたところで「資本論」は終わっている。しかし残されたメモには、マルクスが、「資本論」と平行させるように、亀裂の修復に「環境社会主義」的な手段の提案を模索しつつあったことが明らかになっている。
- 第5章は「グッバイ・レーニン!」。ロシア(ソ連)、中国、北朝鮮の実質は国家資本主義国である。一党と官僚が特権階級(一国一資本家)となって一切を取り仕切る。民主主義国でないから、労働組合ほか自主独立であるべきマルクスの重視する「アソシエーション」組織が、国家資本に異議を唱えればたちまち反逆になる。ことはすべてトップダウンで、ボトムアップなどおぼつかない。彼ら「労働者農民の天国」には、自由の代償の福祉の充実は喧伝された。だがたちまちに自由圏の福祉国家に追い越された。
- マルクスは、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎に置いた民主的社会を目指した。(若い時代にはプロレタリアート独裁を唱えたが、資本の根強さに目覚めて「資本論」では資本主義内部でのアソシエーションによる改良に力点を移している。) 資本主義の行き詰まりと改革には、世界にいろんな提案がなされている。それに対する著者の「資本論」的批判がある。ベーシックインカムは、衰えてゆくアソシエーションに取って代わって、国家の力で改革しようとする「法学幻想」だ。「21世紀の資本」('14)のピケティの社会主義も「法学幻想」と切り捨てられている。日本の財政垂れ流しを肯定するような現代貨幣理論MMTには、資本のストライキへの心配と対抗するアソシエーションへの視点の薄さを指摘した。
- 福祉国家を招来できても4つの限界が資本主義の矛盾となって現れる。その中の1つに、南北問題がある。労働者は、より弱い立場のものからの収奪つまり搾取外部化で、自らへの恩恵を享受する「帝国的生活様式」にあずかり、それに満足してしまう。それには自然循環の収奪が含まれる。公害問題や環境破壊である。議論は男女不平等にまで及んでいる。
- 第6章は「コミュニズムが不可能だなんて誰が言った?」。晩年のマルクスは、原始のあるいはまだロシアの片田舎に残っていた共同体社会の研究に熱心だった。共同体には社会主義的な傾向がある。富の分配に平等があり偏在化を規制している。それが富の収奪競争を防ぎ、格差の増大を止める。唯物史観は生産力が先進性の尺度で、人種差別の原因となった。唯物史観を離脱したマルクスは再生可能な脱成長コミュニズムを目指す。惜しむらくはまとまった議論に仕上げる前に死去した。彼の未完の揺籃思想~新しいコミュニズムには、パリ・コミューンの経験が強く作用していたと推測している。
- 脱成長コミュニズムが目指す、現代の共同体社会についていろいろ書いてある。アソシエーションがキーワードで、「ミュニシパリズム(地域自治主義)」の国際的ネットワークが注目されているとある。具体的にはアムステルダム市が始めた「ドーナツ経済」が紹介してある。とにかく何千年もの発展の歴史のある自由な貨幣経済をアソシエーションで縛り上げようというのだから、具体化にはいろんな齟齬がすぐ頭に浮かび大変だ。環境問題はもちろん南北問題、人種問題、ジェンダー問題さらに移民問題にも好結果をもたらすであろうとは想像できる。
- どんな社会か。私年代の人は、それが敗戦で瓦解したが、古き良きという表現が当たっているかどうかは別だが、互助精神協同精神が行き渡った、反面周囲への思いやりを欠く個人の自由身勝手な行動を許さぬ、組織大切社会への復帰を意味するように思える。資本の自由奔放な活動は制限され、社会性というブレーキが強く働く。このブレーキが党とか官僚からではなく、民の自治意識から全員参加によって、機能するものでなければならぬ。こう書いては見たものの、パリ・コミューンのような若い熱気を日本の今に期待できるわけではないから、世界の先頭を切る冒険姿勢はとても無理だ。
- 日本は20世紀'90年代から脱成長に入った。メディアも政治家も実業界もGDP成長率低下に神経を尖らせている。脱成長の理由は、他の国々との経済競争に負けているからだが、脱成長しか地球破滅を防ぐ道がないのだから、それを武器に破滅回避を先進諸国に呼びかけるべきである。毎日の5/10の「ニッポン再生」には年功序列や終身雇用の日本型雇用体系が成長に問題としてあるが、この体系は西欧型雇用体系に比べれば遙かに優れて共同体社会を目指すものであることは明らかなのだから、先進国に日本型体系の採用を推奨し、共に脱成長による将来安堵を期待しようと呼びかけるべきだ。日本の「三つ目の世界史への優れた模範標準(「人口で語る世界史(その一)」('23))」になればよい。
('23/5/10)