徳島の盆踊り

W.de モラエス著、岡村多希子訳:「モラエスの日本随想記~徳島の盆踊り~」、講談社学術文庫('98)を読む。もともとはポルトガルの新聞への寄稿文。モラエスはポルトガルの元海軍士官で、長年神戸の領事を勤めたが、愛妻・おヨネの死(1912年)後、彼女の出生地であり墓所になった徳島で隠棲の生涯を送った。彼の墓は彼女の横に作られた。徳島での16年、人々は怪訝な目で眺め子供は西洋乞食扱いだったが、晩年から評価が高まり、死後は文豪モラエス翁と称えられるようになる。
日本人の精神生活に強い関心を示す著作を残したと記憶する。私は四国在勤の頃著作の一部を読んだ。本書は一次大戦勃発('14年7月)直前からの1年半ほどの記事になっている。眉山に彼の記念館があることは知っていた。この春、にっぽん丸の「春の船旅」で徳島を訪れたのを機会に、もう一度読み返すことにした。テーマごとに荒纏めした随筆である。
「随筆文学について」の章では日本の古典に対する見解を述べる。「枕草子」などべたほめで、著者はどうも私と共鳴できる感情線を持っていたようだ。「徳島考」の章は、徳島永住1年後から1914年初夏の頃までに集積された印象が中心だ。小泉八雲もそうだったが、急速に西洋化の波に洗われつつある日本の、失われつつある、貧しいが、古きよき伝統文化を地方に見つけ出した喜びを記述している。
昔の日本を太平洋戦争がごっそり洗い去ってしまった。今回の「にっぽん丸 春の船旅」でも、藩政時代を忍ぶよすがは、徳島城御殿跡の市立徳島博物館と旧徳島城表御殿庭園ぐらいだった。モラエスが来た頃は、蜂須賀候はもう東京に移転し、武士階級もなくなっていたが、徳島の家並みにも生活に漂う社会の空気にも、江戸時代を十分忍ばせるものがあったようだ。モラエスは神戸や長崎に見かけるようになった西洋風建造物をバラックと言って毛嫌いした。徳島にはまだそんな建物はなく、ヨーロッパ人も居住していなかった。役所、裁判所、銀行などもすべて旧時代の和風建築物だった。徳島藩の維新前後の雰囲気は、NHK金曜時代劇に「お登勢」があって、百姓娘(沢口靖子)の目で見た社会の変遷から窺えたことを思い出す。
住居について注目したものの一つに、長屋の庭がある。移住のころに建てられた借家用の安普請の長屋の前面に1m強の巾しかない小庭が付いている。それを、住まう貧しい人々が癒される小自然と思ったらしい。私はあちこちで下層武士が住んだ長屋を見学した。庭は玄関前とは限らなかったが、小さくても庭を持つ習慣は、父母の時代までは続いていた。近頃の都会の億ションは、内装は立派でも庭などつけようがないし、その要求もなくなっているのであろう。人工環境に取り囲まれた住居のエリート層で動く日本のブレーキ役には、田舎が重要なのかも知れない。
没落した武士階級への観察がある。大阪との対比で、徳島の武士が新時代に取り残されるのは必然だった。小泉八雲の生涯を描いたドラマ「日本の面影」で檀ふみが演じた妻セツの実家は松江の武士階級だったが、本書にあるとおりの零落ぶりで、気位高い祖父をはじめとする一家が、実質生活のかなりをセツに負んぶする様子を面白おかしく演じていた。徳島の方が松江よりは大阪に近い分有利だったはずだが、「お登勢」にも武士の商法で失敗する若侍が出ていたように思う。
水売り人が描写してある。井戸を掘っても海水だから、眉山の泉を8~10樽荷車に乗せて運んでくる水売りから、各家庭は飲料水を買う。「春の旅」でも博物館のガイドさんに聞いた話だ。なぜ水道を引かなかったのだろうとそのとき思った。洪水が許さなかったのかな。え?赤穂の町は塩田で有名だから、徳島と似たような立場だったはず。赤穂には昔の水道の跡が残っていたと記憶する(「近江八幡」('04))。徳島本城の水事情は、本当にこんなに心細い話だったのだろうか。日本三大暴れ川の1つ・四国三郎の吉野川が真横を流れる。調べてみると、藩政の頃は吉野川は無堤防で、明治から大正にかけてやっと政府の治水工事が行われるようになったとある。モラエスは1年に1~2回洪水に見舞われると記している。貧しい農家での洪水時の馬まで含めた家族の避難状況が記録してある。
花嫁行列。醜女のなかの見目麗しい女。徳島のピアノ(夜中の機織り女)。行商の女(野菜の果物、魚)。女は働き者。うどんの屋台は男の商売だったようだ。
神道と仏教と素朴な信者たち。天照に繋がる八百万の神々を紹介し、明るさと期待の象徴・太陽に向かって柏手を打つ人々は、信~になんの疑いも持たない。お釈迦様自身は自分が神だとか超自然的能力者だと言わなかった。瞑想、研究、修得した学問が自分の蒙を啓き、地平を広げ、幸福への真の道を教え、美徳の褒賞へとみちびいてくれた、と言うにすぎない。しかし師が去ると、弟子や奉信者たちは釈迦を超越者に、彼が口で述べた哲学を書かれた宗教にする。寺院とか祭とか、祈祷とかの形が大衆を惹きつける道具として必要だった。以下その仏教が分派を繰り返してゆく事情を要領よく纏めている。それで一般の無知で素朴な信者は、さまざまな現世利益を信じて、倦むことなく寺院をめぐり、布施を施し、聖者に祈り、教典を唱える。人生の不思議、夢の中とモリエスは徳島生活をくくる。
「身辺雑記」の章は、モラエスの、借家での和洋折衷生活ぶりで埋められている。ポルトガル人への紹介文だから和風建築から説明せねばならぬ。コンクリートのアパートに住む私には懐かしい内容だ。4軒続きの新築長屋。あばら屋としているが、まあ中クラスの家だ。玄関先の前庭にさらに小庭中庭(30平方m)があり、2階には居室となった広い部屋が1室ある。私が幼いころ住んだ箕面の借家もそんなだった。もう電気は来ていた。蒲団で寝る気楽さを大いに推奨している。神戸生活の名残を、思い切り断捨離して徳島に移ったものの、まだまだ捨てきらぬ思い出の品があって、書籍ではそれが小泉八雲の作品だった。2階の居室には稲荷神が祀られている。彼の信仰とは関係がない。日本の習慣を見慣れてきたからとある。雇った女中の小女・コハルの大切な竈の神様:荒神様は台所の神棚におわす。
副読した彼の著作「おヨネとコハル」はコハルを中心に書かれている。彼女は形は女中だが実質は40歳も離れた妾だった。同棲3年で逝った。モラエスは毎日彼女を見舞いに病院に出かけた。彼女の最後の言葉を書き留めている。激しい発作の中、手を合わせて彼に「ありがとう、ありがとう!・・・今晩、帰ります。」と言った。来た場所、天、仏陀のもとに帰ると言うことなのだと注釈をつけた。
中庭はモラエスの生き甲斐。慈悲深い顔つきのお地蔵様、あちこちから集めた植物、自然に侵入して繁茂する雑草の類、動物は雌猫、雄鶏は飼育対象だが、植物同様自然からはいろんな虫や鳥が入り込む。モラエスは彼らを隠棲地での友と観じ、彼らとの対話で余生を送る。周囲に日本人の友垣が集まるような雰囲気はない。旅人としての一期一会的なふれあいはいろいろ綴ってある。彼は亡妻の墓に詣でることを楽しみの一つとしている。
「死をめぐる日本の文化」とその次の「死についての考察」の章はこの本の最も価値が高い部分だろう。日本の伝統精神を宗教教義などの抽象的論議からではなく、生活の中の慣習とか儀式の中からしっかり見つめようとしている。葬儀は遺体の始末から始まる。墓に対する観察は墓所の立地から家紋に及ぶ、戒名をおヨネのものを例に解き明かしている(生前の名でない理由も考えている、私は歴博の展示で部落民の戒名に獣編がある例を知った、祖先からの歴史も背負っている場合があるのだ)、墓参の習慣、家庭の中の小寺院・仏壇の内容と真摯な家族の祈り、そして死者の霊が日を決めてやってくるお盆行事。彼らをあの世へ送り帰してから、現世に残った生者が町中をあげて熱狂する盆踊り。80歳になる腰の曲がった老婆の踊りが描写してある。著者は本書が著された期間に2回盆踊り(阿波踊り)を見ることが出来た。
著者は日本には三つの異なる宗教があると論じている。死者崇拝、神道、仏教。ほとんどすべての日本人が神道信者であると同時に仏教徒である。そして誰もが死者崇拝を奉じている。死者崇拝や祖先崇拝は一体をなす。死者崇拝の起源は仏教渡来以前からの、そもそも原始民族の宗教として、人間の魂に最も深く根ざした宗教である。神道も仏教もキリスト教もこの古い宗教をいろんな形で取り入れている。それにしても死者と生者のintimateな明るい関係よ! 家族は祖霊を日々心底から厚くもてなし、代わりに彼らの愛情あふれる保護を願う。日本人が死を前にして穏やかな諦念に浸っておれる理由だと結論づける。上述のコハルの最期を看取った実感も、そう考えさせる理由なのだろう。著者はあちこち広範囲に寺社を訪れ、年中各所で賑やかな祭礼を見物し、墓地を散歩道にしていた(「徳島日記」の章)。小松島の弁財天まで載っていた(「冬のクルーズU」('11))。ただ四国のお遍路さんについてはほとんど記載がない。

('23/4/19)