
- 小学校時代に同じ相手と二度ばかし殴り合いの喧嘩をした。どちらも敗戦後である。私は6年生になっていた。初回の原因は全く覚えていない。どうせ些細なことだっただろう。二回目は卒業式終了後の仕返しであった。どちらも互いに素手であった。
- 私が通学した小学校は住宅街の都会にしては規模の小さい学校で、クラスは男子ばかりであった。敗戦直後だったから学校と言わず社会全体は戦時の雰囲気をかなり引きずっていた。戦中の体罰教育の記憶はまだ鮮明だった。多分今よりは遙かに男っぽい強い雰囲気だったろう。しかしいじめ相当の行為はゼロではなかったろうが、軽度のものかごく一部の者だった。何しろ先生に駆け込まれたらガキ大将でも一巻の終わりであった。あのころの先生は絶対であった。
- 私は中途入学の区外生であった。区外とは正式の校区からはみ出した位置に住んでいるという意味である。学校単位の喧嘩があるほどで、仲間意識が強い時代だったから、区外生には友達を作りにくい環境だったろう、いつも心に鎧をまとって通学していた。喧嘩手の練習などやっていた記憶がある。だからその子との喧嘩では私の方が優勢だったらしい。彼は、大人しくてひ弱と見た相手に反撃されて、ひどく自尊心を傷つけられたようであった。
- 二回戦では、彼は後見人を後ろ盾にして私の帰り道に待ち伏せていた。私は一人だった。後見人というのは今で云うキレやすいたちで仲間から恐れられていた人物だった。喧嘩相手と同じ町に住む仲間同士であった。私は戦いながらむしろこの後見人の動静にばかり気を取られていたように記憶する。結果は私にとってさんざんで、あいては満足して引き上げた。しかし私は別段負けた気がしなかった。
- まだ卑怯という言葉に重みがあった時代だった。後見人は牽制役になったが、決して私に手を出さなかった。喧嘩は1:1が原則で、集団で襲うなんて対決は見たことがない。そのとき後見人と名乗られたわけではないが、今でも彼が立場を守ったことを評価している。得物も持たないのがルールで、持つときは相手にことわり、相手に同等の用意をさせた。そうしないと大変な非難を浴びた。卑怯とか正義という判断基準は、弱者の救済に最も分かり易いお題目である。エスカレートの歯止めにもなる。得物を持った集団暴行がニュースになる度に「卑怯」の復権を思う。
('98/05/06)