絵巻
- 「永井路子 歴史小説全集 八」、中央公論社(1995)の「絵巻」を読む。短編10本からなる、平忠盛から源平の興亡があり実権が鎌倉に移り、後白河法皇がお隠れになり、定家が歌人として世に謳われるようになる頃までの京都朝廷を描く。全230pほど。歴史を絵巻と観ずれば、5編が絵に相当し、残りが詞書だとある。その詞書が靜賢法印日記のその一からその五までだ。短編の物語があって、その時代を法印がどう見たかの日記が続く。靜賢法印は平治の乱で死んだ入道・信西の子息、しかしその日記は実在せず、作者が、彼の名前で、時代を批判的に記述する形になっている。私には斬新な趣向である。法印は僧正(最高僧官)に対応する僧位である。僧位は法眼、法橋と続く。
- 「すがめ殿」は斜視(すがめ)であった忠盛が昇殿を許されたやっかみに、周囲の貴族が「伊勢平氏はすがめなりけり・・」と囃し立てたことから、題材に選ばれた。伊勢(平家の出身地)で作られた瓶子(壺)は酢瓶だという表の意味を忠盛への当てこすりにしたわけ。平家物語に出てくる有名な挿話である。映画の「新・平家物語」では忠盛役者はさすがにすがめではなかった。
- 平家物語では清盛は、白川法皇が祇園女御に妊ませた子で、忠盛にわが子とするように押し付けたとしてあり、新・平家物語でも清盛が自分の出生について悩む姿を演じている。本書では、清盛の形質が忠盛に似ていると実子であることを匂わせる。しかし忠盛は法皇の落とし胤のようなかしづかせかたをした。周囲にそう思わせたかったのであろう。もう一方の武家・源為義は、開く一方の格差に焦り気味だった。天皇家(白川法皇から鳥羽上皇へ)摂関家などでの覚えの目出度さが全然違うのである。その筋への忠勤と奉仕のレベルの違いがそうさせている。背景に父・正盛以来の潤沢な財力と抜け目のない投資があった。徐目では次々に地方官を取得し(国司は財源)、軍事面では海賊征伐に功を上げ、彼らの操縦によってまた財力を伸ばす。為義には全く手が届かない地位(最後は正四位・刑部卿)まで忠盛は昇る。
- 靜賢は時には側近として使僧に立つこともあるが、父の無念の最後を見ているから、極力局外者としての立場を守ろうとする。そのため日記はわりと客観的第三者的に事件を描いている。忠盛が亡くなり続いて鳥羽法皇が崩御されると、後白河派と崇徳派が保元の乱を起こし、前者が清盛の力で勝利を収める。信西が異例の昇進を続ける。清盛と後白河の間は表面上は穏やかだった。法皇は今は三十三間堂に名残を留める法住寺殿を御所としている。靜賢はその一角にある蓮華王院の僧官で、法皇の側近だ。御所での出来事の記述に後白河法皇の並々ならぬ芸術感覚が述べられてある。
- 反清盛の法皇以下の鹿ヶ谷の密談が今様の宴という口実で開かれる。せいぜい北面の武士による成敗程度の方策しかない平家打倒のクーデター計画はあっけなく敗れた。側近で占める首謀者は重罪。だが法皇はお気に入りたちの運命にさしたる関心を示されなかった。政治的には愚劣な方で、陰謀をゲーム感覚でしか捉えることが出来ないお方だった。
- 摂関家に嫁いでいた清盛の娘である盛子と嗣子重盛の所領が、両者の死去を理由に後白河に取り上げられると、清盛は後白河を鳥羽殿に幽閉した(治承3年の政変)が、清盛死去により帝は開放された。だが義仲がつかの間の安寧をぶちこわす。支え続けた献身的な寵姫・栄子は後白河の近臣・平業房の妻だった。「鎌倉殿の13人」で、大姫入内工作の政子とも対峙する丹後局である。義仲は安徳天皇に代わる天子選出に介入し、法皇の機嫌を損じる。その頃は天子は院政の看板に過ぎない存在だった。意を戴した栄子の活躍が実を結び、彼女の政治的立場が強化される。法皇はこの世を去るにあたって、厖大な所領を栄子(従二位に昇進していた)と彼女が生んだ内親王に残す。
- 治承3年の政変は福原遷都直後、法皇が仕組んだ2回目の平家討滅の陰謀だった。「性こりもなく」と書いてある。たちまち露見、側近は追放。靜賢が清盛と鳥羽の法皇とのメッセンジャーになる。法皇が突然政治を投げ出す。丹後局との仲が進行したときと符牒が合う。京都への再遷都、清盛の死、法皇の主権者への復帰。法皇は、平家の都落ちでは、取り巻き連のきわどい才覚で、ともかくも拉致同行を免れる。靜賢は、皮肉をこめて、おおよそ政治に無関係な連中によって法皇は身を全うしたと書いている。鹿ヶ谷の「法皇の生まれつきの王者らしい酷薄さから出る」使い捨てとなった廷臣らの結末を知っているからであろう、法皇からは距離を置く政治家だけになってきた。
- 義仲への使者に立った靜賢は、義仲が、あれだけ惑溺されたのに討滅される立場へ急変して当惑している姿を、宮廷に見られない人間味と感じている。
- 靜賢の日記の後半は、壇ノ浦で捕虜になった平宗盛が都から鎌倉へ曳かれてゆくあたりから、新古今和歌集が成立する頃までの14~5年の記録である。鎌倉では血なまぐさい権力闘争が繰り返され実朝の時代に入っていた。朝廷の中での権力者の出入りも激しかった。しかし鎌倉と違って交代劇は武力を伴わない天皇、上皇、法皇を中心に回る権謀術策の結果だ。筆者は、鎌倉でもそうであったが、その重要な根回し役が乳母だったとしている。不慮の死を遂げた人物は現職の摂政・太政大臣・藤原良経(刺殺)だけで、それも屋敷に忍び込んだ強盗団の仕業だった。
- そのような事件の詳細を辿る前に、私は最後の方に現れる藤原定家に注目したい。京都御所を取り巻いていた公家屋敷で、唯一完全な姿で残っているのは、冷泉家住宅だけで、そこでは俊成、定家を継承する歌道の家元として今も関連行事が執り行われている。「冷泉家時雨亭文庫」には貴重な典籍が数多く残されていることで有名だ。定家は摂関家・九条家の家司(ケイシ)だった。千葉県旭市あたりに九条家荘園・三崎庄があった。荘園管理を任される預所の立場で現地の地頭とやりあっていることが「名月記」に見えるそうだ(本HP:「千葉一族海上氏」('01))。京都に育ち千葉に住む私には無関心ではおれない一人である。
- 定家はその時代の歌詠みの第一人者だった。本書に何首かの引用がある。「読んでもいいし、口ずさんでもいい。ことばというものの美しさを、これほどまでに三十一字の中に凝縮させた歌よみはこれまでにいたであろうか」と絶賛されている。当時の貴族の教養の第一は、歌に優れることだったはずだ。歌からは、人々から敬愛され、自然を人の世と組み合わせ清廉無欲に世を過ごした人のような印象を与える。しかし本書には定家のすざましい猟官活動の様子も描かれていて、人の多面性を教える。
- さて元に戻って、「打とうよ鼓」と「靜賢法印日記その(三)」は、義仲の後白河法皇御所・法住寺殿焼き討ち事件から始まる。御所が頼みとした山(叡山)や寺(園城寺)の悪僧などは義仲軍に2時間ほどで駆逐された。その後も武家集団との戦が起こるが、朝廷側の軍略は愚劣極まりない。戦にはド素人の法皇の「武家の侵出」への「怒り感情」を戴して武力対決に持ち込んだ筆頭に、左衛門尉・平知康がいた。彼は頼朝との溝を深めた義経への贈官(無断任官)でも意を戴して活躍する。彼は鼓の名手だった。所謂中級官僚の「(文字通りの)太鼓持ち」の例として取り上げられている。法皇前から追放された彼が次に出てきた場所が鎌倉だった。都ぶりの師匠となって頼家に重宝される。彼は政子からは敬遠され、頼家と共に歴史から姿を消した。
- 法皇崩御。それまで批判的勢力として陽のあたらぬ場所にいた摂関家当主・藤原兼実が実権を握り、頼朝に征夷大将軍の官位が贈られ、丹後局が排除される。だがすぐ次の実力者が現れる。中納言・源通親である。法皇に忠勤を尽くしてきたが、法皇からは認められなかった人だ。
- 「謀臣」と「靜賢法印日記その(四)」は通親と範子の縁から始まる。どちらの家系も平家と縁が深い。「謀臣」は通親を指す。範子はのちに後鳥羽天皇の乳母になる。通親と懇ろになり、乳母の実務を姉・兼子にゆだねる。通親は乳母を天皇操縦に利用する。皇室に繋がる婚姻関係が、信頼関係を通じて政治を支配する時代であったらしい。帝の後室の誰が男児を産んだかは、政治家の最も重大な関心事であった。それに呪詛がからむ奇妙な政権交代が、ついに通親を天下の権限者に押し上げる。周囲に息の掛かったものを配置し、院と天皇の両者の権力を独り占めにした。上皇の遊楽癖が書かれている。通親には都合が良かった。一度は復活した丹後局はやがて使い捨てにされる。謀略の手を頼家に伸ばそうとしたとき彼に死が訪れる。
- 「乳母どの」と「靜賢法印日記その(五)」は、通家が、上皇お気に入りの乳母・兼子に呼び止められるところから始まる。通家は父・良経(兼実の子)の横死で、わずか14歳で九条摂関家の世嗣になった。通親、兼実ともすでに鬼籍に入っていた。彼は慎重に兼子派を演じる。政子が上京し、兼子に将軍実朝の後継者に後鳥羽上皇の皇子を望む。それは京都鎌倉を繋ぐいい手段と兼子には思えたが、上皇は体のいい人質だと受け取っていた。皇子はのち承久の乱に連座、備前国児島へ流配、薨去。
- 上皇と兼子は順徳天皇の后に通家の姉・立子を選ぶ。順徳天皇も連座で佐渡にながされる。立子は仲恭天皇を生むが、仲恭天皇も連座で皇位を廃された。4歳という幼児だった。承久の乱は本書が終わってから3年のちの事件である。後鳥羽と順徳の間にはもう1人の天皇・土御門がおわすが、事件への関与はなかったのにもかかわらず、望んで土佐国(後に阿波国)へ配流された。後鳥羽は様々な術策で周辺を慎重に固めて立ち上がったが、朝廷での権力争いと武家勢力との抗争は全く異質のものであった。
- 歴史小説は面白い。ことに今まで関心の浅かった時代の、知らない場所環境に起こる物語は、読者を惹きつけて止まない。登場人物は多面的に相互に繋がっており、忠義一途などという行動哲学は、その人がよほどの単細胞でない限り実際には起こらないから、複合思考で思い悩みながら各自が行動してゆく姿が堪らない。源平から北条天下までは私にはそんな時代の一つである。
('23/3/12)