甚兵衛渡し


義民佐倉惣五郎(宗吾)は佐倉藩の手で、100回忌150回忌200回忌の法事はもちろん、毎年春秋の大祭で手厚く慰霊されたと聞く。印旛沼湖畔の村名主佐倉宗吾が藩の暴政に耐えかねて将軍に直訴し首尾を果たすが、自身は夫人とともに刑場の露と消える物語は有名である。
しかし史実として伝わっているのは、彼が富裕な農民として実在したことだけで、義民伝が伝えるような事件はなにも記録に残っていないという。藩の、施政者側から見れば忌まわしい秘史として外部には一切出なかったのであろう。霊堂にある宗吾御一代記館の展示は人口に流布した物語による俗説である。同じことで、もう何十年も昔に訪れた宗吾旧宅などは本当か怪しい。
将軍直訴に出発する宗吾を渡すために、鎖を切って禁制の船を出す印旛沼の渡し守甚兵衛はもう一方の主役として講談に浪曲に歌舞伎に登場する。霊堂の近くにそば屋があって、屋号にこの「甚兵衛」を頂戴している。うまいという評判を聞いて出掛けたが、生憎と定休日であった。
東京と茂原に桜見物に出掛けたとき一面が染井吉野だったので、関東の桜の名所には個性がないといかぶった。その後公園の桜などに注意するようになった。結構桜の種類が豊富な場所もあるのに気づいた。有名ではないが、千葉のみなと公園には桜の並木があって、いろんな種類の桜が期間をずらして咲くので、憶えて置いていい場所である。この霊堂の桜は多分里桜である八重桜であった。本数は多くなかったが、訪れた時期がよかったか、満開で美しかった。
このあたりは成田市である。京成沿線の町々はニュータウン計画により次々と開発された。成田市の人口はこの20年で十数%は伸びている。初めて訪れたのはおそらく二昔前だったと思うが、寺と門前町を除けばその頃の記憶とは合致しない新しい家並みが続く。
法隆寺と町の関係が全くその通りだった。ただ法隆寺の方は寺、古い町並みの立派さに比較して、新興の町が無計画に貧素な印象の、折角の景観を台無しにするものであったのに対して、こちらは新興の町がましなので、お互いが溶け合えそうである。日本がまだ貧しい頃のベッドタウンと豊かになってからのニュータウンとの差と、大阪と東京の経済的実力の差が重なってこんな対比を生んでいるのであろう。

('98/05/01)