小説・鎌倉殿の世界

「傑作!名手が描いた小説・鎌倉殿の世界」、宝島社(2021)を読む。名手には安部龍太郎、山本周五郎、岡本綺堂、火坂雅志、永井路子、坂口安吾が並んでいる。'22年度NHK大河ドラマ:「鎌倉殿の13人」の放映前出版だった。
この時代に対する私の史的知識はごく貧弱だ。理由の一つは、確実な史実や、伝承の裏付けとなる資料物証に乏しいことにある。時代が古く、逸散するから。それに武士たちの文化意識がまだ低かったからとも言えそうだ。京都に残る日記や随筆などに裏打ちを頼らねばならない。こんなときは考古学を含めた史学の進歩は当てにせず、構想力豊かな小説家の描く歴史を楽しませて貰うのも一興だ。「鎌倉殿の13人」(12世紀後期から13世紀前期)よりは1世紀後の津軽半島における抗争を扱った安部龍太郎:「蝦夷太平記 十三の海鳴り」(「十三の海鳴り」('22))でも、虚構で補いながら作者が歴史を語り、なかなか魅力的な小説に仕上がっていた。
本書冒頭の安部龍太郎の「木曽の駒王」は、木曾義仲の物語。彼が京にあって巴御前と頼朝が送った義経、範頼の追討軍に敗れる様を描写した。平家の興隆で時代の変化を学んだはずの後白河法皇以下の朝廷が、旧態依然に、義仲を気に入らない番犬レベルに取扱い、対立勢力(頼朝)を操って互いの武力を削らせようとする小細工のさまが出ている。武家は犬でまだ力を認識されているが、一般庶民は飢饉などお構いなしの切り取り(戦備調達)対称だ。
「奥州征伐」は義経追討令に奥州の藤原泰衡が屈し、ついに滅亡に追い込まれる次第を述べる。頼朝の冷酷さ非情さと、彼が東国武士の実直さと無骨さを疎ましがる様子を描写している。東大寺再建の3万両を巡る秀衡に対する頼朝の圧力、言いがかりは史実のようだが、この小説の筋通りであったかどうか。なお「鎌倉殿の13人」では、巴御前が和田義盛の妻として再び現れる。これが「源平盛衰記」に記載されているとは知らなかった。
次は山本周五郎の「義経の女(むすめ)」。義経の正妻は河越重頼の娘で郷(里)御前。吾妻鏡には頼朝の肝煎りの婚儀だったとある。河越氏は川越市の河越館趾に拠点があった一族。史書では、義経は逃避行に妻子を伴ったとされ、衣川の戦いに敗れ、22歳の郷と4歳の娘を道連れに自決したとある。本小説ではこの娘がすでに嫁いでいる。義経縁者として重頼は殺され、彼女も鎌倉に呼び出されたため、良人と別れを告げる様子が描かれている。頼朝の猜疑心と被疑者の諦めぶりに、鎌倉時代初めの頃の非情な武家社会の世相を感じる。
岡本綺堂の「修善寺物語」は昔々読んだが、筋立てはほとんど記憶にない。映画化され、その芸術性が高く評価されたとは覚えていた。第2代将軍・頼家が修善寺に押し込められ、北条勢に入浴中(と記した史書がある)に討ち取られる。綺堂は面作師・夜叉王一家を創作しこの悲劇に結びつけた。夜叉王が彫った頼家の面が、どう彫っても死相を漂わせ、頼家の死を暗示したという筋立てだった。
「幻の将軍」は火坂雅志(実はこの作家の記憶は私にはなかった、NHK大河ドラマ「天地人」の原作者という)の作品。「幻の将軍」とは、権力を失いかけた北条時政に第4代将軍に擬され、時政失脚と同時に政子・義時勢に誅殺された平賀朝雅(頼朝の猶子)で、牧ノ方(時政の後妻)に取り込まれて、次第に野心を持ち始める様子を小説が描いている。京都守護のとき伊勢国と伊賀国での平家残党の反乱(三日平氏の乱)を鎮圧するなどの実績があり、朝廷からも信認された。「鎌倉殿の13人」では、この鎌倉の権力闘争での犠牲者として史実通りのドラマになっていた。
「覇樹」(100p:この本で一番長い)は永井路子の小説で、2代執権・北条義時の視点で覇権の移り変わりを描いた。「鎌倉殿の13人」とほぼ同じ視点だ。三谷幸喜の脚本は粗筋において永井の小説とそっくりである。ことに実朝暗殺事件での三浦義村の思惑(公暁が義時を同時に暗殺)と行動(列に義時が不在だったために果たされず、寝返って公暁を討ち取る)は、永井の描いた義村像とぴったり一致していた。
暗殺に対する解釈は、ほかに、Wikipediaには、「義時が公暁を裏で操ったという説や、将軍親裁を強め後鳥羽上皇との連携を目指した実朝を義時と義村が手を結んで排除したとする説、幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説もある。また、それらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあり、近年では黒幕説を否定して公暁単独犯行説をとる研究者が多い。」と書かれている。永井が、承久の乱まえの義村への後鳥羽上皇からの誘いを義時に知らせ、実朝暗殺における負い目をチャラにしたという話は、あり得る話だと思わせる。義村の、主筋でも無慈悲に捨て去る冷酷にして狡猾とも言える巧みな世渡りと、所領地が鎌倉に近くて武闘における緊急の大勢力たり得る立場は、三浦氏が次々に消された13人の御家人の中にあって、なおナンバー2として生き残った最大の理由であろう。
鎌倉幕府は、承久の乱後の後始末で3上皇配流の荒治療を実施し、皇位継承にも口を挟む。政治から朝廷の権威・影響力がほぼ一掃され、武家政治の基本体制が整うのは義時からである。平家から数えて約1世紀だった。
「安吾史譚 源頼朝」は坂口安吾の著作。頼朝が平治の乱に敗れて東国に落ち延びようとする父・義朝とはぐれ、平家の軍に逮捕され、危うく首刎ねられる14歳あたりから、20年を経たのち、上総広常の2万の大軍の参加を得て、打倒平氏の本格的進軍に掛かるまでの、頼朝が大将軍に成長するまでの心の進化を語る。取り上げられた事件はいずれも史書に記載があるようだ。
もとは源家の家来筋だった伊東祐親、北条時政はそのときは平家の家来で共に頼朝の監視役。祐親の娘・八重子が親の上洛中に頼朝の子を儲ける。親は、平家への忠節心から、その3歳児を殺し頼朝を襲う。頼朝は北条の元へ逃げ、仕掛けて政子を得る。伊東と北条は領地が隣り合い互いに相対する関係だった。「鎌倉殿の13人」で私は八重子の存在を知ったが、鎌倉時代の女性の地位が、後々の世ほどには軽くなかったことを教える1つのエピソードになっていた。
余談だが、伊東祐親と曽我兄弟の仇討ちの関係が書いてある。祐親は兄の荘園を分捕って遺児が成人しても返却しなかった。平将門の乱(「風と雲と虹と」('12)、「平将門一〜四」('19〜'20)、「平の将門」('20)、「海と風と虹と」('20))も基本は将門が父の遺領を継承できなかったことだった。鎌倉時代の事件では「一所懸命」は最重要の動機だった。「覇樹」に後鳥羽上皇側の失敗の一つに、上皇寵愛の白拍子の所領の地頭の取り替えを鎌倉方が拒否した問題が上がっていた。

('23/1/6)