野生に学ぶ「ヒトの未来」

山際寿一:「スマホを捨てたい子どもたち〜野生に学ぶ「未知の時代」の生き方〜京大総長が語るゴリラに学ぶ「ヒトの未来」」、ポプラ新書(2020)を読む。再版の広告が出たので図書館から借り出して読んだ。サル学は示唆に富む。我々の本性の由緒を教えてくれる。このHPには「人間の由来」(5編)、「虫とゴリラ」、「家族進化論」などが入っている。本書は子どもに目を向けた発言だ。
第1章は「スマホだけでつながるという不安〜ゴリラ学者が感じる人間社会の変化」。章の扉をめくると「人間が安定的な信頼関係を保てる(五感でつながっていると思える)集団のサイズは、人間の脳の大きさに見合った150人規模のままです。(現代の狩猟採取民の最大まとまり数と同じ。)」と出てくる。脳容積と最大まとまり数の強い相関は認められている。人間の脳が、今の1400mlになったのが60〜40万年前。今の類人猿なみだった200万年前頃から増加を始めた。その頃(脳容積が400mlほど?)のつながり集団サイズは30〜50。700万年前は10〜20人ほど。ラグビーやサッカーは瞬時にボディランゲージで意志が伝わる700年前の人数で戦う。人間が言葉を手に入れるのが7万年前で脳容積とは関係がない。
ICTとAIとスマホ世代が推し進める人新世。感情を置き去りにして「脳」だけでつながる人間が増えて行く。信頼関係を軸とした進化を遂げてきた人間が人間らしさを失いつつある。哲学が生物学に、生物学が情報学に乗っ取られ、人間が知能偏重に変わった。情報学が扱うのは、人間が持つ二つの能力、知能と意識の内の知能の部分だけである。意識を解析の対象とするばからしさを「好き」について解説してある。共感を育まない社会の危険性にも触れる。自分が何者か確信のもてない時代になってきた。
第2章は「ぼくはこうしてゴリラになった〜生物としての人間を知るために」。サル学に取り憑かれた経緯が書いてある。今西錦司から始まった日本のサル学は世界をリードしていた。サルと人間は五感が類似している、サルになりかわってサルを記録できる。屋久島のニホンザルの警戒心がなくなるまで、5年ほど掛かったとある。仲良くなれた。しかし仲間とは認知されなかった。それでいよいよゴリラのフィールドワークになった。遺伝子的な違いは、ゴリラとサルが3%であるのに対し、ゴリラと人間は1.2〜1.6%。ゴリラはサルよりも人間に近い。
会話をやれるところまで来ると顔をのぞき込むゴリラが出てくる。鼻先20cm。よほど度胸がないとこんな研究はやれないと驚嘆する。遊びに誘っているらしい。そのレベルになるとゴリラの社会が判ってくる。ニホンザルのような優劣順位がすべてにものを言う社会ではない。体力的に遙かに劣るメスでも子どもでも、ボスのシルバーバックに対して怯えた様子を見せない。子どもの間に年の序列で優劣をつけないなど、ゴリラと人間は良く似ている。人間の研究者には、ゴリラのルールを守っているから付き合ってやろうと、どこか外国人に対する我らのような姿勢である。
第3章は「言葉は人間に何をもたらしたのか〜ゴリラから見た人間社会」。ゴリラとの生活から戻ると、「外国かぶれ」ならぬ「ゴリラかぶれ」に罹っていると気付く。自分を伝えるのに声(言葉ではない)とスキンシップが多用されるゴリラの世界に対して、人間社会の非直接的なコミュニケーション法(その先端がスマホ)には様々な長短が指摘できる。筆者はその理解にスマホ・ラマダンを勧める。テレコミュニケーションが開発され、利用できるヒトはかなりゴリラ式のメリットを回復しているかも知れないが、確かにSNSには内容への不信感を平均以上に感じるのは事実である。
第4章は「人間らしさって何?〜皆で食べ、育て、踊る人間の不思議」。ヒトは踊る。音に合わせて踊る。ヒトがトーンやチューンに曳かれる基本は赤ちゃんにある。ゴリラの赤子は泣かない。ヒトの何倍もの長い授乳期間を母親がほぼ単独で育てる。森からサバンナに出てきたヒトは、肉食獣から種を維持する方法を開発せねばならなかった。食料分配はその目玉手段。多産化には赤子の乳離れを早めねばならぬ。共同体(「家族進化論」('16)、「人間の由来」('21))は無報酬の支援を行う。赤子はそれを知っている。声を出す。廻りは聞き分ける、それがトーンでありチューンの根である。二足歩行になった理由の一つに、共感同調の表現力(踊り)の獲得があった。
第5章は「生物としての自覚を取り戻せ〜AIに支配されないために」。今AI支配の端的な実例はゲームの社会だ。囲碁将棋戦の譜面解説などでは、しょっちゅうAI流が出てくる。かって神仏の領域が科学によって狭められていったように、生活の判断領域がAI支配になって行くのは致し方がない。問題はその傾向の限界を悟ることになるのか否かということだろう。
メスゴリラ2頭に挟撃されて殺されかけた話がある。初めての観察対象グループだった。彼女らはしつこく追跡する著者を拒否した。著者は5感でゴリラの要求が判ったから大傷を負いながらも無事に生き延びた。研究も命がけだ。ヒトとゴリラの間でもスキンシップで相手を全体把握しておかないと、「不正解」で破滅させられる。近頃メタバースという言葉がはやっている。バーチャル空間がますます精密化し真実味を帯びだして、「夢か現か」判断がつかないような世界が我々の生活環境に入り込みだした。これで繋がっているつもりになるヒトもいるだろう。だが使われているのは、人間生来の5感の中の1感か2感だ。
「人間は考えることをやめるかもしれない」という項目がある。卑近な例がお買い物。私の検索情報を集積しておいてAI解析し、ことあるごとにお勧めメニューをPCやiPadの画面に「許し」もとらずに無遠慮に投げ込んでくる。そのうちに考えるのが面倒になり、AIのお指図に従った献立で食卓が埋まるのだろう。11/10の毎日に、「AIで有機化合物生成省力化」という記事が出ていた。研究の最適化にAIを活用するとある。囲碁将棋はおろか研究もかなりの思考段階をAIに負んぶするようになった。AIに思考原理はあるが、どんな論理でそれに至ったかは説明できない。ブラックボックスに重要なパーツを支配されているのに、結果がよければいいではないかとする。
第6章の「未来の社会の生き方〜生活をデザインするユートピアへ」とあとがき。米国中間選挙でトランプ前大統領の影が濃くなり出した。彼の「移民か、移民でないのか」「アメリカに利するものかそうでないか」「敵か味方か」「お前はどっちか」と迫る発想は、排中律である。一神教起源の西洋哲学の基本的なスタンス。世界には「実は正解がいくつもある」から決定的に不正解に陥らなければよいという発想が、東洋哲学にある「容中律」の思想だ。いつの間にかしてやられているのが「容中律」を取り入れた曖昧制御の奥義だ。人類破滅の熱い戦いを避けるには「排中律」の非を知らねばならない。
隅田 英一郎の「AI翻訳革命〜あなたの仕事に英語学習はもういらない」という本がある。「ボディランゲージ」が「言葉」に変わって本来の意思疎通に齟齬を来すようになったが、今度はAIが部族単位、民族単位の言葉を世界単位の言葉に広げつつある。疎通できる範囲を拡張しつつある。意味深の文学作品にはまだ歯が立たないが、科学技術翻訳には十分役立つレベルまで来た。本書に同時通訳機登場の夢が、文化の壁を乗り越える手段になることを語っている。AIの単位操作はデジタルの「排中律」、それが無限に集まってアナログの連続世界を隙間なく埋めて行く。ちっちゃな「排中律」も重ねれば大きな「容中律」に変わる、変えられると私は思いたい。
新型コロナが「野生に学ぶ」我々に水を浴びせた。三つの密を避けよと政治や医療の指導者は言う。三つの密は野生に学ぶための「スキンシップ」「ボディランゲージ」の中心だ。中でも食事を仲間と共にする共食は、ホモサピエンスが何万年もかけて開発した、人間関係確立のための、半ば本能化した基本動作であるから、黙食、孤食、隔離壁などは人間社会原理を破壊する行為になる。だがよくしたもので、流行できる変異株はだんだん弱毒性になり、ワクチンが追いつき、医療対策も確立して来るで、三密を言わなくなった。同じレストランの3年前と今ではかなり厳しさが緩んでいる。本書は新型コロナが去った時を論じているが、実際は新型コロナがインフルエンザ並になって、人と共生することになるのだろう。

('22/11/11)