塞王の楯(その2)
- 太平の世が続き穴太衆の仕事が減る。大名のお抱え侍に転身するものが出てくる。誇りにしてきた独立性が綻び始めたのだ。本書に後藤屋の加賀藩専属化を罵る場面がある。加賀藩には穴生方後藤家文書が残っている。穴生は穴太と同じ。だからそれは史実らしい。そんな中で秀吉の病状悪化と訃報。大名たちの不穏な顫動が感じられるようになる。いよいよ関ヶ原の合戦へと戦雲が動くが、その前に、源斎は皆の前で頭(当主)の地位を匡介に譲ると宣言する。自身は、なき太閤殿下からの依頼で工事中の伏見城改造を急ぐ。「懸」だ。「後藤屋」を首になった職人を多く拾って行く。
- 国友彦九郎は頭を嗣いで4年目、鉄砲の新工夫は養父を超え、「砲仙」といずれ呼ばれるであろうと噂されていた。矛の鉄砲と楯の石垣。彦九郎と匡介は、互いに技を競い合う敵役だ。親の代では幾分「塞王」が勝っていただけに、彦九郎の敵愾心は激しい。国友村の鉄砲生産量は全国一になっていた。三成から東軍への鉄砲引き渡しを禁止される。これまではあまり普及していなかった大筒の注文が多くなった。
- 兵装の中の鉄砲のウェイトが増大していた。長篠の戦いでは鉄砲足軽が全体の1割だったのに、本能寺の変では2割、朝鮮戦役になると3割、今や4割。伏見城を攻める西軍の鉄砲の進歩が判ってくる。3町(今までは1町あまり)を飛ぶという威力の増した小筒の弾丸、雨中でも発砲できる銃。後者について源斎は火打ち石と回転の摩擦を利用して放たれていると看破し、情報伝達を職人に託して絶命する。甲賀衆の裏切りで落城するが、13日間も留守役・鳥井元忠は城を持ちこたえた。
- はじめ西軍だった京極高次は北陸路から引き返して東軍へ寝返る。畿内はほとんどが西軍だったから大胆な賭だった。飛田屋に高次の合力依頼が来る。高次は城内に町民を避難させている。匡介は後藤屋からの職人を入れた150名総員で、工事資材とともに城に駆け込む。「懸」である。籠城戦の構えだ。大津城兵3千。すでに西軍2万が迫っていた。その中の5千は音に聞こえた西国無双の立花侍従宗茂。侍従は官位だが、なぜか本書では名より官位を優先的に書いている。
- 結果を先に書くと、大津城攻略が遅れたために西軍は4万の加勢が間に合わず、関ヶ原の合戦で惨敗する。最後は西軍に降伏したが4万を足止めした高次の功績甚大で、家康は高次に若狭と近江高島郡の計9.2万石を与える論功賞を行った。
- さて大津城攻防戦の詳細。立花勢は包囲陣の後詰めだった。国友勢の方も、伏見城戦では新式銃の威力を見せたのに、内応させた甲賀衆に功を奪われて、包囲軍には重用されず、空しく引き上げとなりかかっていたのを立花に拾われる。だが両者の活躍はすぐ始まる。立花四天王に十時連貞という武将が活躍する。NHK金曜時代劇に「十時半睡事件帖」というのがあった。私には十時とは聞き慣れぬ姓だった、十時が本書に出てきて島田正吾が演じた老武士を思い出した。
- 主力の毛利勢が三の丸に侵攻。穴太が築いた石積櫓〜広場の中のトーチカのようなものらしい〜から鉄砲が撃たれ焙烙玉が投げられ毛利勢が敗退する。第2日。石積櫓の伏兵は引き上げられ、中に焙烙玉が詰められた。伏兵殺しに殺到した甲賀衆は、櫓ごとの大爆発でほぼ全滅した。総大将・毛利元康は立花勢を前線に回す。東西の血戦に間に合わせるにはあと4日だった。3日目。立花勢が黒鍬者に土中の水配管を壊させる。配管は外堀の外だから距離があって、防弾壁(車竹束)のある相手には鉄砲の弾が効かない。外堀の水は琵琶湖へ流れ出し底が露出し始める。
- 4日目。雨模様。雨に強い新式銃を携えて、破砕槌で城門をたたき壊し、三の丸に入って、宿将十時の100騎が二の丸突撃を敢行する。雨で多くは撃てない城方を、鉄砲足軽と国友の新式銃隊が狙撃して十時の突入を助ける。この計画を阻止するために、匡介は二の丸門に障子堀(低い石垣を縦横に並べる。馬は助走できなくなる。)を仕掛けた。十時は乱入を止め、銃手とともに石を取り除く作業に入る。城方は防衛に難儀し大半が二の丸に引き上げた。
- 穴太の頼みの綱は外部から運び込む石材。決死隊が3艘分の石を敵船の中を突破して運び込む。なんと舟を石垣囲いにして西軍船の鉄砲玉を避けていた。匡介は二の丸の東西を分断する新たな南北を走る石垣を作った。立花勢の目論見は、二の丸の東西門を同時に突破し揺さぶり、敵勢を分散させ殲滅するという作戦だった。西門から攻め込んでみると敵兵がいない。隠し橋があって撤退していた。東門を攻め入った小早川勢は本丸攻めを始めたが、西門からの立花勢の支援が新石垣に阻まれて来ないまま、三の丸に引き返さざるを得なかった。京極勢は見事に立ち退いたため、ほとんど無傷の3千近くを決戦に備えているという情勢になった。これが5日目。次の日が問題の日限。決戦の日である。
- 彦九郎は新式大筒を攻城に使おうと提議する。口径8.8cm弾丸3.9kgの、10町は飛ぶ当時としては画期的な長距離砲。三の丸からでは邪魔な塀があって狙いにくい。10町あれば逆襲されて奪取破壊される心配はない。鋳造では連発すれば砲が割れる。鍛造で作った特殊砲で1門しかない。三井寺の長等山に砲を設置する。天守への砲撃は城にこもっていた非戦闘員(町民など)をヒステリックな恐慌状態に持ち込んだ。何10人もが(城脱出のために)門を開けと口々に叫ぶ。攻め手の狙いがあたった。
- 長等山攻撃決死隊が進軍。主立った侍はほぼ全員討ち死する壮絶な戦いぶりだったが、砲撃阻止の目的を達成できなかった。匡介は門の内側に脱出を防ぐ石垣を築く。民の痛罵。それが第6日。関ヶ原の戦端が迫っている、大筒は本丸御門を狙う。だが民が群がる場所と知って狙いを天守に戻す。砲身の変形が報告され修理。その夜、彦九郎は大筒を命中率向上のため外堀近くに移す。移設を知った匡介は、出丸の伊予丸の石垣を高くして、天守を狙えないように積み上げる。新式大筒はその排除に伊予丸石垣直撃弾を発射する。戦いは崩される石垣とその修理の競争になった。発射間隔は射手の熟練とともにどんどん短くなる。修理の限界が高次に伝わり、高次は降伏。それは新式大筒が酷使でついに破壊したのと同時だった。
- 西軍は高次を出家、高野山送りで助命した。「京極宰相の戦いぶり、真に見事なり」が攻城の将すべての評価であった。家康は4万の西軍を関ヶ原の合戦に遅延させた大功を褒め称えたが、高次は「拙者は蛍大名にて、皆の力を借りねば絶えられませなんだ」と言い放った。蛍大名とは、名門の誉れと権力者との婚姻関係で危機を乗り越えてきた処世術を世間が風刺することばっであった。家臣領民の掌握に長けた領主であった。京極家は丸亀藩(支藩を入れて6.1万石)として明治維新を迎えた。丸亀城は天守は小さいが、石垣が美しい堅城である。
- 立花侍従は関ヶ原の合戦が終わってのち一旦大阪城に退くが、西軍総帥・毛利輝元に大阪城基点の徹底抗戦の意志がなかったため、柳川に戻りなお抗戦、そしてすべてを失うが、家康に気に入られて旧領柳川藩藩主としての復活を果たす。敗者の中では唯一の例外。明治維新で東京に移転した藩主家が多かった中、立花家は旧領地に留まり、今でも末裔がお屋敷を料亭旅館として、藩の伝統風習などとともに守っていると聞く。水郷・柳川の中にある大名庭園は、大広間の前に池が松に囲まれたなかなかの風情だったと記憶している。
('22/8/30)