塞王の楯(その1)

今村翔吾:「塞王の楯」、集英社(2021)を読む。550pほどの中編小説だ。第166回直木賞受賞作である。戦国期の時代小説に、珍しくも「工」人が主人公として登場する。石垣職人の穴太(あのう)衆と鉄砲職人の国友衆。比叡山門前町の坂本に穴太積みの職人集団が残っていて、TVでときおりその技が紹介される。(旧)国友村は長浜城に近い。国友鉄砲は長く徳川幕府御用であった。訪問したことはないが、国友鉄砲ミュージアムがあって生産工程も詳しく展示しているらしい。そこ以外でも鉄砲鍛冶の紹介は各地の博物館で紹介されている。国立歴史民族博物館には膨大な収集資料があって、その一部を見た記憶がある。火縄銃発砲実演も見せて貰ったことがある。
少年の己(おれ:匡介(きょうすけ))が戦火を逃げ惑い、ついに孤児になるところから物語が始まる。場所は一乗谷。敗走する朝倉勢を追って信長勢が一気呵成に一乗谷の町になだれ込んでくる。浅井を助けようと出発したときは2万はあった軍勢が、もはや500を切っていた。
私は復元が始まった頃の一乗谷遺跡に出かけたことがある。領主朝倉家の館を中心とする細長い(80〜200m)城下町だ。城下町と城外を区分けする上下2つの城戸が最終防衛線だ。上下は2kmも離れていただろうか。下城戸の出入り口は石塁だが、その他は大部分が土塁で、5mほどの高さだった。私は登りはしなかったが、館の裏山が一乗谷城で、本式の防衛戦はこの山城を根城にして戦うように設定されている。しかし急迫する信長軍に対し朝倉勢は体勢を立て直すことも出来ず、領主が真っ先に城を放棄し、城兵もてんでばらばらに敗走して行く。匡介を救ってくれたのは、飛田源斎だった。匡介の石の声を聞き分ける能力に惚れ込んだ。彼は穴太衆の頭で、一乗谷には防塞構築のために招聘されていた。
匡介は源斎の養育の下で成長し、今は30歳。穴太衆の副頭となって腕を磨く傍ら飛田組の差配を手伝っている。時世は秀吉の天下統一がなった頃。戦国期とは異なり、城は工期よりも威厳と美観を重視する時代になり、穴太衆も変わらねばならぬと源斎は思っている。
穴太衆は石の採掘(山方)、運搬(荷方)、積み上げ(積方)の3班に分かれて作業する。飛田屋職人人数は山方30、荷方100、積方8。積方にはこれに近郷の臨時人足が入り、総勢100ほどになるという。穴太衆の工事手法が詳細に文字で表現してある。山方は、基本は自然石の蒐集だが、岩壁・大岩も鑿で切り崩して使う。そこでは石の目に沿った割りかたがコツ。文字説明ではK/Hはよく判らない。積方につては、今回は熊本城の修復であったが、構築法を生で見る機会があるし、図解も出回っているから何とか判る。荷方の、伏見城改築の例で、船便と陸便で大小の切り石から栗石までを運搬する様子が、人数配置に至るまで具体的に書いてあってよくわかる。
私は小豆島の石切場とか残石を見た覚えがある。穴太と関係があるかどうかは知らない。小豆島は「二十四の瞳」に出ていたように、ごく近年まで石切場を残していた。残石とは大阪城へ運搬されなかった大きな残り石だ。割りあとがあるから割方は判るが、これを人力と牛馬だけで船着き場まで動かすのだから、はてどうするのかと思ったものだ。海上輸送は、大石の場合は、石の浮力を利用したと説明看板に出ていたが、本書にもそう載っている。
この小説の題名「塞王の楯」の楯は石垣だとすぐ気がつく。でも塞王は判らない。「塞翁が馬」の塞とは同音だが意味が通じない。穴太衆が信仰する「道祖神」は「塞の神」で、「賽の河原」に通じる石と縁が深い神で、穴太衆の祖とあがめられ、当代随一の技の主は「塞王」を名乗るとあった。
本能寺の変では近江の地侍はすべて、ただし蒲生を除いて、明智に同心した。蒲生賢秀はそのとき安土の留守居役で、城に残っている織田の一族を居城の日野城へ退避させた。その後賢秀の子の氏郷は太閤に取り立てられ順調に出世し、会津では42万石最終的には93万石弱の太守となった。会津若松市の興徳寺に墓がある。今の寺は、町中にあるためか、敷地はやせ細っている。蒲生家は氏郷から3代で断絶した。周囲とは不釣り合いに立派な墓は歴史を感じさせる。
日野城は周囲皆敵でしかも明智は近江制覇を急ぐ。飛田屋は懸(かかり:突貫工事)の注文を受ける。2日、3日の余裕しかない。敵は明智に恩を売りたいという甲賀衆。後々までの難敵。歴然たる兵力差。支城守備兵は全部本城の日野城へ引き上げる。石も支城の石垣を活用。それでも敵前での石垣造りになった。攻城軍の標的となり時には戦いながらの工事だ。突貫工事の職人は荷方だの積方だの山方だの言っておれない総掛かりだ。そのために日頃から専門以外の部署での実習を怠っていなかった。半分ほどは破られたが、匡介発案の逆手、石垣爆破で敵兵を石の下敷きとすることで、からくも蒲生は和睦に持ち込んだ。
日野城趾はダム建設(1965年竣工)で、ほとんど昔の面影が残っていない。わずかに残る本丸頂上部らしい石垣は、写真で見る限り、私の知る緻密な穴太積みではなく、原始的な自然石荒積みの野面積みだ。本書の戦記に出てくる位置にはもう遺跡はないようだ。日野町には、近江日野商人ふるさと館や日野商人街道があって、日野商人の歴史を保存しようとはしているが、遠く400年の昔に活躍した蒲生氏の旧跡は観光の表看板にはなっていない。
大津城に京極高次が6万石で入場する。本能寺の変のあと秀吉が光秀の坂本城を廃城にして築いた城で、交通、経済の中心であり、京都入り口の軍事拠点でもあった。(家康は関ヶ原の合戦後廃城とし、その南東2kmあまりの位置に膳所城を築城する。大津城々門が移築された。膳所藩武家屋敷は、私が若い頃までは、旅行案内に載るほどの景観を保っていたが、今は写真で見る限りいくつかの土塀の連なりに面影を留めるのみだ。膳所藩資料館がコンクリート建造物に建て変わっている。)今は地上の遺跡はほとんどなく、位置を示す石碑があるだけになっている。さて秀吉の天下になり、戦火は収まり世の中は平穏になった。が、いつまで続くか? 高次は、この際にと、城の防御力向上を目指す。改造計画およびその実施を飛田屋に丸投げする。
伏見城の木幡山への移転に伴う工事が並行して進んでいた。飛田屋では頭の源斎が伏見城にあたり、大津城の改造は、匡介が総指揮を執ることになった。大津城の縄張りは比較的正確に後世に伝えられている。本書にも付図として挟んである。琵琶湖に浮かぶ水城で、本丸、天守閣が独立の伊予丸とともに湖面に接しており、二の丸、奥二の丸、三の丸が内堀、中堀、外堀で守られている。
匡介は、空堀の外堀に水を引けば、防御力が飛躍的に上昇すると考えた。藩財力からは湖水面まで空堀全体を掘り下げることは不可能。部分的な深掘りと暗渠によって水堀にしようとする。その計画が文章で説明されているのだが、ほとんど水力学的には理解できない(本書一番の欠陥)。湖水をポンプも使わずに、湖面より高い空堀に送ることなど原理的に不可能だ。小組頭どうしの会話に棚田の大型化という言葉があった。棚田の水はおそらく山の地下水で、登山者が渇きを癒す湧き水と同質のものだろう。
大津城趾の地図を見ると、三の丸の三井寺口から300mほどに三井寺の丘陵が迫っている。あの地方の地下水層がどんなものか知らないが、琵琶湖西岸は山脈が迫っているからおそらく水量豊かで、水位も高いのだろう。本書の描写は、地下水位の高い場所に池を掘り琵琶湖に流れぬように工事をするとともに、その水を暗渠木管で外堀の最高レベルの位置に送り込み、あとは外堀を適当な数に区分けにして、棚田に水を流すように工事したのだと思った。漏水を防ぎ土壁の崩壊を防ぐ土建技術についてもいろいろ書いてある。

('22/8/30)