インダス文明

「岩波講座 世界歴史6 南アジア世界・東南アジア世界の形成と展開」(1999)と「岩波講座 世界歴史04 南アジアと東南アジア〜15世紀」(2022)の中からインダス文明に関する2論文を読んでみた。もう70年以上の昔になるが、高校の世界史でインダス文明を教わった。以来、知識の追加は心がけた。例えば東京都立美術館のインダス文明展('00年)やNHKオンデマンドのシリース世界遺産100の「最古の計画都市 モへンジョダロ遺跡(パキスタン)」(見たのは'13年)を記憶している。
インダス文明展については日記に記録が残っていた。幾分手を入れて掲載する。このHPには「インダス文明」('00)という題で少し違った書き方でまとめている。
「正味3時間は見ただろう。・・出品物は・・土器類が殆どだった。NHK-TVで見た煉瓦造りの計画都市を偲ばせるものは煉瓦の破片と写真とTVにも出てきたアニメーション、それから部屋の一角に造られた家屋模型ぐらいである。イヤホンガイドも聞いた。
紀元前2500-1800年の文明という。他に比べると短い期間である。類のない計画都市を造った。発見されている都市は広大な領域に4ヶ所ぐらいで、あとは村落遺跡という。半世紀昔に高校の世界史で学んだ知識が今までの全てであるから地味な出土物にもかかわらず興味があった。モヘンジョダロとハラッパー。
今回(の焦点):インダス文明以前から農耕文化があったこと、最初の栽培植物は麦であったこと、衰退の原因に、インダス川の河床が大きく変化したこと、人口増加と樹木の乱伐採がある、都市が消えた後も更に数百年は村落が続いたこと、前1500年頃インド・アーリャ系民族が侵入し、漸次インド北側に定着、インダス後続文明と融合してヒンズー教に反映していること。
NHK-TVですでに知っていたが、昔のインダス川は今のインダス川よりは随分と東側を流れており、遺跡はその両側に点在している。彼らの文字は印章その他に僅かずつしか残されていないために、また既知言語との対訳のある資料もないために殆ど解読されていないが、インド南部に今住む先住民民族の語順と同じと判ってきたので更に解明が進むと期待されているという。
最大都市で人口4万人。青銅器までの文明で、注目すべきは戦の遺跡や武器の発達貯蔵準備などが殆どない平和な通商都市であった点である。」。
まず世界歴史6の小西正捷:「インダス文明論」。
「ハラッパー期とその前後の遺跡分布」という地図が載っている。遺跡はパキスタン全域とガンガー(ガンジス)川上流河畔、ヤムナー川上流河畔のインド北西部、ターブティ川河口あたりまでのインド・アラビヤ海沿岸までをカバーする広域に分布する。出土品は当然大きな地域差が見られるし、異文化と見られる堆積層が重なっていたりする。都市遺跡は9ヶ所に及ぶ。
ハラッパー遺跡は、モヘンジョダロ(モエンジョ=ダロ)遺跡とほぼ同じ時期(今より1世紀昔になる)に、発見され、調査された。インダス文明の発見だった。ハラッパー文化はインダス文明を代表する標準遺跡の地位が与えられている。近くと言っても200kmは南だが、インダス系旧河川の涸河床(ヴェーダ聖典にも言及がある)には、時代が幅広く分布する遺跡が密集していて、標準遺跡化への道を付けたのであろう。盛期前後の文化層の存在から、文明を巡る精緻な編年研究が期待できる、ほとんど唯一の遺跡だという。
インダス川流域はインダス文明の中枢地域だが、ハラッパーとモヘンジョダロは規模はほぼ同じで、最盛期も同じころとされる。それぞれ上流域のパンジャーブ地方と下流域のシンド地方を代表する大規模都市で、500kmは離れている。2国家並存を意味しているのかも知れない。「インダス文明」('00)ではドーラーヴィーラー遺跡を紹介している。モヘンジョダロの南東500km、ハラッパーの南方800km。アラビア海に沿ったインドからパキスタンさらにオマーン半島にまで痕跡を広げるもう一つのハラッパー文化帯である。これは文明の盛期の海路による交易活動を意味する。陸路遠距離交易の証拠にはアフガニスタンやカシミールに入り込んだ位置の遺跡がある。本論文ではこれらにはあまり触れられていない。
ハラッパー文化が時代とともに東進した証拠がある。後期ハラッパー土器はインド北西部で後に広く分布することになる彩文灰色土器と混在して出土する。ハラッパー人と異質な民族(例えば「アーリア人」)との共存の証明にはならないが、インダス文明がこの地方においてはおそらく前1200年頃まで長らえたことがわかる。
次は世界歴史04の小磯学:「南アジアの古代文明」。
エジプト文明にもメソポタミア文明にも膨大な文書が残されている。ギリシャ・ローマにはそれら西アジア文明に関する交流記録が残っている。聖書にも記載がある。しかしインダス文明はイギリス植民地のインド帝国が発掘調査を行うまで忘れ去られていた。インダス文字は平均して5字ほどの印章文字で、最大17文字という。発見から1世紀は経ったが、文字は解読されていないし、解読されても文書資料の少なさは、都市遺跡の構造や群落の分布などからある程度はわかるものの、具体的な社会構造や担い手などを明らかにしてくれるか疑問だ。印章文字が取引の証明に用いられたことは確かで、交易が広域に及んでいたことを示す。
インダス式印章はインダス文明とともに固有の形式を持った形で現れる。だが先文明期にすでにインダス平原に、イラン系の影響が窺える先行印章が展開していた。それが広域化する文明の運営・統治のために、新たなデザインとシステムとなって行き亘るようになったと思える。儀礼的シーンの印章はたったの2例だが、神・ヒト・祭礼儀式の構図は、都市遺構に壮大な神殿も王宮もないのだが、信仰とか王権とか神権が存在したことを暗示する貴重な品だ。南インドのドラヴィダ系言語との相関を説く学者がいる。正しければインダス人は西アジア出身なのだろう。
先文明期は陸路によって結びついていたが、文明期になると海路が加わり、メソポタミア文明との直接・間接的な交易が活発化する。メソポタミア都市からインダス式印章が出土する。彼の地の粘土板文書にも登場する。商人のコロニーや公的関係を示唆する文書もある。珍重された輸出品は赤メノウで、王墓からの副葬品に入っていた場合もある。
上述の通り、王とか神といった権力が集中する機構を示す遺跡がない。紛争の痕跡がきわめて少ない。西アジアの両文明は約3000年にわたり王朝や国家、帝国の足跡を残した。だがインダス文明は700年ほどで潰えた。印章文字は使われなくなり、出土品の文明共通点がなくなって行く。ヒト、モノの交流が滞り交易が衰退したことを示す。再び都市社会の統治が現れるのは1300年後のガンダーラ王朝である。しかもインダス文明の中心ではなく北周辺地だ。
物的資料は科学調査法の長足の進歩を反映して豊富になった。出土人骨の歯石のデンプン粒の分析結果が引用してある。ナス、マンゴー、ヤムイモ、コショウ、ショウガ、ウコン。後世のカレー料理の必須原料がこの時代にすでに出ている。麦類、雑穀を主とする農耕、ヒツジ、ヤギ、ウシ、スイギュウの牧畜もこの時代に確立した。
当時の社会構造をピラミッド型のヒエラルキーではなくヘテラルキー(多頭的階層)とする説が、私にはなんだか空想的に思えるが、有力になりつつある。職業集団、商人集団、宗教集団などの多頭による社会の一体化が図られていたとする。後のカースト制度の萌芽があるとする。それを後年侵攻してきたアーリア系民族が先住民族支配に「活用」したこととなる。

('22/8/18)