東南アジア〜15世紀
- 弘末雅士ら編:「岩波講座 世界歴史04 南アジアと東南アジア〜15世紀」、岩波書店(2022)を借り出した。本書の南アジア関連の著述を読んだ(「南アジア〜15世紀(その1)&(その2)」)のに引き続き、今回は東南アジア関連の論文を読む。東南アジア連合(ASEAN)は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアの10か国で構成されている。
- このHPには「老いてゆくアジア」('08)、「メコン圏」('11)、「ビルマの歴史」('11)、「スリランカの物語」('11)、「ベトナムの物語」('11)、「マレーシアとシンガポールの物語」('11)、「東南アジアの華人」('11)、「経済大国インドネシア」('12)、「インドネシアの物語」('17)、「北ボルネオ紀行」('18)、「西ボルネオ紀行」('18)、「フィリッピンの歴史」('18)や、3回ほど乗船した、アジアめぐりのクルーズでの各国寄港談も入っている。太古のオーストロネシア語族の華南や台湾からの海洋移動については、「1.3万年の人類史」('16)に書いている。
- 青山亨:「東南アジアの形成と展開」。
- インドシナ半島(ベトナムからミャンマーまでの中からマレー半島を除く地域を指すことが多いが、ここではその定義に拘らない。)では前2千年紀には稻作農業が始まり、前2千年紀末には青銅器が普及、前4世紀頃には鉄製農具による水稲耕作が普及する。前1千年紀後半には階層化した首長制社会が形成される。中国では初の統一王朝・秦が、インドではアショーカ王(前3世紀)を生むマウリヤ朝が紀元前1千年期末に立ち上がる。北からの中国化、南海岸からのインド化が進む。
- 扶南は半島初期国家の中では、漢籍、碑文、考古学資料が揃っていて、東南アジア史の解明に役立つ。カンボチャ王国首都プノンペンの南方50kmほどの位置に首都を置いていた。その朝貢は230年頃(三国時代の呉)から始まっている。その後も中国への使節派遣・朝貢は続いた。6世紀前に最盛期を迎える。政体はインド生まれの「マンダラ」的構造とされる。初期都市国家群ネットワークの連合体の頂点に上位共同体の首長が座る。ヒンドゥー神像や仏像の出土が見られるのは、モンスーンを貿易風に利用し始める4世紀以降。(インド化についての世界史用語解説:インド文明一色になったわけはなく、インド人の直接的支配があった訳でもない(日本が漢文化の影響を受容したのと同じ程度だったと考えればよいだろう))。
- メコン川中流のクメール(真臘)が南下し、6〜7世紀末にかけて階段的に扶南を併合した。首都はアンコール地方にあり2万以上の人口だった。隋に朝貢。その西方チャオプラヤー流域(タイ)、エーヤーワディー流域(ビルマ)にも初期国家が成立する。インド化が著しい。ベトナムはことに北は、10世紀ごろまで安南都護府(ハノイあたり)からの中国の影響力(独立後には大越)が大きかった。中部ベトナムにはインド的文化を受容したチャンパー(林邑)が活躍する。山脈が海岸に伸びて地域を分断する地政学的条件により、区域間の連合形式は複雑だったようだ。
- 9世紀初頭から5世紀にわたってアンコール朝の歴代の王たちは、壮大な王都を次々に建設する。巨大な貯水槽、巨大な寺院。12世紀前半のアンコール・ワット寺院、12世紀後半から13世紀初頭の王都アンコール・トムがその代表的遺跡だ。朝貢が再開され海上交易ネットワークへの復帰が進む。しかし15世紀長ごろチャオプラヤー流域のアユタヤ(王朝は1351年 〜1767年、タイ族)の攻撃で陥落し、首都を移転させる、フランス植民地化への衰退の始まりであったようだ。後述の松浦論文も参照してください。
- ジャワ島中部では、8世紀中頃には大乗仏教を報じるシャイレーランド王家が9世紀にかけてポロブドゥールなどの仏教寺院を多数建立した。その後ヒンドゥー教系が優勢になり、王家はジャワ島から撤退して、8世紀後半から支配しているシュリーヴィジャヤ(三仏斉の一角)としてマラッカ海峡域に勢力を置くことになる。シュリーヴィジャヤはスマトラ島南部のパレンバンを中心とする都市国家として出現している。
- チベット・ビルマ語系のビルマ人は11世紀にはエーヤーワディー中流域に初めての統一国家バカンを建設した。まだ上座部仏教は徹底していなかった。ベンガル湾沿岸のモン人(モン・クメール民族)の政体タトンを征服する。モン文化の影響は大きく、ビルマ文字の基礎はモン文字である。バカンでは11〜13世紀にかけて膨大な寺院建造が行われた。今もその遺跡を見ることが出来る。寺院への寄進は国家財政を疲弊させ、元からの侵攻を受けた13世紀末に瓦解する。ビルマはビルマ人の上ビルマとモン人の下ビルマに2分される。
- ベトナム人は江南から北ベトナムに分布する越族に属するキン族が大多数を占める。オーストロアジア語族に属するとされている。既出の通り、他のインドシナ諸国と異なり漢文化の影響の強い地域である。唐の弱体化で独立し、11世紀初頭に、大越が建国した。そのリー朝はベトナム最初の長期安定政権になった。チャン朝のときに3度に及ぶ元の侵攻を撃退した。大越とその南のチャンパーは抗争を繰り返すが、最終的には大越に飲み込まれ、チャム人は多くはベトナム人に同化され、今は少数民族として南部に残っている。チャンパーには交易ネットワークの覇権を巡るカンボジアとの争いもあった。
- 明朝の海禁令は、民間の中国人の海外渡航と外国との通行を禁じ、国家による朝貢貿易に一本化した。永楽帝は、15世紀前半に、鄭和を指揮官とする7回の朝貢貿易推進のための遠征艦隊を繰り出す。最大時には大型艦船60隻以上(ほかに支援艦船多数)、乗員2万数千という大規模な艦隊であった。巨大艦は1隻に最大1000名を載せていたという。その訪問地は、マラッカ海峡のマラッカ王国、南インドのカリカット、イランのホルムズ、アラビア半島のアデン、メッカ、東アフリカのモガディシュやマリンディなどに及んでいるという(世界史用語解説)。
- 島嶼部にイスラームを受容した、スルタンを称するムラカが海洋交易の主導権を握る。後背地が発達しない港市国家で、マレー半島のベンガル湾側にあって、モンスーン航海船の中継基地となる。大陸部のビルマでは上座部仏教が主勢になる。16世紀中頃には陸域・海域結合型の国家が結成される。
- 山形真理子:「ドンソン(ベトナム北方)文化とサーフィン(ベトナム中部南方)文化〜東南アジアの鉄器時代文化」。
- Wikipediaには中国の鉄器時代は紀元前600年頃からとしている。本書では、インドでの鉄器の本格使用は紀元前6世紀からとしてある。我が国のそれは4世紀ごろからと思ったらいいのだろう。山形論文にはベトナムでは前420年頃から始まるとしてある。ドンソン、サーフィン両文化は、その頃からあと100年頃まで並列的に展開する。支配層は秦、南越(地元民族)、前漢、後漢と交替して行く。中国と南インド東海岸を結ぶ交易の中継地となって行く。
- 北のドンソン文化を代表する特徴遺物は銅鼓で、広い分布が価値観の共有を意味する。前3−前2世紀ごろの墳墓の副葬品として出土した。銅鼓は他のインドシナ半島諸国ではもちろん遠くニューギニア島においても発見されている。王墓と言えるほどの規模の墓はないが、ハノイ近くには三重の土塁に囲まれた巨大は城郭跡が残っている。城内に青銅器鋳造の大工房があった。初期国家の成立を裏付けている。中南部のサーフィン文化の特徴は甕棺墓で、副葬品に多くの鉄器が含まれていた。代表的遺物は耳飾り。フィリッピン、ボルネオ島、タイ南部にまで分布している。甕棺葬は東南アジア島嶼部には新石器時代からの伝統がある。オーストロネシア語族(チャンパー(林邑)王国古チャム人もこの語族)の移住と重ねて考える学者もいる。
- 田畑幸嗣:「東南アジアの古代国家」と松浦史明:「アンコール朝の揺れ動く王権と対外関係」。
- 扶南は3世紀から出現し、6世紀を過ぎるとほぼ文献から姿を消す。7世紀末までは存続したらしい。筆者は、漢籍に載り始めた頃の扶南は、首長制社会から国家へと移り変わる過渡期の諸政体の総称だったと考えている。6世紀にはアンコール・ボレイが扶南の都として現れ、オケオが都に繋がる水路を持った外港として出てくる。双方とも考古学的に遺構が確かめられている。出土品は中国、インド、ローマまでがオケオを介して繋がっていることを示す。
- 今日に至るも名高い特産品:沈香が史書「南史」(南朝:439 - 589年)にすでに出ている。正倉院の名香:蘭奢待は、ジンチョウゲ科ジンコウ属の植物の樹幹に、樹脂や精油が沈積した沈香の一種で、産地としてラオス中部からベトナムにかけてのインドシナ半島東部の山岳地帯と推定されている(Wikipedia)。ジンチョウゲの花は春に芳香を放つので、ジンチョウゲ科の香木の素質を想像させる。ただしこちらはジンチョウゲ属。蘭奢待は今もって香りが失せぬそうな。沈香と伽羅はほぼ同義。今はもうタイにしかいないアジア象も扶南産品として記載されている。
- 扶南を嗣ぐのが真臘(しんろう、アンコール朝)である。6世紀末〜7世紀初め(前アンコール期)の都・イーシャーナプラとして同定された遺跡が存在する。後のアンコール時代の首都の雛形的配置を示す。
- アンコール地方は、短い中断期間はあるものの、9世紀初頭から15世紀までのおよそ600年にわたって、国家の中心であり続けた。最盛期はスーリャヴァルマン二世、ジャヤヴァルマン七世在位の、12世紀から13世紀に跨る100年ほどの時代である。アンコール朝は11世紀に入ってから西方へ版図を広げた。スーリャヴァルマン二世は朝貢を再開し、中国からの認知を得ている。寺院への寄進物に中国製品が多数見られる。ジャヤヴァルマン七世はチャンパーと大越を巻き込んだ32年間の争乱で、王朝の最大版図を得た。国家の主軸はヒンドゥー教であったが、仏教との関係も深まり、彼は仏教を国家の中心宗教として強力に推進して行く。
- アンコール朝は、1431年にタイのアユタヤ朝の攻撃で王都が陥落して周辺地域が恒常的な支配を受けるようになり、カンボジアの王権は南のプノンペン方面に移り、衰退に向かうが、朝貢は頻繁で、14世紀初頭の中国文献には、交趾(こうし、北ベトナム)、占城(中ベトナム)、暹(せん、タイ)、単馬令(たんまれい、マレー半島中部)、三仏斉(さんぶっせい、マッラッカ海峡地域)、闍婆(じゃば、ジャワ)などとともに、真臘も周辺地域を管理する中心地として記されている。
('22/8/14)