貴族の義務


明治維新に携わった指導者たちは、佐幕攘夷を問わず、神々しいまでに利他的で責任感に満ちた行動をした。同じエリートでも、現在の大蔵省や証券界のエリートたちの利己的で無責任な行動に比べれば、彼らは次元の違う人間群像である。他人より恵まれた才能を、多分他人の犠牲において、ただただ自己の飽食に使う。それがエリートの道ではないことは明らかである。いつどのような過程で、現在のエリートたちは、先輩たちの美徳を継承しなくなったのか。
今月5日付の京大学生新聞の「真のエリート意識が危機を救う」という主張には共感を覚える。今世間を騒がしているエリートは大半が東大卒である。東大の学生にはどんな議論が渦巻いているのか、それとも、中教審中間答申にあったように、個人の自由と白けているのか知りたいものである。東大学長は、入学式の祝辞の中で「一部のものの悪行」のように表現され、掘り下げられなかった。これは「今後もこんなものです」と云っているのと同じで、エリートの道徳性向上に全く期待が持てないこととなる。エリートがしっかりしないと、國の将来は泥沼である。京大学生新聞の論説をエリートの卵の発言として聞いた。誠にすがすがしかった。
世に高級新聞と称される全国紙でも、こんな記事はなぜか何かをはばかって記者は書かないだろう。一般のマスコミにも学生の感覚的断片的発言は載るときがあるが、深く考え整理した発言とは言えぬものが大半である。将来を預けるに足る若き精鋭と認知できる学生を、十分に取材してほしいものだ。大学生はすべてが我が国の将来を同じ割合で担っているわけではない。エリートになれる人は全大学生の1%もおらないだろう。
欧米では「貴族の義務」をエリートたちは例外なく今日でも教育されると書いてあった。ついこの間まで我が国でもそうだった。だが民主主義という名の下で、エリートを一般大衆のレベルまで引きずり下ろした。エリート意識を持つことすら罪悪感を覚えるような風潮が支配してきたのではなかったか。そのくせエリートへの期待は戦前から引き継いだ理想像を踏襲しているように見える。
地球規模の自由競争時代に入って、我々は「本当の貴族」まで追放した愚かさに気づき始めた。真のエリートを育てねばならぬ。それには今までの悪平等主義の呪詛から自らを解放して、人を選別せねばならぬ。相応の待遇をせねばならぬ。その土壌は社会全員の責任で作らねばならぬ。支える方もそれなりの犠牲を支払う覚悟がないと、真のエリートなど出てくるはずもない。

('98/04/16)