財政赤字の神話
- S.ケルトン著、土方奈美訳:「財政赤字の神話〜MMTと国民のための経済の誕生」、早川書房(2020)を読む。「日本国債」でも触れたように、6/2の毎日のScopeの「借金2000兆円避けるには」に載った財政赤字肯定の現代貨幣理論(MMT)である。
- 政府財政での赤字垂れ流しが、子、孫、曾孫、玄孫の生活の重荷になることはわかりきっている。少子化もこれに深く関わり合っているのだろう。でも野党ですら赤字を太らす方向の発言しかしない。私はもう米寿。ここまで来て後に続く人たちに、民族消滅の道しか示せないのかと暗澹たる想いに陥ることがある。この悲観論は大間違いだと説くのが本書である。
- 序章はMMTの歴史から始まる。ケインズの頃にまで遡れる経済思想だ。財政の中心は納税者ではない。通貨の発行体、すなわち政府である。税金が政府支出の財源であるという考えは幻影だ。政府が不換通貨を独占的に発行するすべての通貨主権国に当てはまる。だが財政権限のある議会は「財政健全化」の呪縛を政治手段として、社会保障、教育や医療への支出を抑えるのに役立ててきた。
- 著者は、2009年のリーマン・ショックのときのオバマ大統領と議会の、中途半途な景気対策をこき下ろす。大統領は腰が引けてしまった。大不況回避に試算された金額1.8兆ドルの半分も計上しなかった。「財政赤字ヒステリー」は重大な障害だった。本書はまずこのヒステリー神話を解きほぐすのを目的にしている。神話は6題目の6章に分類してある。トランプ大統領になって、もっとも支援を必要としない層に恩恵をもたらす税制が可決された。国民のニーズと公共の利益を優先する財政政策は、富裕層への依存ではなく、赤字財政が経済に好ましいと認識するところからはじまる。 日本版序文には、「財政赤字」こそ、コロナショックを脱する唯一の道であるとなっている。
- 著者はNY州立大教授で、'16年と'20年の大統領選挙では、若者の支持が多かったサンダース上院議員の政策顧問を務めた。
- 第1章は「家計と比べない」。神話1:政府は家計と同じように収支を管理しなければならない。現実:家計と異なり、政府は自らが使う通貨の発行体である。
- 第2章は「インフレに注目せよ」。神話2:財政赤字は過剰な支出の証拠である。現実:過剰な支出の証拠はインフレである。
- 第3章は「国家の債務(という虚像)」。神話3:国民はみな何らかのかたちで国家の債務を負担しなければならない。現実:国家の債務は国民に負担を課すものではない。
- 第4章は「あちらの赤字はこちらの黒字」。神話4:政府の赤字は民間投資のクラディングアウトにつながり、国民を貧しくする。現実:財政赤字は国民の富と貯蓄を増やす。
- 第5章は「貿易の「勝者」」。神話5:貿易赤字は国家の敗北を意味する。現実:貿易赤字は「モノ」の黒字を意味する。
- 第6章は「公的給付を受ける権利」。神話6:社会保障や医療保険のような「給付制度」は財政的に持続不可能だ。もはや国にそんな余裕はない。現実:政府に給付を続ける意志さえあれば、給付制度を支える余裕は常にある。重要なのは、国民が必要とする実物的な財やサービスを生み出す、経済の長期的能力だ。
- ルーズベルト大統領は「ゆりかごから墓場まで」を保障する社会保障制度の構築を目指した。1935年社会保障法成立。この保障が給付税と関係づけられ、独立採算の仕組みと印象づけられた。給付税は源泉徴収され信託基金に入る。近年に入ると寿命が延び出生率が下がって基金の底が見え出す。議会は給付削減に乗り出す。退職年齢を引き上げる(1歳で6−7%の給付削減になる)。ブッシュ大統領の民営化論が飛び出す(実現せず)。オバマ大統領は社会保障給付の増加をインフレ率の上昇より遅らせる案を出した。日本では、6月から食品代など物価の高騰が続くのに、年金が前年と比べて0・4%減額する。年金の保険料を納める現役世代の賃金が新型コロナの影響などで減ったためで、引き下げは2年連続となる。
- 著者は、通貨発行者である政府の支払い能力を問題にするのが、そもそもおかしいという。高齢者、障害者、貧困層も人間だ、信託基金の黒赤とは関係なく、人並みの暮らしを送り、経済的安定を手にする権利があるという視点に立たねばならない。信託基金の帳簿上の健全性の確保は、通貨発行者にとっては容易なはずだ(何例かが示してある)。もちろん極端な赤字財政はインフレの引き金になるから留意せねばならない。
- インフレは通貨不安をもたらす。MMTが成り立たなくなる。今(6/下)はCPIがまだ4%台だろうから、インフレ傾向と言ったところだ。でもアメリカは8%。日米のますます拡大する金利差(6/下には3%を越した)が、そのうちにアメリカのインフレ率に追いつかせるだろう。でも10%、20%というオーダーではないきついインフレになると本当に通貨不安が来る。
- 我ら世代は戦後のインフレ時代を経験している。政府がお札を刷りまくり、市場は公定価格と(10倍100倍の)闇価格の二重価格体制となった。私は都市住民だったから、近隣の農家に兄に連れられて食料買い出しに行ったこともある。半ば以上物々交換の時代に入っていた。箪笥から母の着物が次々に消えていった。我々には、幸い「日本」に対する過去からの信頼があった。円を新円にして乗り切った。だがまた通貨不安に襲われたらどうするか。
- 国がなくなったり、超インフレ、超々インフレに見舞われたり、インフレ・レベルでもそれが慢性化した国であったりしたときの国民の反応は、外国のあちこちで見られる。中東の政情不安な地域では、今もって、一般市民でも金銀で財を蓄えようとする傾向が強い。資本先進国でも国の「非兌換」の自国通貨が信頼できない国では同じだ。政情如何に関わらず、実質価値変動が少ない金銀(ここ20年で数倍の通貨価格に跳ね上がった)やダイヤなどの宝石類、不動産や安定外国通貨などに資産を分散させるのは、お金持ちの通癖だ。
- 第7章は「本当に解決すべき「赤字」」。
- 議会は財政権力を憲法から与えられている。しかし財政赤字の神話に囚われ、経済をむしばむ本当の不足を正すためにお金を使うことが出来ないでいる。MMTは財政を議論する際の焦点を政府債務や財政赤字から、本当に重要な不足へと移すと本章の最後に書いてある。日本は、世界随一の超赤字財政なのにもかかわらず、準安定的な何とかインフレを伴わない社会を維持出来てきた。MMTはきっとそれに力づけられているのだろう。アメリカの本当に重要な不足について、この章は40pに余る紙面を使って縷々解説する。
- 「質の高い雇用の不足」、「貯蓄の不足」、「医療の不足」、「教育の不足」、「インフラの不足」、「気候変動問題への取り組みの不足」そして最後が「民主主義の不足」だ。部分的には新聞その他で知っているが、こう纏めて解説されると、アメリカさらには資本主義国家の根深い病巣に唖然とさせられる。民主主義は民衆を幸福にしないのではないか。本書は歯に衣を着せずに欠陥をラディカルに指摘してある。
- トップ1%がアメリカ全資産の40%を、トップ10%が70%を所有している('16年)。下位50%が手にする所得は国民全収入の13%に過ぎない。国民の半分はその日暮らしで、4000万人が貧困状態にある。景気に合わせて雇用と解雇が繰り返されるが、報酬の高い仕事を失い、スキルや教育水準に見合わない低報酬の仕事にしか就けない不完全雇用が増えている。人はみな使い捨てであるという意識が蔓延している。ことに女性、若者、ヒスパニック系などに、生活費に対する不安が広がっている。
- まっとうな雇用の喪失が貯蓄の喪失を招いている。退職に備えた貯蓄がゼロという割合が21〜45%に及ぶ。51%が老後のための貯金を一切していない。その内訳は強い人種差別男女差別の存在を物語る。大型の住宅ローン、学生ローン、自動車ローンなどなどが負債となっている。医療先進国でありながら、アメリカの平均寿命は今や先進国平均を下回っている。医療保険未加入が多いし、その保険も不完全で自費負担が大きい。富裕層との格差、人種格差が大きい。
- 学費の高騰は有色人種の大量退学を呼んでいる。学位を獲得しても経済的安定を手に入れられない。大卒の60%は2000年より現在の方が収入は下がっているという。住宅問題はインフラ問題の典型だ。家賃負担に苦しむ(収入の30%以上の家賃)借家人の割合は、今や借家人全体の47%('17年)という。ここにも酷い人種問題が存在する。「白人域」では黒人は住めないという法的障害は取り除かれたが、黒人の持ち家率は1960年代より悪化している。気候温暖化に対するアメリカの責任はずば抜けて高い。1人あたりの排出量がずば抜けて高いのだから。その取り組みにはしかし冷淡だ。
- MMTは「財政赤字の神話」のドグマを打ち破ろうとする提案をする。だが、ドグマ問題だけではない。改革冷淡の裏には富裕層が税制を都合良く書き換えてきた問題もある。かっての累進課税では最高91%もあった。現在は最高が37%で、しかも、Webを見ると、所得上位者25名が支払った所得税を税率に換算すると、わずか3.4%に過ぎなかったというニュースがある。
- 狭量の施策による中産階級の没落は経済成長を鈍らせることは明白だ。労働法問題もある。強制仲裁や非競争契約といった手段を許しているではないか。(私見だが)日本で問題になっている、巨大会社が小売りや配達の労働者を個人事業として扱う抜け道もふさがねばならない。労働組合の団交は目の敵にされるようになった。それを反映するかのように、生産性は一貫して上昇を続けたが、賃金の伸びは微々たるものだった。'50年頃のCEOは労働者の20倍の収入だったが、今や361倍だという。
- 免許制度や知的財産法を使った競争阻害による差別増進もある。法上の明らかな不公正もあった。私の現役時代の記憶だが、米国の先発明主義の特許出願における新規性の判断において、公知・公用が米国内に限定されていたため、外国からの出願は不利だった。やっとオバマ大統領時代に、先出願主義に変更され、この不利は解消された(2013年施行)。
- 第8章は「すべての国民のための経済を実現する」。
- '08年の金融危機後の大不況が第2の大恐慌に陥るのを免れた最大の理由は、アメリカにも失業給付、メディケイドなどの社会的セーフティネットを通じての、自動安定化装置(議会の裁量を待たない自動的に行われる義務的支出)が不十分ながらも機能したからである。筆者はさらに完全な「政府による就業保障プログラム」を提案する。失業給付には数多くの制限事項がある。就業保障は、生活できる賃金で公共の利益に役立つ仕事を確保し、景気回復後の民間への再就職におけるスキルを維持向上させる恒久的制度である。景気循環にかかわらず雇用を安定させることを目論む。
- 不況時における日米の失業率の差は非常に大きい。日本の雇用制度は比較的にはまだ労働者に手厚い。重大な社会不安定化に至らなかった理由だ。アルゼンチン、南アフリカ、インドには就業保障に近づいた対策が実施されている。F.D.ルーズベルトは「第2権利章典」という就業保障を目指したが、成立しなかった。コロナ危機は新たな経済不安因子となって世界を襲った。日本では「特別定額給付金(国民1人あたり10万円一律)」、「持続化給付金」、「雇用調整助成金」などで大揺れを食い止めた。MMT派であろうとなかろうと、せっぱ詰まれば戦費と同じで、やることは同じといった塩梅だ。
- 「政府の借金はインフレをもたらさない限り問題ではない」と本書は言い続けている。インフレは実物資源が支えられる需要のレベルを支出が越したときに発生する。どの国にも、人材、労働力、工場、機械、原材料などなどには限りがあって、経済の速度を制限している。アメリカは今まで制限速度以下で走ってきたから、まだまだ支出を増やす余裕があると著者は言う。日本は?
- 一番最後に、持続可能で二酸化炭素を排出しない発電方法への転換に、踏み込んだ提案をしている。政府が旧式化石燃料発電所を簿価で買い上げ、電力会社に再生可能エネルギー、蓄電などに積極的に取り組ませるというものだ。五島沖の日本初の実用「浮体式」洋上発電の記事が6/16の毎日に出た(「6月の概要(2022)」に紹介)。大型大発電所の可能性を秘めているという点では、この「浮体式」は大いに魅力的だ。チマチマした太陽光発電の助成もいいが、もう待ったなしの二酸化炭素対策として一挙に進めるべく、ケネディの月探査計画のような大型プロジェクトとして、政府は取り上げるべきではないか。
- 元に戻って政府の大借金はどこへゆくかを考える。(私見だが、)政治家が増税で帳消しにするとは思えない。少しづつの物価上昇の度合いに応じた絶対貨幣価値の低下によって支払うことになるのは自明だ。日銀総裁はインフレ率が2%だったら許されると思っている。30年ほどのちには資産価値は半分だ。定年退職者だったらもう95歳だから、資産などどうでも良くなっていよう。ただし退職したときに相応の老後資金がある人の話だ。10%だったら、7年も経たないうちに半分以下だから、ちょっときつい。今まではデフレ、デフレでハッピーでありすぎたか。
('22/6/20)