人新世の科学
- O.シュミッツ著、日浦勉訳:「人新世の科学〜ニュー・エコロジ−が開く地平〜」、岩波新書(2022)を読む。原著は'14年に出版されている。著者はイエール大学教授で群集生態学を専門とする。副題のニュー・エコロジーとは、人間と自然を一体として捉える新しい生態学だとある。訳者あとがきには、日本には生活に自然を取り入れる伝統文化があるため、受け入れられやすいかつ目新しいとは言えぬ発想だが、米国ではなかなか理解されないとある。
- 島国の鎖国状態で、ぎりぎりかつかつで自然と妥協しつつ、精一杯の人口を養った国と、世界は無限大で、足らなければよそから収奪できた欧米諸国との、歴史的な相違が生んだ思想の差と私は思う。経済上での人新世の到来は早くから意識されてきた。このHPには、「資本主義の終焉」('14)、「ポスト資本主義」('21)、「人新世の「資本論」」('22)などが見える。ピゲティ:「21世紀の資本」('14)が世に出てから一般大衆にも自覚されるようになった。「おとなの教養3」('21)では、広く浅くだが、経済以外の分野における人新世をも概観されている。
- 第1章は「持続可能性への挑戦」、第2章は「種と生態系の価値」、第3章は「生物多様性と生態系機能」そして第4章は「飼い馴らされた自然」以下第8章までの全200pほどの構成。本書各章の題名から察すると、第4章までが著者の現状認識で、その次の章から著者の展開が進むと思われる。ということで第5章「社会ー生産システム思考」から読み始めた。
- 大西洋タラ漁の歴史は、北海道ニシン漁の歴史をさらに大型化したものだ。大型化とは大型工場船の出現で、この工業漁業により、16世紀初頭からはじまり、ほとんど無尽蔵と考えられていたタラ資源が20世紀末に枯渇してしまう。資源回復はなかった。
- 石狩湾中心に、明治末期から大正・昭和初期にかけて、大漁大漁で賑わったニシン漁も「石狩挽歌」に唄われるとおりに、「あれからニシンはどこへ行ったやら」の不漁となり、ソーラン節の声も消え、「ニシン御殿も 今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」となってしまう。歴史民族博物館にはニシン御殿の精巧な模型があった。小樽にはそれらしき建造物が公開されている。こちらも資源は回復しなかった。
- サケに関しては、我が国での卵の人工孵化放流作戦のある程度の成功は報道されている。でも例えば石狩川でのサケの漁獲量は、絵に残っているような、アイヌが和人との交易資源にしていたころに比べれば、いかにも少ないというのが現状だろう。資源自主管理の勝利と華々しく宣伝されたことのあるハタハタは、一時4千トン台に回復したが、近年では漸減傾向が収まらず、半世紀以上昔では年間2万トンを超す漁獲だったのが、今や年1千トンかつかつだ。
- 我らは今更のように生態系の可逆性不可逆性に思いをいたす。動植物プランクトンからクジラ、アザラシらの海獣に至までの無数の生命体のバランスは微妙そのものだ。船の航行の邪魔になるほど豊だったタラは、年2万トンほどの漁獲には耐え、資源回復していたが、漁猟が一桁上がってからは元のバランスに回復せず、生命系には別の食物連鎖サイクルが生成される。このレジリエンスの限界は、漁業資源に限らない。
- ニュー・エコロジーは、社会−生産システムの内部の働きの入れ子場になった階層構造とメカニズム、そしてそれらが乱されたり搾取されたときに生じる非線形的な反応を理解することで、システムの働きを理解し、予測することが出来る。生態学者の社会への関わりが今後に重要だ。今度の新型コロナ事件で、専門に鈍い政治の後手後手が非難されたとき、私は専門家の政治直接参加論だった。SDGs(持続可能な開発目標)が市民権を得ている今日、生態学者の積極協力システムを政治側から構成すべきだ。
- 第6章は「驕りから謙遜へ」。
- バイオスフィア2という壮大な実験があったことはかすかに覚えている。バイオスフィア1が地球で、それよりは規模がずっと小さいが、それでもアメフト競技場2面半ほどのガラス密閉施設を実験地球と考えて、研究者が、施設内生態環境とともに環境的には周囲とは完全隔離の生活をする。人類の宇宙空間移住を想定していたようだ。2億ドル以上をかけたが、8名2年の生活で打ち切られた。生命体の環境依存は想像を超えるもので、Wikipediaに少々紹介されているが、O2、CO2濃度ですら人に安全な環境でなくなっていった。
- 欧米社会の人間中心的な倫理観は、キリスト教から出ている。自然はおろか人間でさえ異教徒や裸で生活する人間は人にあらずの収奪対象だった(「フィリピンの歴史」('18))。収穫祭はどこでもあるだろうが、イネの生霊、農業の神に祈る我らとキリストに感謝するのとだいぶ内容が違う。捕鯨の村にはクジラの慰霊社があり、マタギが命をくれた野獣の魂に祈りを捧げる姿は、新日本紀行とかの報道番組で見た覚えがある。殺生をしない仏教の伝統は精進料理の献立にもよく現れている。
- 自然との関わりにおいて、より謙虚な姿勢が共生に求められる。人間中心でない環境倫理学と書かれている。まずは動物愛護から。その感覚は動物にも人と同じ感覚があるという主張から生じた。本HPの「動物意識の誕生(その一)」('22)には、現在の動物学者の推論として出ている。「脳内麻薬」('15)には、動物感覚の神経生理学的な当時の先端情報を纏めてある。
- だが感覚から説き起こされる倫理論は、動物種の中の1/100ほどにしか当てはまらない。大半の下等動物は痛みとか恐怖に対応する感覚があるのか判らない。ましてや植物相手となると、この倫理論は延長不可能だ。生物中心倫理学は、生きているが故に尊いという思想だ。さらに進めて非生物の物理的環境まで倫理的立場を拡張したのが生態中心的倫理観である。自然の利用は許されよう、しかし持続可能な動態を維持せねばならない。これを環境スチュワードシップ倫理と言っている。「グローバルに考え、ローカルに行動しよう」に納得できるかが勝負だ。テレカップリングといって、意外な遠隔地に環境変動が影響を及ぼす例を示している。「風が吹けば桶屋が儲かる」を笑ってはいけない。
- 第7章は「人間による人間のための生態学」。
- リヤカーを牽いた屑屋が「エーくずやおはらい」と回ってきたのは、私がまだ少年の時代だった。江戸期以来続く日本のリサイクル業である。さすがに屑籠を背負った屑屋の記憶はない。我が国の古紙の回収率は世界トップと聞いたことがある。我が国は江戸時代に、鎖国のために、常に有限を意識せざるを得ず、その中で自然との調和を図ってきた。下肥(しもごえ)と称して糞尿の窒素燐カリすらリサイクルしてきた。「文明開化」がばらまかれる以前は、世界は、我が国を雛形とするような、地域ブロックがモザイク状に繋がっていた。
- 本書は難しい論理構成で、現在の世界は、有限を意識せねばならぬという。それが著者の生態学の新展開のように書いてある。でも上記の通りで、日本人は何をすべきかはとっくの昔から身についていることだ。「もったいない」を捨てて「使い捨て」をもてはやす近代思想は、半世紀前までの資本主義の主流だった。
- さすがに糞尿再利用の話はない。プラ容器の回収はスーパーでは当然のようになっている。これもハイブリッドエンジン自動車、EV自動車などの燃料効率を上げる方向もエネルギー資源の持続可能性の追求の1方向である。鉱物資源に対する枯渇危惧感は高い。電子産業の必需品レアアースはその最たるもの。産地が偏在するため、政治緊張からの圧力が産業生態学に影を落とす。
- 人口の都市部への集中と対策が都市生態学として纏めてある。江戸時代からすでに世界有数の大都会であった東京の自然との調和の紹介は、TVでよく取り上げられる。多摩川域の草原とか、川を遡上する鮎とか、それを狙う水鳥とか、ビル屋上稲田での小学生の模擬田植えとか、市電荒川線線路脇で子育てする狸の生態とか、人工自然であっても人類発生地を思い起こさせる環境の保全に、向かわざるを得ない雰囲気が世間に醸し出されている。
- 日本語版への序文、まえがき〜人新世の科学〜と第8章:「生態学者とニュー・エコロジー」。
- 人間による地球支配がますます強化され、人新世と呼ばれる新しい時代に入った。社会−生態学的な持続可能性を実現するには、生態系の資産管理(スチュワードシップ)という新たな倫理観が必要になる。ニュー・エコロジーとは、人間と自然の分裂を克服し、生態系の機能を維持する問題に取り組むことを目的とする。この本は「持続可能な世界の実現を促進するために、人間が自然を尊重しながら関わるための新しい考え方や方法を研究している科学分野の姿を示」そうとしている、総合科学的取り組みについて述べている。
('22/5/15)