春爛漫 黒潮海道クルーズ
- 私の米寿記念にと、「春爛漫 黒潮海道クルーズ」(ぱしふぃっく びいなす)に乗船した。3/28我が家を正午に出発し、4/1午後8時半頃に戻った。寄港地は新宮、高知に日高で各半日停船。
- 乗船前、乗船中、埠頭への出入り、オプショナルツアー中などにおける船会社のコロナ対策は、すでに「新春 伊勢 四日市・南紀 新宮クルーズ」('21)[コロナ第3波のころで、全国1日感染者数が6~7千だった。]や「Xmas四日市クルーズ」('21)に紹介しているが、よりスマートに徹底実施[今は第6波がピークを超したものの高止まり状態で日に5万前後だ。]されるようになっていた。反面、船内の行事も寄港地での行動も大幅に制限されるようになった負の面もあるが、今では不特定多数が集まるコミュニティの中では、クルーズ船はもっとも安全な場所になっているのではないか。
- いつになく多くのレピーターと顔を合わせた。だいたいはダンス会場で知己となった方々だった。クルーズ予定はコロナの波が来るたびに中止され、ロングクルーズはもう計画にすら出なくなりで、皆いらつき始めていたのだろう。彼らは不思議に一致して、次の計画として日本一周クルーズをあげた。船を去るときのアンケートに、来る日本一周クルーズぐらいは横浜、神戸両港寄港にしてほしい、神戸下船組の知り合いと疎遠にならないように、と書いた。
- 3/29、新宮港入港のときは、平安時代熊野詣で衣装姿の3人の女性が歓迎してくれた。衣装にあったマスクをしていたのがご愛敬。我らも記念写真に収まった。岸壁の出店で「うつぼ揚げ煮」を見つけた。そもそもうつぼを食ったことがない。酒の肴にと買った。えらく濃い味付けだった。船のレストランの食事は、和食洋食とも関西風で味が出来るだけ薄味にしてある(のが気に入っている)。
- この日は、オプショナルツアー(OT):「熊野速玉大社 行 送迎バス半日プラン(午後発)」に参加した。新宮訪問は、吉野(今なら大和八木)から大台ヶ原を越えて新宮に降り、瀞峡をプロペラ船で観光した学生時代から数えて5回目。速玉大社訪問は、「熊野三山初詣」('03)以来3回目である。初回も船はこのびいなすだった。2回目は飛鳥Uだった(「春のクルーズY」('11))。これは私が喜寿記念に乗ったクルーズで、訪問の季節も今回と同じ頃だった。
- 参拝ののち、ご神木のナギ(梛:マキ科マキ属)の大木を含め大社の建物を撮りまくり、それから神倉神社に向かう。大鳥居の近くに小さいが八咫烏神社と読めるお社があった。宝物殿には今回も入れなかった。改修中だとか。バスガイドが、道中、丘の中腹に小さく見えるこのお社を紹介したが、それがきっかけで「新春 伊勢 四日市・南紀 新宮クルーズ」('21)のときに果たさなかった寺町観光を思い出していた。神倉神社はその延長にある。ただ50分ほどの余裕しかない。
- ガイドさんは信号のある大通りを勧めたが、時間短縮のため大鳥居前から2つ目ぐらいの方向案内板のある十字路から曲がった。数m幅の道路である。飲み屋とかカフェが並んでいた。昔から寺社と歓楽街はつきもので、参詣人は参拝にかこつけて、遊興も楽しみに旅したものであるから、かなり昔からこんな配置であったろうと思った。寺町通りと言ってもお寺はそこそこにばらばらで、歩いた道路に面したお寺もあった。本広寺には新宮藩侯(水野氏)の菩提寺という案内板が出ていた。比較的広い境内の日蓮宗寺院のようだった。
- 神倉小学校に沿って歩く。我らの都会から見ればうらやましいほどの広い校庭だった。ガイドさんが卒業した学校かどうかは知らないが、その説明では在学のころでは1200名いた生徒が、今は2校合併してからでも300名にしかならないという。これでは地域文化継承が不安だろう。校庭の1角に参詣者や観光客用の公衆便所が設けてあった。清潔にしてあった。
- はじめから諦めていたが、鳥居から社殿までの石段道は、急峻な上に段間隔が大きくしかも538段、目の届く距離には踊り場が見えないという、米寿の私にとっては恐ろしい参詣道、それにバス発車時間が迫るという悪条件だから写真撮影だけで引き返す。熊野三山協議会のHPには「熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にみえます。」とあった。何でもご神体は絶壁の巨岩だそうだ。
- 何とかバスに間に合った。港の近くの公園の満開の桜は、オオシマザクラとソメイヨシノが半々ぐらいだった。最近、急ぎ足が続いたために、足が思い通りに運べなくなり、路上で転倒し、見知らぬ人の介護を受けたことがあるので、いつも余裕のない歩行はせぬようにと心がけているのだが、このときばかりは仕方がなかった。出航のとき市長が見送ってくれた。太鼓演奏があった。船が汽笛を何度も鳴らして歓送に応えた。
- この日のエンターテイメントは上口龍生の「日本伝統奇術 和妻へのご招待」。口上で、船の舞台では水芸はやれないと言った。私は高校生のときだからもう70年は昔に、サーカスで和妻の水芸を見たことを思い出した。食事のときそう披瀝したら、昨今はサーカスでは和妻をやらないと上口氏は言った。前日のエンターテイメントはびいなすカルテット・セント・トロペスバンドの昭和歌謡を入れたジャズ演奏。ボーカルはよく唄った。全員フィリッピン出身。
- 3/30の高知では、OTに参加せず、運動は港を歩く程度にした。大きな文旦を岸壁の出店で買った。あとで宅配のボール箱が1箱増える原因になった。家内が図書室に杖を忘れたら、すぐインフォメーションに届けられていた。私はカメラを忘れたことがあるが、これも迅速に手元に戻った。船はそんな意味でも安全だ。
- エンターテイメントの宝井一凛の講談は、「紀伊国屋文左衛門 宝入船」で、豊作の紀州ミカンを、時化で大荒れの海を乗り切って江戸まで運び大もうけをした、お馴染みの紀伊国屋文左衛門の物語。はっきりした日本語で持ち時間ぴったりに終了した。森マネージャーの足つぼの話を聞いた。治療を受けたのはほとんどが女性だったが、痛さに悲鳴を上げてはいたが、そのあとの体調が良く高く評価されたようだった。出航のとき、岸壁では、歓送に、地元のプロ連の出演だろう、男女10名ほどのグループがよさこい踊りの新旧2通りの踊りを見せた。
- 似顔絵コーナーで、私の米寿記念の絵を描いてもらった。2000円。なんだか爺が笑っているゆるキャラのように見えた。
- 3/31は日高(御坊)。昼から小雨という天気予報で、その通りになった。岸壁ではゆるキャラ(みーやちゃん:最後は文武天皇のお后に選ばれた土地のシンデレラ「宮子姫」の伝説に因む)のお出迎えを受けた。折りたたみ傘をポケットに入れて出かけた。OT:「道成寺 行 送迎バス半日プラン(午前発)」に出かけた。日高川に沿って上流に向かい、紀勢本線の踏切を越すとすぐ安珍・清姫の道成寺で、港から20分ほど。
- 折良く新大阪発の特急くろしお1号(新宮行)が通過するのに出会った。道成寺駅は特急の停まらない無人駅だそうだ。なかなか瀟洒な外観の列車だった。仁王門(本堂とともに重文)までの石段は60段あまりで助かった。小高い独立丘上に建つ寺である。そう広くはない敷地で、回廊はなく(発掘調査によると、創建時は回廊付き東西2塔の堂々たる伽藍だったらしい)、建造物も大伽藍とは言えないが、きちんと補修されている。鐘楼跡の石碑もあった。ご丁寧にも創建時と再建時の2ヶ所が示されていた。物語では安珍が鐘に隠れて焼き殺されるのだから、鐘を見たがる人は多いのだろう。今はその鐘は京都に運ばれこの寺にはないそうだ。
- 600円を支払って宝物殿に入る。大宝殿と縁起堂に分かれている。和尚が縁起堂で絵とき説法を聞かす。道成寺縁起絵巻(重文)の複製を広げて見せながら、安珍清姫を材料に、仏の教えを判りやすく淀みなく話す。
- 私は「文楽クルーズ」('16)で、2代目吉田玉男の「日高川入相花王 渡し場の段」を見ている。安珍を追う清姫が、大蛇に変身して日高川を渡る見せ場だ。実際の日高川は渡し船を常設せねばならぬほどの大河ではなかったが。市川崑監督の映画「獄門島」で起こる殺人事件の1つは、安珍清姫の物語を土台になっていた。忠孝の話とは異なり、男女の憎愛問題が中心だから、いつまでも人口膾炙の説話として残りそうだ。縁起堂には、歌舞伎の小道具としての鐘や、演じた役者の写真が数多く展示されていた。
- 和尚の話で創建が701年だと知った。法相宗から真言宗を経て江戸時代には天台宗(紀州徳川家の宗旨)に移ったという。大宝殿内の仏像群は壮観だった。本尊の千手観音、脇侍の日光・月光菩薩が平安時代初期の国宝、ほかの仏像も重文や県重文がほとんどである。戦火(秀吉の紀州征伐)で諸堂が焼け落ちたときも、本堂(鎌倉時代)は奇跡的に残ったため、今日に仏を伝えてくれた。時代が下るにつれて、彫刻としての質が落ちて行くのがよく判る仏像配置だった。
- バスガイドは博識だった。午後のOT:「"日本のエーゲ海"白崎海洋公園と湯浅の町並み散策」も同じ人でよかった。どちらもバス1台。30名以上乗っていた。
- 湯浅町までは途中高速道を挟んで40分ほどだった。バス中で、金山味噌が中国から戻った留学生により伝えられ(鎌倉時代)、味噌の醸造が始まる。醸造のときに出てくる上澄み液は元来はカビの原因として捨てられていたが、「味」改良力があることが発見され、醤油となった。味噌の副産物としては量的にわずかなので、醤油目的に製造法が工夫され、今日の隆盛をもたらした。湯浅が醤油発祥の地であるという。小泉八雲が「稻むらの火」で世界に紹介した津波被害を防いだ逸話の濱口梧陵は、隣町・広川町のヤマサ醤油事業主だった。ヤマサはその頃すでに千葉・銚子に醸造所を設けていたと聞いた。あそこへは見学に出かけたことがある(「醤油屋の煙突」('95))。
- 小雨がだんだん本降りになりだした。湯浅町ではボランティア・ガイドが4人付いてくれた。伝統的建物群保存地区を歩く。関宿に似た雰囲気だが醸造関係の家屋があるのが特徴。見学したのが角長で、古い醸造用具を見た。小麦割砕機は大きな木製歯車の足踏み機械で、酒の醸造所では見ない道具だ。生産をあげるために江戸時代から明治時代中頃まで使われたとあった。
- 大きな梃子原理利用の絞り器が、もろみ(寒仕込みして発酵に1年3ヶ月)の入った袋を圧縮して醤油を絞り出す。10mほどの梃子棒の先に重しを吊して何日もかけるという。梃子棒を受ける支点を男柱という。実感のこもった命名だと感心した。時間をかける手作り製品には、3年熟成という品があった。保存地区見学のあと、この地区からは少し離れた位置にある湯浅醤油(有)蔵を見学したが、さすがに絞り器は油圧式に代わっていた。角長も現在の製造現場ではそうなっているのだろう。和歌山では量産しないから高級品を目指す。この会社のは魯山人醤油という商標の1槽限定の製品がそれだ。旨味濃縮品というので、アミノ酸含有量を聞いたら、確かに量販醤油より3割は多かった。
- 保存地区の話に戻るが、今も金山寺味噌製造販売の太田久助吟醸を覗いた、麹の製造販売をやっていた津浦屋が注意を牽いた。文化年間には92軒もの醤油醸造屋があったと言うから、麹屋も成り立っていたのだろう。マニュファクチュア体制になっていたと言うこと。甚風呂は昔の小さく質素な銭湯で、番台、脱衣室、風呂、裏手のバーナー室まで見せてくれた。
- 白崎海洋公園に来たころは、もう雨が本降りでかつ風も強まっていたので、我らは展望台までは上らなかった。周囲は恐竜時代の石灰岩が作る、日本ではあまり見ない風景であった。戻り道は、高速道を通らず、曲がりくねった狭い道ながら、目には楽しい峠道やトンネルをくぐるコースにしてくれていた。御坊市に入ると、ガイドが紀州鉄道の話をした。路線は3kmない短い私鉄だそうだ。鉄道ファンには人気があるという。私もフリーの時間が取れるなら、1時間に1本のこのジーゼル車に乗ってみたいと思っていた。その終点にある本願寺日高別院(御坊)にも参詣したい。昔は日高川近くまで路線が延びていた。紡績工場があって工場勤務に使われていたという。びいなすが停泊している近くにハマボウの自生地があった。
- ゆるキャラのお見送りを受ける。最後のエンターテイメントはソプラノ秋津緑&バリトン堺祐馬〜うららかな春の光の中で〜。翌日の、びいなすビンゴ大会ではまたまたゲットなし。曇り空で富士山は見えなかった。大島の山の頂あたりが冠雪していた。予定通り横浜に入港。
('22/4/5)