ウクライナの歴史(その2)
- 第4章は「コサックの栄光と挫折」。一般に知られている日本とウクライナとの最初の出会いは、日露戦争でのコサック騎兵との対戦だったと思う。
- ロシア帝国時代に「タタールのくびき」という言葉が、ロシアの西欧文明化への遅れに対する言い訳に使われたことは有名だ。タタールとは、広義にはツングースからトルコまでのトランスユーラシア語族で、狭義(ウクライナ関連)にはトルコ語(チュルク語)族にモンゴル語族が混じっているといったところだろう。宗教はイスラム教で、西洋化を急ぐ帝王にとってはタタールはガンだったろう。
- 15/中~16世紀ごろのロシア南~ウクライナの大草原は、タタールが跳梁する、治安の行き届かない人口希薄地になっていた。ウクライナはしかし豊穣を期待できる辺境地で、ポーランド・リトアニア領から南下する冒険者が相次いだ。タタールに対抗する自衛組織が、逆に彼らの集落を襲撃するまでに軍事力を伸ばす。その襲撃はクリミア汗国やオスマントルコ帝国の町村にまで及ぶようになる。彼らがコサックの核である。コサックは周辺国のはみ出しものや冒険者、非スラブ系まで雑多な人々を吸収して大きな集団になる。やがてポーランドの傭兵団にもなり、コサック町をドニエプル川畔に作り、独自の要塞で独立的立場が取れるようになる。
- ポーランドは1795年の第3次の分割で消滅してしまう。ロシア、プロイセン、オーストリアに3分割された。これらの国が中央集権的となり、君主が強大な権限を持つ強国に成長したのに対し、ポーランドでは最後まで封建貴族の権限が強く、国王が思い通りの采配を振れない形態のままであったのが最大の理由とされている。その国王がタタール、クリミア汗国、オスマン帝国などに対する楯としたかったのがコサックで、軍事組織と自治体制の承認をその見返りとした。1572年にはコサック登録制が公布された。王の軍人としての地位と給付が認められた。ゴーゴリの「隊長ブーリバ」は、対オスマン・トルコ戦大捷後の不満から、コサックが反乱を起こしたころを舞台にしている。
- ヘトマンとはコサックの頭目を意味する。ヘトマン国家樹立を目指す戦いつまり独立戦争は何度も起こっている。フメルニツキーはポーランドを破って(1648年)ヘトマン国家を樹立した。コサックだけでは1人前と認められる国家にならないため、周辺の大国の助っ人となって有利に事を運ぼうとする。周辺はコサックの勇名を知っているから味方に引き込みたいが、情勢次第で真っ先に切り捨てる。最終的に頼ったのはモスクワだった。1654年協定はしかしコサックを従属的な立場に追い込むものだった。
- 新たにスエーデン軍の侵攻という因子が加わる。本格的戦闘は「大北方戦争」(1700~21年)である。初期のスエーデン軍の勝勢を見てコサックは分裂し、半分はスエーデンに寝返った。しかし1709年の合戦でスエーデン軍は完敗し、国王はトルコへ逃亡、コサックはロシアのツァーリに服従、やがて自治権を失いロシアへ併合される。エカテリーナ二世は1774年コサックの中心・ザポロージェ・コサックを廃止した。以来200年あまりウクライナ人国家は現れない。1775年に露土戦争(トルコ側の情勢は「オスマン・トルコ史V」('19))で得た広大な土地を新ロシア県とした。クリミナ汗国は1783年に滅んだ。ロシア治世のもと、良港を黒海に得てウクライナは「ヨーロッパのパン籠」になって行く。
- 第5章は「ロシア・オーストリア両帝国の支配」、第6章は「中央ラーダ〜つかの間の独立」、第7章は「ソ連の時代」、第8章は「350年待った独立」。現在のウクライナは1991年で、ゴルバチョフ大統領を保守派が拘束したクーデター事件のときの独立宣言に基づく。350年とはヘトマン国家樹立以来の年月である。ウクライナの独立宣言は、20世紀に入ってからすでに6回もあったが、いずれも周辺諸国特にソ連のご都合で短期に潰されている。
- 肥沃で広大な大平原の農業生産力はヨーロッパ随一だし、鉄鉱石、石炭の産出量も群を抜いている。近年では大工業地帯になった。地図を見るとドニエプル川は大きな湖が繋がった形になっているが、川が余すところなく水力発電に利用されていることを示す。ソ連にとって米櫃であり財布であるこの地域を、共産党政府はあらゆる手段を用いて確保しようとした。1次世界大戦とロシア革命によって、旧ロシア帝国領のバルト・北欧諸国も、旧オーストリア・ハンガリー帝国領のポーランド、チェコ・スロバキア、ハンガリーも完全独立を果たした。しかし最大の犠牲を払ったウクライナには、本当の春は来なかった。
- スターリン時代となってから、独立運動阻止への締めつけは峻烈を極めた。ウクライナ人の民族主義は農民から来ると読んで、農業集団化が強行され、反抗する農民を強制移住、処刑、収容所送りなどで弾圧した。かってTVでカザフスタンに朝鮮民族がいることを紹介され驚いたことがある。スターリンによって沿海州に居住していた約17万人が、「日本スパイ容疑」で中央アジアに強制移住させられた。ソ連に大飢饉(1931~33年)が発生したとき、干ばつと関係なく穀物を例年通り徴発し、飢饉情報隠蔽のためか輸出さえ行った。ソ連内部は飢えなかったが、穀倉地帯のウクライナに餓死者が300~600万人も発生し、出生率の低下もあって人口減少は500万人に及んだとある。
- 今回のロシア軍侵攻で3/20時点でウクライナからの難民数は330万を超した。半数はポーランドを目指している。しかしウクライナからの脱出は、今回までにも何度も大量に起こっている。Wikipediaから世界のウクライナ人分布(2001年頃)を拾うと、合計4400~4500万人/全世界で、ウクライナ: 37,541,700人/全国民4130万人、ロシア:2,942,961人、カナダ:1,209,805人、アメリカ:890,000人:カザフスタン:550,000人:ブラジル:400,000人、モルドバ:375,000人、アルゼンチン:305,000人、ベラルーシ:248,000人・・となっている。
- ロシア内のウクライナ人で目立つのは極東地方居住者で、1914年にはロシア人の2倍の200万人が定住している。133pの19世紀、ロシア帝国下のウクライナの地図に、ドン・コサック居住市域とクバン・コサック居住地域がある。以下はWikipediaの記事の抄録である。
- ドン・コサック居住区は、15世紀以降,中央ロシアの封建的搾取を嫌ってドン川下流域に逃れてきた人々の間にできた。ドン・コサック軍は、20世紀初頭には約 150万人を数え,当時最大のコサックであった。ロシア帝国は、自治権と引き替えに、傭兵的にオスマン帝国やクリミア汗国との戦闘に利用した。ロシア革命では帝政側につき、敗北で国外に亡命した人が多い。
- クバン・コサック居住区は、ピョートル大帝に破れたときドン・コサックの一部が、よりオスマン・トルコ帝国に近い位置に逃れて作ったものである。1778年にオスマン帝国の保護を受けてドナウ・コサック軍を創立した。1787年に露土戦争が勃発すると、ロシア側に寝返った。コサック軍は常にウクライナからの移民によって強化されており、1860年にクバンにおけるウクライナ系コサックの人口は20万人まで達した。
- ロシア民族の周辺の弱小民族に対する属国化の意志は、指導者により表現に強弱はあるが、本質的にはいつまでも変わらないように思える。ウクライナは周辺国ではかなりな強国で政治システムも民主主義であるため、衛星国化不能と判断され、行動を起こさせる結果になった。武器援助以外の軍事援助が期待されない中で、ウクライナの軍民は劣勢の中をもう1ヶ月近く持ちこたえている。我が国もロシア周辺の1国。米軍基地が日本国内に存在することは、侵略側にとっては目障りこの上ない存在だろう。しかし、ウクライナで見たとおり、本当の抑止力は日本軍であり、日本国民である。必要悪とは思うが、今のロシアを見れば、軍備倍増はぐらいは、この際目指さねばならないのではないか。
('22/3/21)