日本史サイエンス

播田 安弘:「日本史サイエンス〜蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る〜」、BLUE BACKS(2020)を読む。副題の3つには確かに謎めいた部分がある。ことに蒙古襲来は、太平洋戦争末期の悲報続きの戦況に対し、神国日本を声高に唱えた連中の拠になっていたから、関心は小学生(国民学校生)の時から深かった。関連のキーワードで本HPを検索するといくつも出てくる。著者は造船技術者である。
その中に「北条時宗と蒙古襲来」('20)があり、文永の役、弘安の役の2度にわたる元寇を、戦争経過を中心とする両国の国内事情を含めた幅広い解説になっている。蒙古襲来絵詞の主人公・竹崎季長と幕府のやりとりの経過など、地方御家人クラスの個人がビビットに描かれている。日本史には珍しいことだ。本書が取り上げるのは、文永の役の戦争経過で、史家の解説に多い曖昧さを是正しようとする。
フビライは高麗に1274年半年内に大型軍船300隻、小型上陸艇300隻、水くみ艇300隻の建造を命じた。大型軍船は詳細は違うが大雑把には江戸時代の千石船程度の大きさ。建造に要する森林資源からその運搬製材、造船技術者や労働者の数などを推測してある。150隻が精一杯だという。工期は高麗国王他界と葬儀で3ヶ月遅れる。この3ヶ月は勝敗に決定的な要因になったという。
元軍の戦闘要員兵站補助員は指揮官以外はほとんどを高麗が負担する。ときに高麗の人口は250万〜500万、日本800万。中古の中型軍船をもかき集めて、何とか300隻にし、乗船可能数から艦隊は総勢4.2万、内戦闘要員2.6万と弾いた。馬匹は700〜1000頭。対する日本軍は、騎馬兵5千、歩兵郎党が5千、兵站郎党が5千。名高い蒙古騎馬軍団は来襲しなかった。
戦闘能力の比較は本章のハイライトである。数は元軍が上。防塁はまだ何もない。戦術は「やあやあ我こそは」の一騎打ちが通用しない相手に、日本軍劣勢で初日は押しまくられる。本書の立証するところでは、元軍の上陸地点は百道浜で、日本軍本陣は筥崎宮付近にあった。距離にして8kmほど。百道浜での緒戦では、少人数の御家人守備隊が包囲殲滅された。
元軍の上陸に要する時間の計算がある。月明かりが海を照らすようになる午前零時頃に櫓を使って浜への接近を開始。水深の関係で、そうそう海岸線にまでは近づけない。1〜1.5km沖。大艦隊の相互接触を避けるために、幅広く投錨。上陸開始が午前6時。まず橋頭堡確保のために上陸第1陣が行動したろう。兵士600名+兵站兵100名計700名だとする。あと続々上陸艇が運んでくるが、往復で1時間。部隊行動ではなく到着次第第1陣へ駆け込むような姿だろう。
元軍が筥崎へ1/3ほど進んだ位置の赤坂で日本軍本隊と遭遇、騎馬武者の多い日本軍に敗退。騎馬と歩兵では戦闘力として8−38倍の差があるという。本HPの「「馬」が動かした日本史」('20)、「騎馬民族国家」('20)は、戦場における馬の重要性を物語る。「企画展「天下統一と城」」('00)には、戦国期の軍馬遺骨から、当時の馬は小さくてポニーぐらいだったと書いている。本書の著者もそれが気掛かりらしく、わざわざ木曽馬は中型馬だと反論している。
Wikipediaによると、今は中型(牡136cmH、牝133cmH)だが、これは西洋種との交雑のためで、純粋の木曽馬は120−130cmHだった。ちなみにポニーの項には、木曽馬もモウコノウマ(蒙古馬)も含まれており、モウコノウマは軍馬に使われるとあった。小さめだったが、軍馬に使っていたというのが、本当のところだろう。
赤坂での遭遇戦をランチェスターの第一法則(一騎打ち型)で解析した。兵力は元軍が歩兵5千(馬の上陸遅れで騎兵が少ない)、集団突撃に移った日本軍が騎兵1千、郎党1千計2千。武器効率は1:2.5(弓矢、甲冑、刀剣、てっぽうの比較がある)。元軍半数喪失(追撃戦も入れると未上陸を入れた全軍の19%、総崩れの割合をとうに越している)、日本軍騎兵200郎党多数損失(地元ゆえ交替補給が効く)。元軍壱岐へ引く。計画より3ヶ月遅れの海上は厳しかった。15m/s以上の時化で130隻が遭難、溺死を入れるとこの遠征で元軍は1.4万人(ほぼ史書と同じ数)を喪失。
第2章は「秀吉の大返しはなぜ成功したのか」。
「新書太閤記 第七&第八分冊」('21)は、吉川英治の描いた本能寺の変の前から山崎合戦のあとまでの歴史物語である。秀吉は、高松で毛利と和睦してから7日目(信長の死(6/2)後10日)で、万を超す軍勢をつれて尼崎に到着している。小説にはその詳細を説明してはいるが、重装姿で、こんな長距離(本書では185km)をこんな短時間(本書では正味7日間)で大挙移動できるかは誰しもの疑問だ。ただ「流人道中記」('21)では、「日本橋から25宿目までの176kmを4泊で飛ばす。それで急ぎ旅ではないとしている。」と書いている。昔の人間は鍛えようが違う。
道中記と大返しの差は歩いた兵士の負担もあるが、行軍のサポートの大きさもある。道中記の流人は銭と大小と旅衣装を持っておればいい。だが大返しの兵員は大変だ。戦国時代だ。道中記のころのような宿屋などないし、篭や馬子が牽く馬などももちろんない。レストランも茶店もせいぜい少数の旅人か地元民相手の小規模なものだろう。だが秀吉と味方の宇喜多の領地だから、徴発の協力は得られやすい点が有利だ。
2万の秀吉軍は寺社や民宿が取れたらラッキーで、ほとんどが野宿、10日の内6日まで雨だったというから悲惨だ。新書太閤記では、尼崎に到着したのが1万となっていた。強行軍に落伍はつきもの。毛利の追撃に対するあと備えを考えたら、6割ほどしかついてこれなかったのだろう。
人馬の食い扶持と飲料水の計算がしてある。1日にヒトは3700kcal(おにぎり20個相当)、水2L。馬は大豆1.1升水70Lで2万の軍隊に1800頭。これらを支えるのに輜重用馬匹を使うから、馬は全部で7千頭(農耕馬をかき集めたにせよ大変な数だ)。排泄糞尿量は1日で120トン。水は清流の国日本だから困らないが、民の命の穀物は手に入るか。新書太閤記には、「ひとたらし」の秀吉が景気よく銭をばらまいて、民の食料をおにぎりに変える魔法が描かれていて面白いが、実際はどうか。
本書の主張は、秀吉は、光秀の予想をくつがえす早さで京都に攻め上るメリットを最重視したとする。秀吉軍以外は様子見、日和見が多いから、一気呵成の大返しは、本来は同格の彼らを傘下に納めるのに有効だった。光秀が細川にも筒井にも参陣を断られ、手勢だけで戦ったのと好対照である。山崎合戦では新規に幕下となった彼らが先頭に立って奮戦した。戦後の織田内部の勢力争いにも、秀吉にはこの勝利が絶対に必要であった。秀吉とごく一部は最大の難所・船坂峠だけは海路を取ったろうと推測している。本能寺の変を信じることさえ危険だった。情報が間違っていたら、そのあとの行動は切腹ものだ。大ばくちを果敢に決断し、神業の大返しを実行した秀吉は、やはり希代希な英雄なのであろう。
第3章は「戦艦大和は無用の長物だったのか」。
巨大戦艦・大和、武蔵があったと国民が知ったのは戦後のことである。世界最大の巨艦の建造には数々の技術開発が必要だった。戦後GDP世界第2位に駆け上る原動力の中枢を担った産業の技術背景には、大和開発で培った世界最先端の技術が重要な任務を果たした。造船王国日本、鉄鋼王国日本、カメラ王国日本。通信技術では後れを取った。アメリカのレーダー技術、電子信管砲弾技術には負けた。それでも素地はできていた。八木アンテナに今一歩の真空管技術。遅れはしたが電子立国日本の日もやがてやってきた。
海軍はアウトレンジ作戦に拘りすぎた。航続距離の長い航空機で敵艦隊を小刻みに叩き、敵より長い46cmの主砲の着弾距離を利用して艦隊決戦に勝つ戦法だ。ミッドウェー海戦では、大和は主戦場の500kmも後方の温存状態だった。なぜ東郷元帥を見習わなかったのか不可思議だ。真珠湾攻撃でも、私が司令官なら、軍港の徹底的破壊、陸戦隊上陸による占領を考慮して巨砲による艦砲射撃をするだろう。実際は空襲だけの「手ぬるい」攻撃だった。
ミッドウェー海戦での戦力は、艦船数、兵員練度ともに日本側有利だったが、日本側が敗れた。直接的主因は「索敵の不備」。だが機動部隊が捉えなかった通信を大和はキャッチしている。通信能力の違いだったという。大和に乗った長官が現場で機動部隊を直接指揮すべきだった。それに空母と同じ海上にあれば、来襲する敵水平雷撃機に強い三式弾や多数の対空砲が生きただろう。あそこまで徹底的に空母がやられなかったかもしれない。
世界が巨砲大艦主義の時代に大和が作られた。アメリカ海軍は真珠湾攻撃を受けるまで、航空機攻撃の価値に気付いていなかった。だから最後通告のハル書簡前に、大和の存在を公表していたら、アメリカは海軍サイドから慎重論が強硬に出て、少しは日本に有利な外交事情になったのではないか。これも「タラ話」の一つである。
この章は、日本の巡洋艦、駆逐艦の損害の大きさについても触れてある。雷撃され横転して沈没するケースが多い。これは、各艦に一級上の兵装をし、強度補強に縦隔壁を入れた欠点である。魚雷を一発食らっただけでも片側だけの浸水になるために、バランスを失う構造だ。欠点のもう一つは、横隔壁とボイラー、エンジンの配置が効率主眼に設計されたために、隔壁命中で片肺運転さえできなくなる構造だ。いずれも安全軽視で、勝ち戦を前提とする造艦の神様「平賀」中将の失敗だとしてある。
本HPに「船の科学館」('01)、「船の科学」('07)、「「船酔い」考」('18)などがある。戦艦大和が最大27ノットなのは造波抵抗がここらから急上昇するため、球状船首は造波抵抗を下げる日本の大発明で、大和もそうなっていただろう、第2章の元軍兵士は渡海で大船酔いの状態になっていた理由など、本書に参考になる話をいろいろ載せている。

('21/12/25)