タテ社会の人間関係

中根千枝さんの訃報が出た。その著書:「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論〜」、講談社現代新書('67)を読む。目を通すのは初めてであるが、本書はベストセラーになったことで有名な本である。この著作が世に出てからすでに半世紀以上経った。日本はもう単一社会とは言い切れないが、歴史的文化的にその雰囲気は今に伝わり、一つの大きな底流になっていると思っている。
西欧にないような社会現象を一括して、日本の後進性とか、封建遺制と説明する。西欧コンプレックスにあるインテリの面々が、西欧文化を先進化へのスタンダードとするご年配方の悪風が、比較社会学的弱点と指摘されている。逆に言えば、この標準化によるプライオリティの獲得は、現在の西欧諸国での常套手段なのだ。わかりやすく戦後の工業製品輸出問題だけを考えても、品質標準化で日本は再々苦汁をなめた。今脱炭酸ガス、電気自動車化で彼らは後発国と対峙している。
著者は社会人類学による「社会構造」の探求を発展させてきた。従来の社会学などが「西欧社会」から出てくる理論をつねに基準として、他の社会に適用していくのに対して、「西欧社会」というものを比較の基準にしない。「衣食住」など目に見える環境は驚くほど洋化した。でも心の基礎はどうだろう。近年急速に、個人の自由民主主義的傾向は、ことに外見上の上下関係に強く影響するようになった。それでもタテ関係を思わせるニュースに、変わらぬ要を見つけることができるのではないか。
本書が書かれた頃(以下当時)は、私の現役時代のもっとも脂がのった頃であった。終身雇用、年功序列で代表される社会構造の真っ只中にいた。本書第2章「「場」による集団の特性」には、かなり端的に当時の帰属意識問題に切り込んでいる。話は海外日本人社会の特異性にまで及ぶ。「場(家族、同族、村、企業、役所、病院など)」と対照的な「資格(大工、旋盤工、運転工、整備士、薬剤師、医師etc.」のネットワークが弱く、実質的な所属集団は「場」一つだ。「場」が生む排他性や非社交性にまで言及してある。記述は市川崑監督:「獄門島」('77)を思い出させた。
インド人社会が比較によく出てくる。私はインド人社会についてはヒンズー教信仰とかカースト制ぐらいしか知らないし、近年では性暴力頻発の痛ましい事件とその背景(極端な男尊女卑)ぐらいしか記憶にないから、新鮮だった。インドでは(家族のソトにいる)血縁という「資格」が生きていて、嫁は血縁の親兄弟とのネットワークを保持し、彼ら姻族は遠慮なく嫁ぎ先に嘴を入れるという。家単位ではなく個人単位の自由が確保されていて、「ウチ」と「ソト」を明確に分けて意識しないとある。開放的で閉鎖空間に閉じこもらない。
第3章「「タテ」組織による序列の発達」は、年功序列が能力主義の浸透を容易には許さなかった事情を解説している。私は、年功序列と能力主義のせめぎ合いの初期段階に、現役の後半期を過ごした。本書に典型的と紹介されている、歴史のある大企業、といっても世界的には中小企業規模であったが、の1社員であった。その会社は私の退職後も順調のようで、株価もまあまあの高値を維持している。半世紀以上経ってどう変わったのか、できるものならもう一度社員になって眺めてみたいと思う。中根先生の目には、近代産業の労働者階級にさえどっしり根を張っていたタテ意識が、ヨコ意識にどれほど席を譲っただろうか。
世界を見渡して、日本とタテ・ヨコ意識のバランスが似ている地域はチベットだそうだ。チベットの席順の重要性や敬語のデリケートな使用法に現れているという。だが討論(法論)の場においては、完全に序列意識が放擲されるという。敬語は消え、発言の仕方、応酬も全く同列だ。ダライ・ラマも例外でない。日本の学者の集まりと比較してある。先輩・後輩関係や師弟関係の序列が発言に影響している。教授、助教授、講師、助手、学生というタテの関係は、異なる教室の同僚間のヨコの関係よりは遙かに強固で、ヨコの連帯意識は希薄である。今はどうだろう。体育会系の事件ニュースなどでは時折その序列意識の継承が聞こえてくる。
第4章「「タテ」組織による全体像の構成」に、タテ・ヨコ関係の特異性から来る日本の組織の特徴が出ている。東大:水呑百姓の子でもどこかの御曹司でもその学閥の中では同列で、階層を登るモビリティのチャンスは前者にも与えられている。ここが大切。オックスフォード大:労働者階級の子には、その階級出身というレッテルが生涯ついて回る。日本では、企業労働組合には、将来は管理職の高級エンジニアから清掃作業人までが入っている。階級に合わせた(ここが大切)同一職種の組合は育たない。かっての財閥がそうであったように、品揃えがどこも同じという企業列が並び立ち、互いの過当競争に励む。このグループごとワンセット何でも屋主義(今は反省期にあると思うが)は、分業主義に比べれば国家の損失につながる。
士農工商のヨコ割りに、藩というタテ割りを備えた徳川体制は、ある意味ではまことに見事な政治システムであったと、著者は褒め称える。江戸初期が舞台の「カムイ伝」を読んだばかりだ。この漫画は、タテ・ヨコそれぞれの内でのあるいは外での闘争を描いて迫力があった。作者・白土三平は中根先生を意識していたのかな。徳川時代の(中央集権的と書いてある、同時代の他国との比較からだろう)官僚制度が、社会を動かす基調とともに近代に引き継がれ、今日の日本の政治体制の発達に資した。
第5章「集団の構造的特色」は、閉じた三角形と底辺が開いた三角形という単純モデルで、集団の構成と意志決定を説明する。前者はイギリスの紳士倶楽部によくある全員参加型で、ルールという基準で動くが、得てして排他的で決定が遅れる。後者はトップリーダーにタテにつながる個人関係の強い集団になる。ヨコの小集団の相互関係は薄く、冷静な戦略思想よりも集団の利害が優先し、決定が集団の力関係で決まりやすい。
官僚組織とか暴力団組織とか、一見理知的な判断が支配するはずの学術的集団においても、我が国では親分子分的裏話が絶えない。この構造の特徴は決定の早さで、リーダーにヒトを得たときは理想的だ。日本の近代化、戦後の復興などではその長所を発揮できた。でもリーダーが失脚死亡で失われたあとの混乱は無残である。
第6章「リーダーと集団の関係」はリーダー(親分)の解析だ。東条英機はヒットラーやムッソリーニと質的に異なるリーダーであった。日本人のリーダーの像は、ナポレオン的なものではなく、あくまで大石内蔵助的なものであるという。「企業は人なり」を引用したあとに、ナポレオンが部下のことを、アメリカの経営者が従業員のことを、これほど深刻に考えたことがあったろうか、また、考える必要があったであろうかと結んでいる。
日本ではリーダーシップに強い制限がある。リーダーの方向は有力幹部の突き上げによる場合が多い。しかしその幹部とて動かしうる部下はその直属だけで、いかに有能であっても、実行には組織の頂点であるリーダーをたてなければ何もできない。リーダーと部下の関係は融通無碍にできている。仕事の達成力はリーダーが配下の能力を引き出し働かせる能力にかかっており、そのタテの人間関係維持には、エモーショナルな要素も大切になる。
他の社会に比べて、日本のリーダーには年長者が異常に多い。タテの人間関係では、その集団の現存成員のうちで、その集団への参加が最も早かったというのが重要な因子になるからだ。私は会社生活で、学校では後輩でも先に入社したヒトを、先輩と意識的に呼んでいた記憶がある。今はそんな気遣いは無用だろうが、半世紀昔の日本では、たったの1−2年の差にもそんな雰囲気を持っていた。
第7章「人と人との関係」は、我々の契約精神の欠如から説き起こす。学術調査団の団長と団員の関係が例示してある。西欧のリーダーは目的には絶対だ。契約したら団長命令は仕事に関する限り団員に絶対服従を要求する。仕事以外では全く自由だ。日本のリーダーの主要任務は和の維持だ。寄り合い所帯での困難さと、親分子分の人間関係の延長に組織した調査団の献身的な仕事ぶりを、おもしろおかしく比較してある。
私は進学先と就職先は自分で選んだが、あとはすべてトコロテン路線に乗って今日まで来た。本書に「二君にまみえた西欧とまみえずの日本」という節がある。西欧の主従関係が中世の頃からすでにコントラクト的だったのに対し、日本のそれは単一のタテ精神による恒久的社会関係だ。エモーショナルなタテの繋がりが、近代企業にも創価学会にも立正俊成会にも真宗門徒にもヤクザにも見られる。論理的、宗教的でない道徳的社会というか「論理よりも感情が優先」する社会というか。
「おわりに」に、目に見える制度〜フォーマル・ストラクチャー〜の裏に、目に見えない組織〜インフォーマル・ストラクチャー〜があって、社会の機能の原動力になり、その社会の特色になるとまず述べて、日本人の社会生活における非論理性(相対的関係)を位置づけ、文明発達の長い歴史の結果であるから、民族の特殊性などと位置づけるのは愚かなことだと言っている。そしてこの社会を支える重要因子が、日本社会の「単一性」にある。本書の副題が「単一社会の理論」となった理由である。
出版後半世紀以上というハンディは感じるが、本書は、今も色あせない明快な論理で、読者を引きつける。評判通りの名著である。ただし、社会人類学的解析に終始し、著者の未来への提言はなにも載っていない。別途の論文があるのだろう。

('21/11/27)