精神科医から
- この8月に京大名誉教授・木村敏氏の訃報が出た。精神病理学の権威だったと出ていた。千葉市図書館から氏単独の著書:「形なきものの形~音楽・言葉・精神医学~」、弘文堂、'91と、岡田節人ほか編:「岩波講座:科学/技術と人間 第1巻 問われる科学/技術」、岩波書店、'99を借り出した。後者の第8章「精神の科学は可能か」の著者は木村敏氏である。題名の「精神科医」は前者での氏の自称である。
- 私の研究相手は終始「形あるもの」であった。「形なきもの」は苦手である。音楽や芸術、言葉や文芸は、自然科学的解釈を交えることが可能でまだいいが、心や精神の高尚な働きには、抽象表現につぐ抽象表現で議論してゆくから、独学ではたいてい用語で胡麻化されて降参してしまう。宗教や哲学の世界は、本当に「精神の科学は可能か」の対象だ。「形なきものの形」は精神科医としての経験に基づくエッセイ集で、新聞などに時には連載したという読み切り型の文章だから、とりつきやすい。こちらを重点的に読むことにした。第1部は音楽関連の話で、その方面の素養はさっぱりの私には無理。で、第2部から読み出した。
- 「形なきものの形」とは哲学者・西田幾多郎の言葉で、東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいるという提言に含まれている。精神病理学は哲学と重複する。筆者がもっとも丹念に読んだ本はハイデッガーの"存在と時間"だったとある。精神科医になりたての頃の「共感覚」の文献は、文学部の図書室にあったという話からも、精神病理学の生い立ちが従来医学ではなく、心を相手とする哲学だったことを示す。
- 「共感覚」とは、感覚刺激による感覚以外に、直接は刺激されていない多の領域の感覚も同時に発生する現象だ。普通は大人になると消えてしまうが、LSDなどの幻覚発生剤の作用で、復活されることがあるという。「愛犬のうつ病」という項がある。鶏と同居していた飼い犬が、猫に鶏をやられて以後しばらくうつ病になった。私には犬の共感覚がなせるわざと思える。人間では幼児期だけだが、動物では一生その感覚を残しているだろうから。犬が「ニワトリ連中の保護者を自認していた」からという推測は、きっと著者の冗談だろう。でも象が死場所で家族を「悼む」ような行動はTVでお目にかかっている。目に映る映像から消えた姿を忍ぶ心は「共感覚」に入るのだろう。
- 「自己−精神医学と哲学の観点から」というシンポジウムの招待講演者の精神分析はおもしろい。精神科医の研究主題はしばしば彼自身の性格と密接に関係している。私は、これは精神科だけでなく、その他の専門にも当てはまると感じる。理論派は鬱病指向型で、実験派、フィールドワーク派は分裂病指向型が多いように思う。鬱病指向型は、この上なく律儀で責任感の強いスタイルだ。約束を違えるなどほとんどない。それに反して、分裂病指向型は、話題は原稿などに一切関わりなくあっちに飛びこっちに飛び、その上聴者の存在を忘れて話す。外面的な制約に拘泥しない。
- 「個人と集団」は没個性を平等院の阿弥陀如来から考察している。ヨーロッパの芸術作品に作者の名が出るのはルネッサンス以降だが、この阿弥陀さんには定朝という作者が知られている。奈良時代の仏像にも作者がわかっているものがある。宗教は元来は個人が集団の中に埋没することを求めるものだ。宗教を離れた政治、軍事、産業、教育その他諸々の組織は、強さの差はあれ、時には忠誠心という形で埋没を求めている。個人的には和気あいあいで付き合える隣人でも、集団になれば全くの正反対になる場合があることは、頑なな反日嫌日行動の民族がいることからも明らかだ。仏教のおおらかさを証明している話である。
- 「愛国心」が育っていないという認識があるのではないか。最近はあまり見かけないが、国家民族に関連する同じアンケートの、諸国間比較を見ると育ってないという危機感は私も持っている。筆者は「家族否認症候群」という名で、来歴否認妄想をとらえている。
- 「こころと時間」の項に「離人症」という精神病が出てくる。「形のある時間」と「形のない時間」が出てくる。前者は物体位置の空間移動で考える物理学の時間概念で、後者は、実感としての、あるいは自分自身の存在と密着した生命的感覚としての時間感覚だとしている。後者の説明に、ケニアの時間様態の、死者と肉親や友達の中にある記憶での時間を述べている。私は恐山のイタコを連想した。
- 離人症患者では、今の自分とさっきの自分とがこころの中でつながらないという。私の悩みの一つに、顔の覚えが悪いということがある。ことに女は化粧とか着物が変わるだけでもうidentificationに自信がない。そもそも形状認識とかパターン認識とか画像認識の脳内機構の劣化とか個人差は、著者の言う離人症の一つの現れ方なのかな。なんだかさっぱり判らなかった。
- ついでにもう一つ。映画「たそがれ清兵衛」の老婆(清兵衛の母)のボケぶり。若い時代の息子の遊び友達は覚えているのに、息子を忘れる。このまだらな健忘症は、離人症に入るのだろうか。
- パラノイアの現れ方(恋愛妄想や嫉妬妄想など)、対人恐怖症の文化的背景、精神科医の診断法(顔は持ち主の内面を映す鏡)、うつ病からみた西洋人の主体意識と日本人の間柄意識など精神病の興味ある話題が豊富である。
- ここまで読んで、「AイコールA」の項に立ち返った。15pに及ぶ長い随筆である。Aは物理的なものではなく、意識を指す。時間的に前後して別々に考えられた同一人の2つの意識が、同じ一つの意識の連続であるということは、いかに保証されるのであろうか。私が時間の経過の後も同じ意識の、「私はつねに私である」という主観的な確信に過ぎない。こんな問いかけを聞いたら、それは禅問答だ、哲学の問題だと思うのが普通だ。著者の精神病理学は哲学である部分が多い。
- この項は、「私が私であるということは、・・・、この世の中には私たちに知覚され意識されるものの世界とは別に、それらのものをものたらしめている純粋なことの世界があることを知らねばならぬ。・・・、科学それ自身が科学として成立しうるのは、科学がそのもっとも基本的な出発点をこのことの世界から借りているからなのである。」というお話で終わる。ものとことの分離を終始一貫して主張してある。
- 第3部から読み出した方がよかった。著者の今日までの来歴を平易に述べてある。私と著者はあまり年齢が離れていない。戦中戦後の混乱と自己形成のステップは理解できる。医学部は著者が出る頃まではドイツ語が幅をきかしていた。
- 私には年上の従兄弟に医者がいるが、彼の書くカルテはドイツ語で、私が現役の頃の母の入院先の女医が英語で、最近ではかかりつけ医が日本語になっていることは知っている。著者はドイツ語がかなり自在に操れる。第1外国語をドイツ語にした理由の1つが、田舎出身の学生(自身)は、都会出身よりも、英語ではハンデがあったからと言うからふるっている。今では英語圏医学が幅をきかすようになった。幾分悔しい思いがあるように書いている。
- 「深層心理」にアメリカ人の反日感情が出ている。日本が日の出の勢いであった頃の話だ。本書が出て30年後に、また反アジア人感情の輪の中に入れられてしまった。敗戦後はGHQの好き勝手に従順に従い、一貫して親米路線をたどってきた日本に対する姿勢としては、はなはだ理不尽である。よほど忌み嫌う感情を脳の中に持っているらしい。韓国人と似ているのがどうにも理解できない。
- 深層で連想する言葉が「深層学習」。AIソフトがチェス、囲碁、将棋などの名人を次々に打ち破ったのはもう過去の歴史的事実になった。奇想天外の非常識な奥の手がたまに出てくるという。在日米軍も不利と見れば、「深層心理」で、アフガンでやった手をきっと使う。国家100年の計には、「深層心理」を最優先とする方針を立てておいた方がいい。
- さて、第8章「精神の科学は可能か」は専門家としての論文である。門外漢の私では抄録はもちろん紹介も憚られる内容だ。でもエッセイ集を先に読んだので気分としては本の方向が見える。章の構成は、1.精神ないし内面性の私的性格 2. 私的内面の拡大 3. 境界としての内面あるいは「こころ」 4.「コウモリであるとはどのようなことか」 5. 潜在的な複合一人称の視点 6. 精神の科学は可能か となっている。
- 6.の終わりで著者は、[精神についても「科学」が可能であるためには、その科学は、アクチュアルな「このわたし」という生命的・歴史的現実から目をそらすことなく、それを正面から理論的に「説明」できるものでなければならないだろう。しかしそのためには、科学はそれ自身の中へ「主観/主体」あるいは「内面性」という厄介な重荷を持ち込まなくてはならないことになる。]としている。精神病理学は文系と理系をまたぐコウモリなのである。
('21/8/31)