伊豆の旅

島崎藤村:「伊豆の旅」、青空文庫、'05を読む。藤村がこんな旅日記を発表していたとは知らなかった。短い随筆である。冒頭は「汽車は大仁へ着いた。修善寺通ひの馬車は・・・」となっている。伊豆箱根鉄道駿豆線は、彼が旅したころ(1909年、明治42年)は、修善寺駅まで通っていなかったらしい。地図で見ると、ここらあたりから修善寺へは山地である。だから路線に入らなかったのだろう。調べてみると、確かに、大仁 - 修善寺間開業は1924年(大正13年)だった。
川端康成の「伊豆の踊子」は1918年(大正7年)の旅行経験に基づいた小説である。何回も映画化された。私は田中絹代、美空ひばり、吉永小百合、山口百恵各主演の「伊豆の踊子」を見た。これら4作の中で、白黒で映像が荒れたフィルムしか残っていなかったためか、制作時の雰囲気は完全には伝わらないが、小説の時代を最もよく伝えている作品は、野村芳太郎監督美空ひばり主演作であろうと思う(「伊豆の踊子」('95)、「四人目の踊り子」('97))。
「伊豆の踊子」の原作には出ていないが、ひばりの映画には修善寺までのコースが推測できるように作られている。馬車で海岸沿いで走ってくる。はるかに富士山が見えるから、沼津あたりからの長い道のりであった。修善寺の宿での会話で丹那トンネルが工事中であることがうかがわれ、鄙びた温泉地がおいおい俗っぽくなると出てくる。丹那トンネルは難工事で、完成は昭和9年であった。
松本清張の「天城越え」は1926年(大正15年)に時代設定されている。天城隧道あたりでの土工殺しがテーマだ。雨でかき消されて証拠が残っていない現場だったが、隧道近くの氷室に足跡が発見され、女のサイズであった。そのため、事件のころ通過した、曖昧料理屋を足抜けした女が容疑者とされる。実際は同行していた家出少年の仕業だった。裁判では女は証拠不十分で無罪。小説ではここまで。田中裕子主演の映画:「天城越え」では女は病のために娑婆に出られず、拘置所で生涯を終える。映画のほかにTVドラマ化された2作(田中美佐子主演の「天城越え」('98)、大谷直子主演の「大谷直子の天城越え」('11))があり、それぞれ力作だが、女のその後については、自由に別の結末にしている。
さてその氷室。藤村の「伊豆の旅」に隧道の湯ヶ島側にある氷の製造所が載っていた。天然氷だ。「天城越え」は'59年(昭和34年)の出版。電動のアンモニア冷凍機でアイスキャンデーをあちこちで作っていた時代だ。だからもう天然氷を積極的に製造していたとは思えないが、まだ製造技法の記憶は現地に残っていただろう。「天城越え」DVDのおまけ「シネマ紀行」には、現地紹介者が祖父のころまで氷を作っていたといい、その遺構も残っていた。清張は現地調査をしっかりやる人だったから、製造に関するK/Hはしっかり取り込んだだろう。冷気保存のために、おが屑を氷の表面に敷くなどと、現場を知る人でないと書けない内容になっている。場所も「伊豆の旅」とほぼ同じ位置だ。
「伊豆の旅」は30才台の男子4名の旅行である。当時の行楽地や温泉場では「自由恋愛」が大っぴらな、娼婦楼とか女郎屋とか曖昧宿の類がひしめいているのは常識のようだった。「田舎教師」にも出ているし、川端康成の「温泉宿」にもしっかり描写してある。吉永小百合の「伊豆の踊子」には、労咳の女が客を取る場面が出ている。でも藤村一行は清遊で通す。どういう交友関係であるのかかえって興味を惹く。
私は30年ほど昔に下田街道を南へ旅行した。天城隧道を過ぎた河津川のほとりに小さな発電所の遺構を見た。記憶は曖昧なのだが、今調べてみると、旧「梨木」発電所のようだった。Webには1915年(大正4年)完工と書いてある。藤村が通った時はまだ電気はなかったが、康成は電気のある伊豆半島を旅した。「伊豆の踊子」では、「梨本」なぞの小さい村里を過ぎて湯ヶ野の温泉宿に一高生が泊まるが、そこでは隣室との間の襖を四角く切り抜いたところに鴨井から電灯が下がっていて、一つの明かりが二室兼用になっているとある。電気はまだ貴重。踊子一行は別の木賃宿だが、そこに電気が来ていたとは書いてない。
「伊豆の旅」に宿風景のスケッチがある。最初の修善寺の温泉宿。茶代はいつ払うかで意見が分かれる。個室に湯が曳かれるのはずっと後年の話だから皆大浴場に入る。男女混浴だ。夕食の献立は、吸物、刺身、ソボロ、玉子燒などに酒。そのあとでも献立の話が出るが、存外に簡単である。湯ヶ島では、「夕飯には所望の芋汁は出來なかつた。(宿では旬のものしか出せないようだった。)お菜は、鳥の肉の殘りと、あやしげな茶碗蒸と、野菜だつた。茶に臭氣のあるのは水の故せいだらうと言出したものがあつたが、左樣言はれると飯も同じやうに臭つた。」とある。
私は下田にも何度か行った。もう木賃宿は探しても見つからないが、ハリス遊歩道の遊廓建物あとは昔の雰囲気をわずかに伝えていた。ナマコ壁の下田開国博物館には、唐人お吉の本当の姿も展示してあった。「伊豆の旅」では、湯ヶ野で馬丁から、色男の爲に石碑を建てたとかいう洋妾(ラシャメン)上りのばあさんの噂話を聞いたらしい。その健康で且つ金持の老婆が住むという邸の赤い窓を車の上から見て通つて來たとある。下田領事館閉鎖までに、領事館の外交官と関係を持った(持たされた)1人であろう。お吉ではないが、お吉もラシャメンの1人。人々の好奇心の対象で、いつも噂の種であったのだろう。
お金のことはほとんど書いてないが、湯ヶ島から天城の山の上までの貸し切りの馬車代が1人50銭とある。4人で2円、現在価格(「田舎教師」('21))なら2万円ほどか。
社寺名所旧跡についての記載は一切ないのが、不思議といえば不思議な旅日記であった。

('21/8/27)