田舎教師(1)

田山花袋が1909年に発表した小説である。彼は自然主義派として知られた作家である。「蒲団」(本HP:「蒲団・一兵卒」('02))とともに代表作として知られている。NHKの「よみがえる新日本紀行 選「田舎教師の里-埼玉県羽生-」」を見たのが、読むきっかけになった。モデルがいたと紹介していた。同じ田舎教師でも漱石の「坊ちゃん」は、田舎・松山をコミカルだが、江戸っ子の上目線で描いていた。NHKの古いドラマ、早坂暁原作「花へんろ 風の昭和日記」(昭和60年〜63年放送)の中で、中学受験生が面接のときに「坊ちゃん」に対する感想を聞かれ、小ばかにしていると率直に言った事を記憶している。
一から三までに主人公の林清三が、明治34年(1901年)に中学校を卒業し、弥勒高等尋常小学校の代用教員になるまでのいきさつと手続きの始終を、こと細かに書き綴っている。自然環境、社会環境の描写が詳しいので、当時の羽生とその近隣を生き生きと想像できる。これはこの小説を通して当てはまる印象である。親友・加藤郁治の父が郡視学だった。就職はその伝手である。今の高校2年卒で小学校教員だ。代用から正教員になるには、実科を少しやればわけはないと書いてある。
旧学制は複雑で、小学校高等部は、2年のところと3年のところがあったらしい。それに高等4年で教えた、浦和の師範学校に進んだ女生徒があとで出てくるから混乱する。学校で就学年数を手加減できたのであろうか。清三の学友の何人かも師範学校に進学する。こちらはどうも高等師範学校のようだ。奉職先の老訓導はどちらの師範学校なのだろう。校長も師範出だがこちらは高等なのだろう。
次は四から八まで。奉職手続き完了までに小学校の小使室に2泊する。食事は村の料理屋の仕出し弁当で、4銭5厘。おかずは卵焼きと漬物。今スーパーで買ったなら4百円までの品だろう。駅弁だともう少し高い。だったら今の弁当換算の貨幣価値は当時の1/10000だ。彼の月給は11円(月2回払い、最初の俸給は母に渡している、この程度の親孝行は当然の時代だった)。今なら彼の初任給は17万円ほどか。1.5万倍。弁当よりは値上がり幅が大きい。「坊ちゃん」でも出てきたが、教師には謹厳実直の表の顔とは別に、芸妓を侍らしてどんちゃん騒ぎをやる裏の顔もあった。清三は中学卒業の祝宴で教師の裏の顔を知る。それにしても卒業の祝宴に芸者をあげて騒いだとは驚いたが、侍社会だったら元服の年頃なのだから、当時は当たり前だったのかもしれない。
郁治は東京高等師範を目指す。書棚には、綱鑑易知録、史記、五経、唐宋八家文。最初と最後は私は見たことも聞いたこともない。江戸期の漢学の支配力は大したものだった。彼らは文学青年でもある。彼らはすぐ廃刊になったが、「行田文学」を発刊したりする。清三は明星の晶子の斬新さにひかれている。清三の友の実家は、全員それなりにしっかりして将来に直ぐの心配がない環境だが、清三の父は、お人好しが災いして家業を没落させ、今は書画を土地の好事家に売りさばく商売をしてはいるものの、貧乏に追いまくられ、清三に給与の入金を訊ねる始末であった。
私は歴史的教育建造物をあちこちで見た(「旧中込学校」('02))。松本の旧開智学校(明治9年)、甲府の旧睦沢学校(明治8年)、卯之町の開明学校(明治15年)。旧中込学校は明治8年完成という。だがそんな学校とは違い、清三の勤め先は平凡な茅葺の建物のようだ。教員は校長以下6名、うち1名は女子教員。高等科1年生を受け持つ。どうも男女共学らしい。「坊ちゃん」では生徒から「もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」と注文を受けるが、彼は進んで生徒に速さを訊ねる。
次は九から十三まで。湯屋(風呂屋)はもう混浴でなく男湯と女湯に分かれていた。清三も友も湯屋を利用する。個人宅にはお風呂は普及していないようだ。電気は熊谷には来ているが、その外はランプ生活である。ガス水道もまだのようだ。城下町だったが年々その面影が消えてゆく。士族屋敷町の寂れようが書いてある。あちこちで見た侍屋敷を思い出していた。侍屋敷は町家よりは一般に広く、樹木が多い。住み人がいなくなると急に草ぼうぼうで侘しい雰囲気になる。
お寺・成願寺に自炊の下宿を決める。これも友達の伝手が有効だった。和尚は東京の文壇でも聞こえた文士だった。勤務先とは2里という。程よい距離と書いてあるが、片道2時間はかかるだろう。昔の人はよく歩いた。お寺にもいろんな樹木がある。伽羅とはキャラボクだろう。「梅雨どきの休日パス旅行U」('14)に山寺のキャラボクを見た記録がある。Webにはほかにも寺院の大きなキャラボクが紹介されている。お寺とキャラボクには関連があるのだろうか。お香の伽羅木はジンチョウゲ科のジンコウ属だが、キャラボクはイチイの変種。イチイ科イチイ属だから名前が同じというだけ。夏椿を沙羅双樹に見立てた類か。
熊谷には汽車が開通(高崎線)していた。東北本線も通っていた。でも秩父鉄道はまだで、周辺へは乗合馬車とか車(人力車だろう)だった。清三の家はかって熊谷から行田へ夜逃げしている。熊谷は人口1万、行田はずっと寂しい土地、さらに羽生の弥勒はなお田舎とある。熊谷と弥勒の距離は30km以上だろう。これを当然のように歩くのである。
小学校のクラスメートの思い出は芸者屋の娘で、2年前には一本立ちした小滝がいる。たがいに惹かれあっていた。熊谷の中学校は無事卒業できた。級友の進路は、東京に出たものが10人、国に残っているものが15人、小学校教師になったものが8人、ほかの5人は不明であった。弥勒あたりの田舎になると、教師はエリートで威張った存在だった。私の家は祖父の代までは丹波の奥深い田舎だったが、類似の話を祖父がしていたのを思い出す。
中学校2階の教室の硝子窓から、梧桐の梢だけが見えたとある。梧桐で、松山出身の俳人・碧梧桐を思い出した。いまTVは一種俳句ブームで、「プレバト」の夏井先生が注目されている。松山在住だそうだ。松山は俳句の盛んなところだ。梧桐はアオギリのこと。本書は随所に木本草本の名が出てくる。読者に立ち位置の環境をしっかりイメージさせる。
ここからは十四から十九まで。和尚を通じて東京の文壇や出版業界の情報が入る。上を目指す友の勉学ぶりとか、四高合格の羨ましいニュースも入る。教員仲間の付き合いは実務、実生活の労苦に関するものがほとんど。取り残されてはという思いとか、小学教師で一生を終えたくない焦りとか、清三は向上の努力を自らに言い聞かせるが、現実には雑念に囚われ流されている。そのなかに異性への恋情がある。相手は北川(士族で士官学校志願)の妹・美穂子。浦和の師範学校の寄宿舎にいる。悪いことに、親友の郁治は彼女へのラブを公言し、清三はそのサポート役にされている。
エンターテインメント付きの湯屋が紹介されている。私が松山で出かけた大衆温泉場がそんなだった。かき氷店あり飯屋あり飲み屋あり芝居座敷ありだ。校長が教員の講習会の終わりに引き連れてゆき、ビールをおごる。電気冷蔵庫なぞないその時代のビールは、井戸につけるか、かち割氷を入れて冷やし飲むのだった。氷は天然氷だったのだろう。
蚕繭の出荷が始まり、市が立つ頃という。農家は、蚕の幼虫が4齢から5齢に至るときの、最後の晩餐のための桑の支度に大忙しだった毎日がやっと終わる。雨に濡れた桑の葉を1枚1枚丁寧に拭いてから、荒引の千切りに刻んで蚕に与えるさまの描写がある。本書が書かれたころの養蚕産業は、日本の外貨獲得を一手に引き受けていた。脱線だが、なぜ世界に日本の絹がもてはやされたかを、このHPの「地球法廷:遺伝子操作を問う。」('99)、「草の乱」('04)に書いている。農民が実用遺伝学をマスターしていたから高品質だったのが一つの理由だった。
値切り話がちょくちょく出てくる。麦わら帽子1円90銭を60銭に、空いている時間帯だからと乗合馬車の乗車賃を10銭に負けさせる。私は公定価格のある時代を長く経験してきたから、定価で買う習慣が身についている。めったに負けろなんてなセリフは口にしない。下品だと思っている。売り手が自分のほうから値下げするのを待つ。しかし明治のころは、今のアジアのマーケット同然に、値下げ交渉は消費者として当然だったのかと妙なところで感心した。運賃までとは驚いた。

('21/8/8)