天皇と東大

立花隆氏死去。メディアは「知の巨人」を悼んだ(「6月の概要(2021)」)。千葉市図書館の図書を著者名:立花隆で検索すると、 205 件が出てきた。出身は文系だが、宗教、歴史、政治、経済、文学、教育、芸術は言うに及ばず、各様の理系学術の最先端に至るまで、実に幅広く議論思考の対象にしている。先日上梓の、本HPの「人間の由来」('21)は世界の霊長類研究のメッカを日本に築いた河合俊雄氏の著作の紹介だったが、立花氏にも「サル学の現在」('96)という著作があると知り、驚かされた。このHPをその名で検索すると「地球外生命」('12)、「ゲノムが語る生命像(再読編)」('19)に氏の名が出ている。
立花隆:「天皇と東大〜大日本帝国の生と死〜(上)&(下)」、文藝春秋、'05を選んだ。上巻下巻を合わせると1500pを越す大作である。氏は東大仏文科、哲学科出身だから、彼にとって、もっともふさわしい題材だと思った。メディアの追悼文にも代表作のように書かれていたように思う。目次をめくると、章の題名に、事件名もあるが議論対象となる人名が、憚らずに正面切って記載されていることに好感が持てた。このHPには「B面昭和史(1926〜1945)」('21)、「昭和史(戦後編)」('21)がある。どちらも半藤一利氏の著作の紹介だ。私は立花氏よりはかなり年上だから残された時間はそう多くないはずだ。今回は「気になる人名」をキーワードに、好き勝手な読み方をしてみよう。
補遺「東京帝国大学が敗れた日」から読み始める。敗戦を告げる8/15の玉音放送を安田講堂で聞く。私は集団疎開先で聞いたが、電波状態が悪くなんの話かよく把握できなかった。さすがに首都では聞き取れる電波だったようだ。文系学生は学徒動員とか勤労動員で不在、理系でも集まれる数は限られていた。その中に医学部学生が纏まった数でいた。彼らに対するインタビューで、当時の医学教育の悲惨な状態が解る。軍は数がほしかった。応急手当が出来ればいいとたった5ヶ月の速成教育の軍医だった。教授たちは教育に真剣だった。空襲下でも授業を行い泊まりがけもした。学生は階段の隅でもどこでも泊まり込んで勉強した。
東大は日本軍からもGHQからも接収の危機に立たされた。本郷のキャンパスも駒場のキャンパスも、大きな戦災には遭わなかったらしい。焼け野原の東京で、広大でまともな入居可能な建物のある場所として狙われた。これはちょっと意外だった。私は大学受験の歳になって進学先を考えたとき、東京の大学は候補に浮かばなかった。1つは経済的に駄目だったのだが、もう1つ重要な理由は、戦災のダメージからまだ回復しきっていないと言うことだった。京都は非戦災都市だった。学友で東京に出たのはおらなかった。
8/15からマッカーサーが厚木に降り立つ直前までの日銀の描写がある。トラックが100円札の木箱を山積みにして次々に出て行く。行き先は、陸海軍省や通産省。軍人、軍属、軍職工、軍事産業資本家への支払いだった。作りかけの大砲や飛行機にまで支払われた。その2週間にインフレーションが急に進んだと統計記録が残っている。終戦直後のすさまじいハイパー・インフレーションの始まりである。マルクス主義経済学者は戦前戦中には軍官民間右翼の目の敵であった。その一人・大内兵衛が軍事公債打ち切りを提起し、2年後実行される。この劇薬が日本経済に効くのである。大内兵衛は大学追放後、弟子筋の渋沢敬三日銀総裁の依頼で、日銀に入っていた。
大内らと共に起訴されたマル経学者・有沢広巳は、統制経済立案の面で国策に協力した。秋丸機関の英米班にあって敗戦予見をだし、国策に反すると言うことで、資料一切焼却の処分を受けた。戦後経済調査会として出した復興プランは、後に傾斜(石炭と鉄鋼)生産方式として実行される。有沢は石炭委員会の委員長になって、日本経済復興の第一歩を踏み出す。私が大学を出る頃はまだまだマル経は隆盛だった。私が読んだ岩波全書の「経済学」('51)も大内兵衛著だった。現代経済学に取って代わられるのはいつ頃だったか。
第45章:「東條が心酔した平泉澄の皇国史観」、第46章:「~官・平泉澄と人間魚雷「回天」」、第47章:「二・二六事件 秩父宮と平泉澄の密談」、第48章:「公爵近衛文麿と平泉澄」、第49章:「終戦阻止クーデタ計画と平泉門下生」、第50章:「特攻と玉砕 平泉澄の戦争責任」と平泉澄を題名に含む章が5章も繋がる。皇国史観の内容は、戦後に歴史を学んだものには、あまり馴染みがない。これを中心に本書を読もうと思った。このHPに「神々の明治維新」('16)、「近代天皇像の形成」('16)がある。どちらも安丸良夫の著作が対象である。彼は歴史家だが皇国史観の持ち主ではない。皇国史観と「神々」の繋がりは明らか。先にこの記事をざっと目を通した。
平泉澄は敗戦により東大教授を辞職し、もとの平泉寺白山神社の宮司に収まった。平泉家第三代の宮司であった。明治時代の神仏分離により、現在は苔むした「平泉寺白山神社」としてその姿を残しているが、もとは白山信仰の拠点寺院として開かれたと言われている白山平泉寺である。一帯は、最盛期の戦国時代には8000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時の日本では最大規模の宗教都市となり繁栄した。しかし、天正2年(1574年)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失した。平成になって発掘調査が始まると数々の石畳や石垣、坊院跡(僧侶の住居跡)が発見され、かつて賑わった巨大な中世宗教都市の姿を、今の私たちに伝えてくれているとWebにでている。
白山信仰とか山岳信仰とか修験道とか山伏の姿とか、日本海側の山裾あたりには土着信仰と結びつく文化表現にお目にかかる。平泉寺白山神社の動画画像にも、山伏姿の行者や神官による祈祷行事が出ている。このHPの「北越雪譜」('17)に紹介しているが、塩沢のようなスキー場の多い土地にも里山伏が30人はおるという。私はその拠点のお寺を訪ねたことがある(「大人の休日倶楽部パス旅行(2019)」)。平泉澄の成長環境を知る上で意味がある。
著者は、神道は宗教学的には天皇教であるといってよいし、天皇は神道神官のグランドマスターといってよいとした。彼は天皇崇拝者であった。第45章に「百姓に歴史がありますか」という項があり、国史教育の目的を述べている。「国体(注:神国日本)の自覚と天皇への絶対忠誠心の把握にある。そして、天皇への忠誠の極致は、天皇に喜んで命を捧げることである。それが日本人の道徳の極致であり、もっとも美しい行為である」と説いた。平泉史学はほとんど「大日本は神国なり」で始まる~皇正統記の現代版だと著者はいう。
平泉は自著の中で「臣民ことごとく天皇のために生命を捧げ奉る」ことが、日本人の最高の道徳だという。特攻隊と玉砕戦法とは、この道徳の最もピュアな表現である。それは、大義を守るためには、死滅、全滅もよしとする考えである。行為の有効性などといった、実利・実益的側面を勘案して行動を選択する、西欧流のプラグマティズム思考とは対極をなす考えである。「世界が天皇にひれ伏す」「子供も死ね、孫も死ね」という項もある。昭和11年ごろから敗戦まで東大国史学科を牛耳った平泉教授は、ことに陸軍では圧倒的な「信仰」を受ける。もはや挽回の方策がないと判りだした時期からは、軍の指導原理になっていった。まさに狂気の沙汰だが、抵抗できるのは天皇しかいない状態になってゆく。
半藤一利原作、三船敏郎主演の映画:「日本のいちばん長い日」('67)を見直してみた。近衛師団の過激派士官(大隊長中隊長クラスの中佐、少佐、大尉、中尉)が師団長を射殺し、偽師団長命令により宮城を包囲、天皇の終戦決定を無効化しようとするクーデター(八・一五事件)である。この映画には平泉澄は出てこない。だが首謀者行動者が大半平泉率いる青々塾門下生であった。彼らは東部軍や海軍にも同調決起を期待しているが、それぞれの要所に青々塾門下生というシンパが控えていた。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件では、昭和天皇は、陸軍上層部の反乱への同情的な生ぬるさに業を煮やし、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン」と発言されているから、国内にあっては近衛師団は独立性が高く、敗戦時点でも東部軍との上下関係は薄いものだったのだろう。本書にもWebにも明言されていない。
軍中枢にはクーデター計画が8/12時点ですでに陸軍次官まで上っていた。ほとんどが平泉門下生の軍事課軍務課の組織の正規の仕事として作られた。これが短期に統制のとれたクーデター行動がとれた理由である。陸軍大臣の持つ治安出兵権に武力行使の大義名分を置くはずだった。クーデター後の首班は阿南陸相。彼は平泉とは肝胆相照らす仲だった。クーデター派は、あくまでも天皇が終戦を取り下げない場合は、天皇退位までひそかにプログラムに乗せていたという。二・二六事件においても同様の動きがあった。次代天皇としては、弟君で軍には英邁という評判が高く、親平泉色の強かった秩父宮がその候補であった。八・一五事件ではまだ少年の皇太子であったらしい。さすがに平泉は、陸相同様、天子の聖断に背いて戦争を継続する意思はなかった。クーデター派は落胆したという。
第36章は「滝川事件 鳩山一郎と美濃部達吉」、第37章は「京大・滝川幸辰教授はなぜ狙われたか」、第38章は「狂信右翼・蓑田胸喜と滝川事件」。私の大学卒業のころの学長は滝川先生であった。大言壮語しない先生という印象を持っている。私にとって第38章は新知識である。2者の特色を示す発言が、本書の表表紙の折り返しに一言づつ載せてあるので、それを転記しよう。
滝川幸辰:「理論として、無政府主義や共産主義や社会主義を研究するのは少しも差し支えないことです。そうでないなら大学を廃止する方がよろしい。」。学長時代には左翼過激分子から反動呼ばわりされたから、時代の「空気」とは頼りないものである。蓑田胸喜:「「帝国大学法文学部」は実に五十年来「日本人としての排日主義者の淫詞邪教の総本山」となり来たった現日本国家社会生活の万悪の根源である。」。
本書では主に政治の世界が纏められているのだが、東大が輩出した人材の数には圧倒される。でも不幸な歴史を避けられなかった。敗戦までに至る経過が、すべて彼らの責任であるとは決していわないが、人材が一極的であることは、我らの将来に重大な警告を発していると思う。民主主義を奉信するなら、我らは、大学に限らず、何事にも多極化を心がけねばならない。

('21/8/1)