クロスカップリング反応
- 根岸英一先生がこの6月に亡くなられた。'10年にノーベル化学賞を鈴木章、F.Heck両先生と共に受賞されている。受賞対象はクロスカップリング反応の研究であった。市図書館から2冊の関連図書を借りだした。化学 Vol.65 No.12 (2010)(大嶌幸一郎:クロスカップリング研究の流れを追う, p12)(以下「化学」と書く)と山本靖典、江口久雄、宮崎高則:「クロスカップリング反応の本」、 鈴木章監修、日刊工業新聞社、2017(以下「本」と書く)である。
- 原点はR-MgXやAr-MgXで表されるグリニャール試薬。もう古典的な求核試薬(カルボアニオン生成)で、'12年にグリニャールはこの研究によりノーベル化学賞を受賞した。湿気が大嫌いだが、市販されている安定化合物だ。反応相手の求電子試薬(カルボカチオン生成)には有機ハロゲン化物R-XやAr-Xが用いられる。でも混ぜただけでは何も起こらない。
- 熊田・玉尾とCorriuは別々だったが、'72年に反応を進めるNi触媒を見つけた。触媒サイクルが完成した。これが端緒になって、世界中で、有機Mg化合物以外の有機金属化合物ならびにNi以外の遷移金属触媒が探索されだした。有用性が高いPd触媒が見つかる。遷移金属を配位子と組ませて、有機溶剤に溶かした均一触媒として用いられる。これにR-Xを加えるとRとXの間に遷移金属が酸化的に付加する。Pdなら0価から2価に変わる。
- あと有機金属化合物R'-Metalと金属交換し、遷移金属を離脱させれば、クロスカップリング反応物としてR-R'を生成する。遷移金属は再び配位子をつけた0価の姿に戻る。Pdの酸化的付加体に、有機金属化合物の代わりにオレフィンR'-C=CをPd錯体触媒に配位させ、オレフィン末端水素(Pdから見てベータ水素)を脱離させる反応も導びかれた。このときはクロスカップリング体として、R-CH=CH-R'(Hはtrans位)を生成する。
- 多くの研究者が参加した。日本からの貢献は数多い。特徴ある反応には、報告者の名前がついた。熊田・玉尾・Corriu反応、根岸反応、鈴木・宮浦反応、Heck反応など数多い。'10年のノーベル化学賞授与は、実用化を重視して選別された。もっともよく使われるのは、鈴木・宮浦反応。有機金属化合物の位置に有機ホウ素化合物を置く。有機金属化合物は普通は空気や水と激烈に反応するため、取り扱いが難しいが、有機ホウ素化合物はそれらに対し安定な化合物で、しかも穏やかな反応条件で、高収率で進行するメリットがある。ここまでは主に「化学」の記述に基づいた。
- 鈴木・宮浦反応は特許出願されてない。何となく美談めいて聞こえる。科学、技術の進歩のために障壁は設けない。ことに国立の大学や研究所の教授とか研究員には、こんな姿勢の人が多かった。それも見識であるが、その仕事を支え続けた組織・個人には、相応のアドバンテージがあってよい。後述の通り、クロスカップリングの新技術は、たとえば電子素材の開発にたいそう役立った。それぞれの立場で、素材製造関係者による特許取得はやられているだろう。しかし、今や「電子立国日本」は凋落が激しい(「7月の概要(2021)」。今となっては遅いが、やはり基本特許は、何らかの形で、日本に確保しておくべきであった。
- 「本」の第5章「暮らしを支えるクロスカップリング反応」に、この反応が役立った電子機器素材の製造を解説している。まず大成功だったのが液晶ディスプレイ用の液晶製造であった。誘電率異方性の液晶は電場において配向する。これをバックライトのシャッターとして利用するのが液晶ディスプレイ。「本」には、メルク社とJNC社(チッソの子会社)の例が示されている。
- 次が「紙のように薄い有機ELディスプレイ」。発光層の両側に正孔輸送層と電子輸送層をおく。それを挟んだ透明電極間に電圧が掛かると、分子軌道(正孔はHOMO、電子はLUMO)論的機構によって正孔と電子が移動し、正孔と電子が発光層で再結合し、発光層分子が励起され、発光現象が起こる。今では液晶パネルよりも有機ELパネルの方が出荷量が多い。有機パネルは面発光のため、照明用途が広がっている。「本」には、東ソーと出光興産の例が出ている。
- 「半導体は産業の米」。半導体製造の長い工程のキモはリソグラフィだ。このHPの「放射線利用の基礎知識」('07)に面白いことを書いていた。ちょっと長ったらしいが引用する。
- 「放射線のサイエンスは殆ど進歩していない。だが応用技術は格段に進歩した。格段とは私が現役であった頃と比較してという意味である。微細加工技術ではことに目覚ましい。その代表が半導体集積回路製造のリソグラフィ技術である。私は分析技術の面で半導体工業といささかの関わりがあった。原理はもう20年以上昔から知れていた。古い本で恐縮だが、野々垣三郎:「高分子新素材One point-3 微細加工とレジスト」、高分子学会編、共立出版、'97にはすでに電子線レジスト、X線レジストに触れられており、短波長紫外線による微細加工が差し当たりの開発対象であると云っている。本書にはそれらが実用化され、さらにイオンビームによるエッチング法ドージング法が実用化されていることを告げている。」
- さらに蛇足がついている。「文系は楽だ。例えば一度勉強した法律は多分大半を一生活用できる。でも技術は基本を除けば賞味期間が極めて短い。半世紀以前でもせいぜい5年間だと思った事があった。現代ではさらに短くなっているだろう。先端を行く技術者研究者には、よほどの待遇を与えてやらなければ、なり手が無くなって行く。」
- 「本」が書かれた時点での技術の主流は、従来通りフォトレジストのようだ。ただし露光装置の光源にKrFエキシマレーザー(248nm)を使う。上記野々垣の著書には、高圧水銀灯のi線(365nm)が使われているとある。ただしエキシマレーザーについての俯瞰も書いてある。まだクロスカップリング反応には言及していない。本書には北興化学工業と東ソーの名が出ている。
- 有機薄膜トランジスタ(有機TFT)なら、シリコンウェファなどと違って、低温プロセスになり印刷技術(スクリーン印刷法、インクジェット法)が使え、フレキシブルな樹脂基板も可能だ。画期的な技術になる。その可能性が紹介されている。
- 農薬に、医薬品に、診断薬に、機能性蛍光色素にクロスカップリング反応は大活躍である。 そればかりではないが、ややこしい異種多環式芳香族複素環化合物を炭素・炭素結合で結びつけ、しかも高純度(副反応の少ない反応)で製品を得ることが出来るから、生体相手の難しい構造の薬品にもってこいだ。微量ダイオキシンの公害で使用禁止になった農薬PCPの例示がある。「ジキル博士とハイド氏」は大学2年生の時の英語教材だった。生体相手の不純物は怖いのである。
- 無農薬がいくら新聞でもてはやされようとも、農薬なしに世界の78億あまりの人口を養うことは出来ない。除草剤プロスルフロン(チバガイギー、現ノバルティス)には、溝呂木・ヘックカップリング反応が利用されている。位置選択的なアルカン導入法として有用な例である。
- 高血圧の治療には、降圧剤を用いる。血管細胞を収縮させるカルシウムイオンの流入を阻害する。AU受容体拮抗剤(ARB)は、流入に働くAUの細胞側の受容体を阻害する。副作用が少なく、その効能が高いことからもっとも普及しているという。「化学」にはメルク社のロサルタンの売り上げが3千億円あると書いている。私が処方されている降圧剤は、ジヒドロピリジン系カルシウム拮抗剤だ。作用機序には受容体阻害だと出ている。Wikipediaには「高血圧治療の第一選択薬とされ幅広い患者に使用されている。」と記されている。今度かかりつけのお医者さんに両者の差を聞いてみよう。
- エイズ(後天性免疫不全症候群)が日本に上陸('87年)して当面は、きちんとした治療薬はなく、医療関係者・患者は悲壮だった。当時の私の在住地方にはまだ('95年頃?)蔓延の気配はなかったが、学生啓蒙のために、解説用の勉強したことを思い出す。原因のHIV(人免疫不全ウィルス)に対する抗HIV剤(HIVプロテアーゼ阻害剤)が開発された。この合成もクロスカップリング反応を応用している。HIVは忍者ウィルスで、ワクチンを作ってもするりと変身して免疫から免れる(「感染症は世界を動かす(その2)」('06))。新型コロナも変身型で、インド株が従来ワクチンをすり抜けるかと心配されたが、なんとか効くようだ。でも抗コロナ剤開発を急がねばならない。
- 副作用の少ない、がん分子標的治療薬が、やはりクロスカップリング反応応用で作られている。本庶佑先生の'18年度ノーベル医学生理学賞受賞で脚光を浴びたがん免疫薬ニボルマブ(商品名:オプジーボ)は話にない。短半減期人工放射性元素によるPET診断法(陽電子放射断層画像撮影法)が、従来のがん検査法よりも早期に診断できるとして普及した。短半減期のために、迅速合成法の開発が必要で、それにはクロスカップリング法が活躍している。
- '08年ノーベル化学賞・下村脩先生の緑色蛍光タンパク質(GFP)のように、生体内にある特定の分子に蛍光物質を結合させると、細胞内に起こる生命現象を解析することができる。本書には強力なレーザー光にも耐える超耐光性色素のC-Naphoxが、生命現象を高精度に観測する新たなツールとして期待されており、それがクロスカップリングを応用して合成できると説明している。
('21/7/18)