流人道中記 その一

浅田次郎:「流人道中記(上)、(下)」、中央公論新社、'20を読む。3千石を越す旗本のお殿様・青山玄蕃が不義密通罪を犯し、蝦夷松前藩永年(終生)お預けの処分を受ける。この流人を江戸から青森の三厩まで奉行所の新米与力・石川乙次郎が護送(押送)する。その乙次郎の道中記だ。頃は万延元年(1860年)の夏。桜田門外の変が起こった年だ。4/11の「青天を衝け(9)「栄一と桜田門外の変」」を見たばかりだ。騒乱の兆しが明らかな時代に片道約1ヶ月の旅をするのである。
お旗本ともなれば牢屋での扱いが違う。何事も格式が物を言う武家社会である。揚座敷に隣室があり、そこには当番の下男が常に控えているという。朝夕の食事(獄舎では1日2食)も臭い盛り切りの物相飯どころか、一汁三菜の本膳が出たという。菓子や書物も差し入れ可だった。切腹の判決だったのに、罪人が拒否した!ため、将軍への上奏書を取り下げてお預かり処分にした。判決の書き直しは同じ三奉行の合議によるのだから、ちょっと違うが、現在の最高裁の下級審への差し戻しに似ている。殿中抜刀の浅野内匠頭にはなかったが、姦通罪ぐらいだとこんな処置が可能だったらしい。容疑者に揚座敷入りほどの格式があれば、今に言う人権への配慮がしてもらえる。
乙次郎は御手先鉄炮組同心(三十俵二人扶持、足軽身分)の冷や飯食い(次男坊)だったが、免許皆伝、学塾塾頭の英才であることを見込まれ、300両というお頼み金を積まれて、奉行所与力に婿養子として迎えられ、見習い与力になったばかりであった。与力は200石、だが市中からの心付けがあって実質1000石になるという。その石川家が、娘きぬに婿養子を急いだのは、当主が卒中で倒れ寝たきりとなり、そのままでは当主の死亡と同時に無収入になるからだ。与力は建前は一代抱えだからだ。乙次郎19歳、きぬ15歳。
玄蕃は元新番組士。将軍家に近侍する旗本中の旗本、御本陣をお守りする騎馬武者。家中には10人の若党20名からの足軽小者(旗本八万騎は彼らを含めると嘘ではない)、20名もの侍女を抱えていた。同心、与力、新番組士の生活レベルを食い物の差で示してある。同心はたまに目刺し1尾、与力は毎朝3尾、乙次郎はウナギを食ったことがなかった。400文の(超)上級旅籠(杉戸宿)で100文のチップをはずんだら宿がウナギを出したのであった。チップは、玄蕃の老臣が別れ際に、与力の懐に忍ばせた10両から出たと思えばいい。玄蕃にとってウナギはなじみの食い物であった。
奥州街道を北上する。私は昔の雰囲気を残す宿場を訪れる旅が好きだが、奥州街道の宿場は知らない。この小説はその紹介文にもなっているから、機会があれば旅してみたいと思わせる。千住掃部(かもん)宿が1番目。ここは素通り。その手前の千住大橋が御朱引、つまり見送り終点である。実は押送人(科人護送役人)は2人で、乙次郎のほかに役立たずの老同心が1人付いていたが、彼はかってに業務放棄をして江戸へ戻ってしまう。抜け目なく青山家からの賄から5両をピンハネする。あんなに固定的な江戸社会でそんなことができるのかと不思議に思わせないように、背景が描いてある。
最初に宿泊したのは杉戸宿。日本橋から5番目で44km。本当は越ヶ谷宿26kmのはずだったとある。2泊目が雀宮宿で杉戸から15里正確には59km、3泊目は宇都宮宿で日光街道と別れて雀宮から45kmの佐久山宿。次が28kmの芦野宿(栃木県那須町)2泊。本HP「千曲川のスケッチ」('02)に「農民・・はなんと日に16里を歩くという。私は少年の頃一度だけ日に12里を歩いた。当時を思い出して、昔人の健脚ぶりに驚く。」と書いた。日本橋から25宿目までの176kmを4泊で飛ばす。それで急ぎ旅ではないとしている。
一行はこの芦野宿の飯盛旅籠で稲妻小僧御用事件に関わり合う。稲妻小僧はWikipediaには明治に実在した怪盗とある。本小説では50両の賞金首になっている。江戸で2500両の荒稼ぎをした指名犯だ。アメリカの西部劇には賞金稼ぎがよく登場するが、江戸時代の時代劇に賞金稼ぎが出る話は私には初めてだった。それにこの時代の賞金はせいぜい2両程度だったそうで、50両はまさに破格だったとある。
故郷恋しさのあまり訪ねたところを、今は飯盛女に身を落とした、かっての幼なじみに出会ったのが運の尽きになっていた。稼業に嫌気がさして自首の決心をする。玄蕃は、賞金で飯盛女の身請けが出来るように工夫する。少女の身売りは20両ほどだったらしい。12-3歳で客を取らされる。残酷な話である。芦野は、関ヶ原で家康に味方して以来続いている、那須与一に繋がる名門芦野家3千余石の領地。そこから峠を越すと奥州である。
須賀川宿1泊、福島宿1泊。ここは交通の要所であるため譜代の3万石が治めている。宿場ごとと言っていいほどに領主が変わる。天領も挟まれている。武士道から見れば破廉恥きわまる流人を、乙次郎の上司は「暗に」切り捨てろと仄めかしている。乙次郎は面倒を納めやすい天領内で斬ろうと決心しているが、旅中の帯刀を許されている罪人を斬る隙を見つけにくいのと、次第に明らかになってくる豪放磊落ながら人間味のあふれる人柄に次第に惹かれてゆき、決心が付かなくなっている。宿場の歴史からは、徳川の精緻な施政方針が読み取れる。
福島では二十三夜の月を愛でることが出来た。昭和の頃までは二十三夜は月待ち行事の夜だった(「ワッフルランチ」('16))。福島の次が大河原宿で、雨風にたたられ、ずぶ濡れで飛び込む。映画「雨上がる」('00)の舞台にそっくりの情景が描かれている。シラミにかまれて眠られない安旅籠(150文/泊)だった。シラミは酒の匂いに寄ってくるとあるが、本当は高体温が惹きつけるのでは無かろうか。そこで仇を求めて放浪する神林内蔵助30歳と道連れになる。
彼は1万石の小大名の家中で禄高250石という重い立場の神林家の次男坊だった。その父が花見の騒ぎに仲裁に入り斬り殺された。神林家は長兄の継承を了承されるが、次男の仇討ちが条件とされ、その免状が出された。仇の姓と俳号、奥州なまりと言った程度の、面識など全くない心細い情報のもとで、仙台を中心に奥羽一帯を探し求めている。彼はすでに7年を空しく費やしている。路銀は兄や伯父が今は負担しているという。武士階級の非情な掟である。でも幕末期にもなると仇討ちはかなりレアなケースになっていた。
仙台には何度か旅行した。でもお城や大通りを除けば森の都という印象はない。NHKのブラタモリ「仙台 "杜"と"都"」では仙台がなぜ「杜の都」かを解き明かした。武家屋敷には、成長後の利用を考えた樹木が植わっていたという。本小説にもそのことが載っている。伊達藩中はみな「伊達男」なんだそうだ。彼ら3名は髪結床で理髪し、身だしなみを整えてから仙台城下に乗り込む。江戸を出てから9日目になっていた。仙台の中心は、江戸の目抜きもかくやはと思われるほどの賑わいだった。
仙台では62万石藩侯が玄蕃を客人として待ち構えていた。まず3人とも外人屋という迎賓館に案内される。内蔵助は翌朝一人で大崎八幡宮に参詣し、旅先に届いた兄からの書状を開き、母の訃報を知ったとき、雲水におたずねの仇だと名乗られる。内蔵助は、役所に届け、正式の手続きをしてからの処置にしたいと同行を促す。大崎八幡宮には参拝に出かけたことがある(「街道を行く−U」('12))。本小説にもすこし紹介してあるが、社殿は金色の金具に黒漆喰の板戸と柱、階だった。
「流人道中記 その二」へ続く。感想文だから「その一」「その二」は上巻、下巻に対応しているのではない。

('21/4/24)