新書太閤記 第八分冊

第七分冊の最後は、宗仁からの「本能寺の変」急飛脚の到着と、秀吉の事件情報の封鎖であった。ここから秀吉は毛利と和睦し、中国おうむ返しを敢行、光秀を三日(実際は10数日)天下に終わらせる。秀吉の生涯でもっとも輝やかしい時代である。まずは「洞ヶ嶺」の手前までを一気に読んだ。
黒田官兵衛、蜂須賀彦右衛門、堀秀政、幽古(のちに御伽衆となった連歌師)が、天下が滴り落ちる好機到来と、そこは時代を反映させて忠義の建前を崩さずに、光秀討伐を進言する。秀吉の天下人への名乗りは、世間では東風が吹く心地で受け止めるであろう、吉野の花見に出かける仕度を始めようと言う。
毛利は元就の遺訓を尊重して中央軍の秀吉に対し守勢を取ってきた。信長到着をひかえて劣勢を認識していた。備中、備後、美作、因幡、伯耆を割譲するかわりに高松城の囲みを解いて、清水宗治以下の城兵5千の生命を助けよという。秀吉は、覇者としての名を重視し、領地よりも宗治の首に執心した外交策を取っていた。
安国寺恵瓊が毛利側の全権大使であった。完全な情報遮断は不可能でいずれ本能寺の変は毛利に伝わる、感づかれないように威厳を保ちつつの早期講和は大変な高度外交であった。恵瓊の相手をしたのが彦右衛門で、小六時代以来の古い誼が役立つ。恵瓊は建前は絶対反対の吉川、小早川への報告を避け、直接宗治の大所高所観、大儀観に訴え、切腹の選択をさせる。こんにち官僚の間で流行の忖度行動は伝統文化に含まれている。望んでの切腹で、吉川らを納得させ、有名な水攻め人造湖上の儀式が催される。領国譲渡は3国とし、毛利家は安泰、城兵5千の生命保証が条件になった。
恵瓊はこの10年も昔に、有名な「信長の代、五年三年は持たせらるべく候。来年あたりは公家などにも成らるべく見および候。左候ふて後、高ころびに、あふのけに転ばれ候ずると見申し候。藤吉、さりとはの者にて候。」という書状を吉川に送っている。藤吉郎は未だ織田家中では微々たる存在でしかなかった時代だった。慧眼の僧であった。
誓書を取り交わして程なく毛利は本能寺の変を知る。秀吉撃つべしの声が高まったが、小早川隆景は「敵の喪を討たず」と言って押しとどめる。秀吉は宇喜多勢、秀勝勢には撤兵を命じるが、なお毛利の動静に備えて本軍はそのまま、ただし堰の一部を切り徐々に水位を下げ掛かる。城兵撤退。毛利から質子が来る。講和3日後になり、総撤退の号令が掛かる。堰は一斉に切り放たれ、濁流が野を覆うと同時に毛利の反撃を物理的に不能にする。
岡山で宇喜多秀家を養子に迎える。彼は未だ10歳で頼りない環境にあった。関ヶ原の合戦で日和見が多かった西軍にあって躊躇無く戦ったが、その基本である出会いのほほえましい風景が描かれている。秀吉は雨中の強行軍をものともせず、4日後には姫路に到着した。城のあらん限りの金子・銀子と蔵米を部下に分配する。5日目1万あまりとなった秀吉軍は京都をめざして出陣する。尼ヶ崎にこの急行軍が到着したのは、和睦成立後の7日目(信長の死(6/2)後10日)だった。
丹羽長秀、中川瀬兵衛、高山右近、池田信輝、蜂屋頼隆などの諸将は秀吉の到着を待ち構えていた。光秀配下であった中川、高山は質子を差しだそうとしたが、受け取らなかった。細川家からは光秀には与しないとの誓紙を持った使者が来ている。光秀討伐の実質の総大将をほとんどは彼に期待していた。秀吉は剃髪する。動きの鈍い大坂表の神戸信孝(信長三男)へは、弔い合戦への早々の参戦を促す書状は送ったが、主筋への敬意を示す伺候はしなかった。
池田信輝は清洲以来の莫逆の友で手勢4千人、高山右近の2千人、中川清秀の2.5千人、蜂屋頼隆の1千人で優に2万を超えようとしていた。茨木と高槻の中間、富田に陣営を張る。第1陣高山、第2陣中川。光秀は洞ヶ嶺、八幡の陣を撤し、山崎、円明寺へ。先鋒は勝竜寺に出現。秀吉は信孝、長秀の出陣を待つ。ようやく進軍してきた彼ら7千を淀まで迎えに立った。秀吉は信長直系を陣に迎える喜びを語り、信孝は遅滞を詫び、秀吉を主将と認める。本陣は山崎へ移動する。
光秀は事が成就した日の午後には安土を制圧する腹づもりであった。だが瀬戸大橋は焼き払われ、渡河に両3日の齟齬を生じる。安土城は虚ろだった。留守居役・蒲生賢秀が主筋の眷属一統を自城に保護した後だった。3日ほどの間に、丹羽長秀の佐和山、秀吉の城長浜も同時に陥しいれた。美濃の諸侍を誘降し、六角家の旧臣や京極家の一族、また、若狭の武田義統などを加えることには成功したが、蒲生や細川の離反は痛かった。大坂表にある織田信澄(光秀の婿)はすでに殺されていた。毛利に送った使者2人中、陸路を辿ったものは捉えられ、海路経由のものは無事到着はしたが、すでに和議成立後だった。
「海と風と虹と 一」('20)に京口である大山崎あたりの情景を書いている。鴨川、瀬田川、桂川が合流し淀川になる場所で、川の両側から山が迫っていて、京都への南の狭い出入り口になっている。秀吉vs.光秀の合戦はこの地域で行われた。本能寺の変の11日後である6月13日の3時間ほどで決着が付いた。秀吉軍が2.7万以上、光秀軍が1.6万程度。「洞ヶ峠」を決め込んでいた筒井順慶は、監視役の斉藤利三軍2千を打ち破り淀方面に進撃する。軍勢比率は倍半分になった。光秀は、順慶の帰趨に一抹以上の不安を感じていたのであろう、最後は戦い直前に陣を訪問して確かめていた。20万石の筒井は大戦力で、光秀は織田時代の光秀軍与力であった関係から彼を期待していた。
戦いは早朝の天王山占領戦からなし崩しに始まった。誰の目にも戦いの要衝だから、争奪戦は熾烈だった。こんな山岳戦でも半分は鉄砲戦になっていた。光秀軍は700を出し初めは優勢だったが、次第に圧されて秀吉側が占拠する。早くから準備が出来たはずの光秀軍の迂闊は、秀吉軍の到来の時期を常識的に計算したか、情報戦の遅れであったか。光秀本陣は勝竜寺西南今の立命館中高校あたり、秀吉本陣は富田から移動中で、最終的には光秀の西南2kmほどの宝積寺あたり、到着は午後3時とある。
正面衝突では高山、中川の両先鋒が奮戦した。光秀本軍も見事な勇戦ぶりだった。午後7時頃に秀吉軍の勝利が明白になる。金瓢?の馬印が光秀軍の標的になり、5−6千の秀吉の本陣が前線となった時期もあった。虎之助が秀吉目前の手柄で賞を受ける。光秀は股肱の武将の戦死の悲報を次々に受け取る。彼は勝竜寺城に退く。明智側戦死3千余り、羽柴側3.3千。
光秀は夜半、勝竜寺から坂本を指して落ち延びようとする。深草から山科を経て大津に出るコースを辿るはずだった。坂本城には光春がまだ2千の精兵を温存していた。初め4−500はあった従兵は次々に逃亡して、わずか13騎となる。小栗栖の林で、土民の落ち武者狩りの竹槍により一命を絶たれる。勝竜寺はすぐ落城した。秀吉は安土と坂本の連絡遮断、丹波路の亀山を目指すであろう落ち武者の掃討に次々と指令を出す。指令を受ける武将たちは、同列の織田遺臣のはずだったが、いつのまにか、秀吉は彼らを自分の麾下同様にあつかい、彼らもまた、意識しつつ秀吉の下風に在らざるを得なくなっていた。すでに諸将は呼び捨てにされている。
安土から引き返す1千余の明智勢は従兄弟の光春が率いていた。瀬田大橋の東岸には瀬田城があって、立ち戻っていた城主・山岡景隆などの甲賀武士や山崎からの援兵・堀秀政勢が陣を敷いていた。その軍勢ははや3倍。その中を光春は坂本へ急ぐ。麾下は次々に討ち取られ、ついにただの一騎となってようやくたどり着いた。最後は琵琶湖を乗馬と共に泳ぎ渡った。歴史に残っている勇将の姿である。
坂本城にはまだ3−4百の兵が残っていた。光春は残兵を落ち延びさせ、亀山城から移っていた光秀の家族を含む眷属一同に自死を言い渡す。寄せ手に名器宝物を目録をつけて渡し自決する。城郭には火が放たれ、光春の最後の抵抗を行った砦は自爆させて終わる。著者が信じた武人の潔さの典型として、光春とその周囲の最後が描かれている。武士道の実際がどうだったかは知るよしもないが、「昭和史(戦後編)その1」('21)に書いたように、今次大戦の敗戦に対し、「国民には「撃ちてし止まん」と竹槍訓練を号令し特攻精神を吹き込んだ連中が、意外にも自決もせず「生きて虜囚の辱め」を受けた方が多かった。」が、1582年の明智の部将や血縁者はかなりが自刃の道を選んだようだ。
安土奪還は山崎合戦後5日目だった。光秀側に立っていた阿閉淡路守と、それに組みした京極高次一族は長浜を占領していたが、北12kmほどの山城・山本山城に逃げる。そこを1日半で攻め落とし、秀吉は合戦後7日後には長浜城に帰還する。凱旋を喜ぶ市民の描写がある。有名な長浜曳き山祭は、秀吉から始まった諸家の肩入れで盛大になったことが知られている。「京都浪漫 悠久の物語U」('18)には、その山車の懸装品のタペストリーが、1600-1620年代にベルギーの名工により織られたと紹介してある。
秀吉はすぐ母なかと嫁ねねの探索に当たる。避難先は佐吉(三成)ゆかりの三珠院からの情報でわかった。今は廃寺だが戦国の頃は強大なお寺だった。彼女らは、家族侍女家士ら200と共に大吉寺にほとんど着の身着のままで避難していた。地図で見ると小谷城の東6kmほどの山中で、麓から小1時間ほど登った位置とある。1572年の信長の焼き討ちで堂宇は焼失している。だから一行は粗末な仮小屋に寝起きしていたのであろう。本能寺の変から1−2日で明智勢は攻めてきた。長浜の12km北は親明智だったから、危険はたちまちにやってきた。ねねの、全員を引き連れてその日に行き先も告げず立ち退くという果敢な判断は、戦国の世とはいえ見事だった。
さて秀吉軍団以外はどうしたか。このとき故信長49歳、光秀55歳、秀吉45歳、家康40歳、勝家53歳。当時の幼児期の死亡率は高かった。それを省いた平均余命は「敦盛」のいう50年ほどと思うと、全員が大人の勝負の時期に入っている。徳川は熱田まで来て引き返す。勝家は1万を率いて北陸道の栃ノ木峠(越前と近江の国境)を越え、8kmは南下して北近江の椿坂で留まった。ここは今でも小さな山村で、長浜から20数kmの真北の位置だ。山崎合戦から3日遅れの6/16になっていた。
勝家は捷報を心底からは喜べない。首席部将としての沽券にかかわる。1万を率いた彼は秀吉を意識して清洲会議を強引に進める。主催者となって織田家中の中心的地位を誇示する。神戸信孝(三男)、北畠信雄(次男)の一門もそろい、以下、柴田勝家、羽柴秀吉(手勢は7−800ほどだった)、丹羽長秀、細川藤孝、池田信輝、筒井順慶、蒲生氏郷、蜂屋頼隆かなどが集まったが、滝川一益は関東管領としての経営がままならず遅参し、次世代への競争に脱落する。
会議の主題は次の織田の総領と光秀旧領の分配であった。勝家の総領・信孝案に対し、秀吉は筋目論で長男・信忠の遺児・三法師(3歳)を推し、大半の賛同を得る。旧領分配では、勝家は秀吉居城の長浜城を要求する。秀吉はそれを勝家養子の柴田勝豊にと言う条件で認め、丹波の国1国で満足し、坂本城は丹羽長秀の所有となる。柴田勝豊と勝家は不仲だった。
勝家の秀吉排斥の意志は謀殺へと動いた。無頼の甥・佐久間玄蕃に会議打ち上げの酒席で絡ませ喧嘩を売り、猿呼ばわりしても秀吉がいっこうに乗らぬので、次の三法師のお世継御披露の祝事での暗殺実行案を練った。秀吉は会議の頃から追々と病を申し立て、前夜にそれを口実についに長浜へ脱出する。主隊に追いついた玄蕃は、秀吉は別の少人数で間道を去ったと知り地団駄を踏む。
敵意をむき出しにした以上今度は勝家が、北の庄帰国路を心配せねばならなくなった。秀吉の待ち伏せである。秀吉は養子秀勝を迎えに出し、暗心疑心の勝家の安全を保証する。勝家はその後織田家中を同盟に引き入れる権謀術策に奔走。さらに信長の妹・浅井長政の未亡人のお市の方(34−5歳)との再婚で織田中心という名声の挽回を願う。それが9月。天下人から外れた信孝は、叔母の再婚の根回しで、勝家との絆を深めて行く。
秀吉は家族を姫路に送り、自身は修築した山崎城(別名は天王山城、宝積寺城など)に住み、朝廷への忠勤、京洛の治安維持などに抜け目なく働く。10月半ばには大徳寺に総見院を建立、信長の大葬儀を執り行う。戦乱焼き討ちで疲弊しきっていた都は、関連費用の支出で活気を取り戻す。正親町天皇は、信長へ従一位太政大臣を贈位贈官あらせられた。抜け目なく諸家諸将に案内は送られた。近畿の諸将はあらかた会し、毛利輝元も代参をのぼらせているが、柴田勝家翼下の前田、佐々、金森、徳山の諸将、また神戸信孝一類の滝川以下、みな云いあわせたように、上洛もしなかった。三法師も清洲にあって参列しなかった。無気味なのは、徳川家康の存在であった。

('21/4/14)