中秋の大人の休日倶楽部パス旅行

大人の休日倶楽部パス(JR東日本)4日間の前3日を東北旅行、最後の1日を塩沢訪問に当てた。東北では第1日を釜石宿泊、第2日を八戸宿泊とした。GOTOトラベルの補助があるので、豪華旅館をとも思ったが、いつもの通り駅近場のビジネスホテルにした。東北では豪華旅館は温泉場とか観光名所にあり、そこまでの交通に難儀するから、パスによる欲張り旅行には向かないのである。
到着は決まって遅くなるこのスタイルの旅行で、もっとも注意せねばならぬ問題は晩飯の手当。過去にはあまりなかった問題と思う。ビジネスホテルにレストランはない。周辺の飲食街も当てにならない。一番の頼りは駅弁だが、車内販売はなくなっている。仙台駅ですら駅弁屋は6時半に店を閉じる。実際には乗客数が異常に減少したコロナ事情を反映させたのか、仕込み弁当数が少なかったようで、6時にはもう数えるほどしか残っていなかった。タイミングがまずかった第3日は、持参の予備食「カロリーメイト」で済まさねばならなかった。
釜石に降り立つのは2回目(「梅雨どきの休日パス旅行T」('14))だが、宿泊は初めて。ホテルフォルクローロ三陸釜石は駅に直結した便利な宿。7Fに露天風呂付きの大浴場があった。宿泊者安全対策にカードキーが活用されていた。エレベータ利用もこのキーがないと動かない。新型コロナ対策には体温測定、健康問診票提出、マスク着用、朝食の個別配膳(バイキング方式取りやめ)。
朝、甲子川を渡り、市内を通り過ぎ、魚河岸から漁港までを散歩した。釜石の町は山が海辺近くにまで迫る湾(釜石港)の一番奥にある狭い平地にあり、ぎっしりと家が建ち並ぶ。大震災の被害状況と対策工事、その効用、避難地と避難経路などを記した立て看板がある。巨大な防潮堤が目立つが、港の入り口にはもっと巨大な湾口防波堤があって、防潮堤と協調して、津波に立ち向かうようになっていた。
魚河岸は取引が済んで荷が運び出される頃だった。建物に比べて荷が少ない。漁港のつながれた船の数も少なくガランとしていた。昔は遠洋漁船で賑わったが、今は沿海漁業が主だそうだ。漁業関係の会社が港を取り囲んでいるが、営業しているのかどうかよくわからないほど静かであった。グリーンベルトが設けられ高架を走る道路に上れるようになっている。高架道路そのものも、安全な内陸への連絡網の一環として設置されたのであろう。地図に出ている寺社は皆山裾の小高い位置にある。住民には経験的に安全地帯がどこからかが解っているのだ。イヌタデ(アカマンマ)の群生を見た。私の住まい近辺では滅多に見られない光景だった。その数本を取って愛想よくてきぱきと仕事をするホテルの女性スタッフにお土産とした。
八戸市は観光に力を入れているようだ。駅構内にも、私が泊まるホテルのある八戸地域地場産業振興センター・ユートリー(VISITはちのへ)にも、さらに観光案内所にも八戸三社祭の山車が展示されていた。夏のイベント。だが今年はコロナのために中止になったという。2月のえんぶりは興味深かった。ユートリーの1Fにはそのタイル絵があった。農耕神を目覚めさすための豊作祈願祭らしい。我が家に戻ってからその動画をいくつか見た。かぶり物も衣装も履き物も皆個性豊かである。踊りに合わせる唄は、南部弁というのだろうか、さっぱり解らなかったがそれはそれでいい。
朝、バスで史跡根城の広場をめざす。1時間3本程度走っている八戸市の幹線バス路線のようだった。降りた根城博物館前あたりにイチイの木があり、赤い実をつけていた。根城は陸奥国司・北畠顕家の奉行(国代)南部師行が1334年築城、以来遠野移転までの300年間続いた根城南部氏の居城である。南北朝時代には東北の南朝方の中心的存在であった。師行は顕家に従い和泉国石津(大阪府堺市)で戦死。本丸跡と八戸市博物館が有料。土塁の城。
南部師行騎馬像前、旧八戸城東門、薬草園、東善寺跡(根城南部氏祈願所で、 領地替えの時東善寺も遠野へ移った。)を通り、時間調節のために本丸の外を半周して木橋から本丸に入る。木橋がかかるV字型の堀はおそらく空堀だったのだろう。守るときは木橋を落とすと書いてあった。しだれ桜が目立つ。果樹が多いのはいざというときの食料にするためとあった。
本丸の復元整備は安土桃山時代の遺構を基本に行われたという。土塁上に木柵が打ち込まれて本丸を守っている。門の左右は板塀だ。本丸内の建物は皆木造だし、屋根も檜皮葺、板葺き、草葺きだ。18haほどのそう広くない本丸が、火攻めにあったらひとたまりもないと思った。300年攻め落とされなかったという歴史が不思議に思えた。
主殿中央に広間があり、正月十一日の儀式が実寸大人形で模式展示してある。家伝来の甲冑に身を固めた年男が領主前に座り杯をもらっている。どの部屋も板敷きだが、儀式の時には座席に畳が敷かれている。畳は貴重品だったのだろう。居並ぶ重臣たちの前には酒肴の膳がある。杯以外は漆塗りの椀が4品。料理の中身はよくわからなかった。服装は中世の絵巻物にあるとおりで、上級武士となるともうローカル色は薄まっていたのだろう。殿様雪隠には一回ごとにお供が後処理するとある。引き出し型になっているらしかった。
工房では職人が武具の補修管理に当たっていた。野鍛冶場では鉄鍋や銅銭を鋳つぶして鉄、銅のインゴットを作っていた。鍛冶工房にはフイゴと炉があり、鍛冶道具に炭、それから素材の鉄や銅が置かれてあった。金属材料は貴重品で注意深く再利用された。鉄の製品は金槌で鍛え、銅製品には鋳型が用いられた。釘も製造されたとある。
八戸市博物館に入る。「いざ出陣」というジオラマが展示されていた。合戦に備えて本丸に集結した武士160体を模型表示してあった。
縄文期の屋内を示すジオラマは囲炉裏にかかる大型土器を囲む家族(夫婦と息子1人)団欒風景で、秋田犬のような犬が横にいるのがご愛敬であった。戦国期の歴史が出ていた。三戸南部氏が小田原参陣で近世大名の地位を確保し、臣従していた根城南部氏は伊達藩との国境の警備のために遠野へ領地替えを命じられることになる。
八戸には根城のほかにもう一つの八戸城がある。根城南部家移転後40年ほどのちに、南部宗家10万石が盛岡藩8万石と八戸藩2万石に分かれた。今の八戸市の町割りは当時の面影を色濃く残すという。城は本丸と二の丸が主な土塁構造の城で、当時を忍べるほどの遺跡は現地には残っていないらしい。解説シートに「丁」は武家町、「町」は町人町を指したとあった。関東ではそんな区別はない。同じく解説シートの「昔のはきもの」に草履(ぞうり)と草鞋(わらじ)の区別がしてあった。私が少年の頃作ったのは草履で草鞋ではなかったと改めて確認した。
千石船(弁才船)の内部構造の絵解きが注目された。石は容積の単位だが、米にして1石は150kg程度。私は青森で復元船を見たことがある(「大人の休日倶楽部パス(東北スペシャル)」('12))。ただ公開日ではなかったので内部見学ができなかった。この絵解きには10人の乗組員が描かれていた。中央帆柱あたりに炊事係が1名いて、竈2基が備わっていた。長距離航海型であることが解る。NHK「海のシルクロード(6)」で見た中東インド航路の伝統木造船(ダウ船)は30mLX10mWぐらいでチーク材で造る('80年代のインドの造船所)。千石船は28mLx8mWx2.5mHほどという(「富山と岩瀬」('10))。木造船の大型化の限界がこのあたりなのであろう。
私が大切にしている民芸玩具に「駒」がある。昔々、東北のどこかの駅で買ったとしか覚えていない。博物館では、東北には産地の違う3種の駒があるとしてあった。展示の駒の写真と我が家のそれを比較して、たしかに我が家の駒が八戸の「八幡駒」だと確認した。かっては農閑期の副業で作られ、櫛引八幡宮の例大祭で売られていたとあった。
南部菱刺しは、時間の関係でパスしたのが残念であった。ユートリーには専門の店があって、魅力的な飾り付けがしてあった。
バスでの戻り道に八戸赤十字病院前の停留所があった。タクシーが1台客待ちしていた。予定の列車と昼食時間を考えるとそう余裕はなかったが、下車してタクシーに乗り換え、櫛引八幡宮を目指した。南部総鎮守一ノ宮。Wikipediaの解説によると、昔からの陸奥国一ノ宮ではなく、平成に入る前後あたりに観光戦略的に作られた櫛引八幡宮独自の造語だという。広大な境内に社殿が揃っている。複数の社殿が重文に指定されている。境内社も多い。
国宝館(有料)に入り、国宝のそろいの甲冑2点と重文の鎧、胴丸、兜、鰐口、太刀、舞楽面九面、擬宝珠を大急ぎで見学。鎌倉時代の国宝甲冑が40kg、南北朝時代のそれが30kg。これには唖然とした。たしかに江戸期でも一人前の労務者は米1俵60kgを担いだ。だが40kgの甲冑を身につけ、さらに刀槍を携えて戦場を駆けるなど、ひ弱になった現代人から見れば不可能の行動である。
待たせておいたタクシーで八戸工業高専正門に行く。私は高専の先生をしていた時期があるからだろう、何か高専の看板があると、そこに惹かれるのである。本当は学内を見学したかったが、時間がないので、来た証拠にと写真撮影して満足し、八戸駅に引き返した。
第4日は定点観光地にしている塩沢を目指した。5回目の訪問である。いつものランチの店では、以前通り、2人の「越後美人」が迎え入れてくれた。年に1度だのに顔を覚えられていた。この町は雪のある雁木風景が一番似合う。今回は六日町との中間の第六天神社まで散歩した。お2人への贈り物に、天神裏に群生していた青色で可憐な花のツユクサを採取。お宮前のキャラボクに赤い実がついていた。キャラボクは根城博物館前で見たイチイの変種だそうだ。浦佐経由で我が家に戻った。新幹線も上越線も空席が目立った。
毎晩空を見上げていた。薄雲があって満月は幾分おぼろに見えた。

('20/10/6)