耶律楚材(下)

先日NHKのBSPで見た映画「アラビアのロレンス」のハイライトの一つに、紅海最北端アカバのトルコ軍要塞を奇襲するシーンがある。そのときのアンソニー・クイーン演じるアウダ・アブ・タイが率いるハウェイタット族は、西欧文明にまだほとんど「毒」されていない、中世からの、部族が世界のすべてという砂漠遊牧民の行動だ。彼らのロレンスとハリト族アリへの協力は、犠牲に見合う以上の略奪が可能という判断が先に立っている。
ロレンスやアリの、オスマン・トルコ帝国の圧政から自由を奪回しアラブの独立を願う目的への協賛もあるが、アウダの言行には強くは出てこない。続く戦闘シーンでもこの奪略は、皆殺しを辞せずという前提で行われる。「耶律楚材(上)」で楚材はモンゴル帝国宰相相当の位まで出世するが、「騎馬狩猟民族の残虐な習性の方向修正を目指す。」、そうでなければ帝国は長続きしないと判断している。砂漠の民の生活をかけた、決して多くはない部族民を率いての、ほぼ必然性があるともいえるこの残忍性とは、こんなものと「アラビアのロレンス」が語っている。
国家滅亡の際の天子の運命は、敗戦(終戦)記念日を迎えたこの月の、天皇家のそのときと対比していろいろ思い巡らされる。
北宋は1126年に金に破れ、天子は北へ連行されたと本書は記す。Wikipediaを見る。「金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて北方へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。」と記されている。
西夏の国王は降伏後3日目に殺された。金は1234年に南宋軍に攻め滅ぼされた。皇帝は縊死して果てた。死ぬ前に譲位を受けた末帝は城内に突入してきたモンゴル−南宋軍と戦って戦死した。
古い話で恐縮だが、NHK大河ドラマ「獅子の時代」に鹿鳴館が出てくる。日本史で誰もが習う鹿鳴館時代の舞台だ。江戸東京博物館にはその大型模型が設置してある(「獅子の時代X」('12))。鹿鳴のいわれが本書に出てくる。古琴五曲の一つで、「詩経」に鹿鳴の篇があり、君主が臣を召して旨酒、佳肴をともに楽しむことをうたっているとある。さすがに著者は漢籍に詳しい。あとがきに楚材の文集や旅行記が今日に伝わっているとある。この地位だから、史書には業績が書かれている。伝記があるかどうかは知らないが、割と正確に行動とか思想がたどれる主人公であるしい。漢詩は折に触れ見事な和訳で記載されていて、主人公の感想思惟を旨くとらえている。
楚材は三権独立を目指す。今では三権分立とは立法、行政、司法の独立をさすが、モンゴル帝国では皇帝独裁下での、その配下の軍事、立法+行政、司法の三権独立である。彼の業績には軍事はほとんど含まれていない。チンギス・ハンの西征に同行したときも、第一線の指揮を執るようなことはなく、後方の後始末に携わっている。司法の最大問題は末子相続の慣習法と相続人の決定権がクリルタイ(部族長会議)にあるということだった。
チンギス・ハンは絶対の支配者であった。制覇した広大な領地の支配権を息子たちに分与したが、末子は行動をともにさせ、大喪を主催させた。チンギス・ハンは長男、次男の不和を心配して、三男オゴディを大ハンにと遺言する。臨終の遺言に楚材を同席させる。証人であった。クリルタイが決議してオゴディの即位が承認されるのに2年を要した。その間の臨時皇帝は末子である。末子は相続した父の遺領をオコディに捧げる。大帝国維持に実質が必要であるのと、次または次の次への布石であった。根回しに功のあった楚材は社の忠臣と評価され、宰相に任命される。
オゴディが死の床についたのは、楚材51歳の時である。クリルタイまでの摂政に皇后がたつ。彼女は末子系へ大ハンの位を回すつもりはなかった。支障のある人物は次々に死去しあるいは宮廷から遠ざけられる。4年後のクリルタイでは首尾よくオコディの息子が大ハンに就任するが、不摂生がたたって、結局末子系のチンギス・ハンの孫モンケとフビライの世の中になる。そのときすでに楚材はこの世を去っていた。
后の宗教観はおもしろい。末子の后は景教(ネストリウス派キリスト教)教徒であった。夫にも子息にもキリスト教を解き明かしてはいるが、その入信を勧めていない。クリルタイにおける皇帝推戴に差し障ると考えていた。カラコルムに建設された寺院は様々あり、モンゴル族の宗教に対する寛容さを示す。景教寺院もあった。最も多いのが仏教寺院であったらしい。オゴディの后も景教徒で、しかもブレーンには色目人系をそろえている。ローマ帝国などのヨーロッパ諸国あるいは中東諸国には見られぬ姿で非常に興味深い。モンゴル民族の信仰の元はアニミズム。一神教と多神教の差が出ているのだろう。日本の神道もアニミズムの流れだから、日本国民の宗教に対する包容力はモンゴル民族と通じるものがある。
楚材は宰相としての実権を握っていた頃の、国家の安定化を目指す税法(糸納科差法)は有名だという。モンゴルの徴税思想は、必要なときに随時徴収するという大まかなものだった。これでは民は不安定である。オゴディの皇族や功臣に領地を与えるという方法にも反対だった。中央集権でないといずれは分裂を起こす。この税法は基本税率として、糸を納めさせ、王侯諸侯は領地の代わりに金の糸の給付を受ける。「十路課税所」という税務署を平行して作った。楚材48歳頃とある。徴税権を取り上げられた漢人世候には抵抗するものもいた。税務担当役人の不足には儒臣の考試で対応した。科挙制度のはしりである。元王朝で本格的な科挙の制度が実施されるには、さらに80年を要したある。この考試は奴隷漢人の解放策でもあった。
色目人は経済官僚として頭角を現す。色目人とはペルシャ人とかソグド人とか、シルクロードと西征を通じてモンゴル人に縁の深い西域の人である。西域を往来する商人として元々彼らはモンゴル民族に近かった。国家運用費の徴税を請け負う「撲買」が、その搾取によって民の重荷になると反対した楚材は、イスラム商人出身の寵臣に引きずり下ろされる。楚材は東の宰相、彼は西の宰相となる。オゴディ晩年では、楚材が国政に発言する幕はほとんどなかった。
南宋は容易にはモンゴル帝国に征服されなかった。南宋は文人優先の国で武官がリーダーシップを発揮することが少ないのだが、このときは孟?という名将が出てきたのと、砂漠でない土地でなれぬ攻城戦を行うことは、必ずしもモンゴル軍優勢にはならなかった。そのため完全な征服はフビライが皇帝になってからの、40何年後のことになる。元寇の第2回弘安の役(1281年6月)には南宋征服後の江南軍10万と高麗軍4万の大船団で、博多湾に攻め寄せた。
元寇でのモンゴル側の失敗は、軍船が神風に弱かったほかに、得意の大騎馬兵団が編成できなかったことが一因にあげられる。1艘に馬5匹。ただ本書で金軍が城の防衛戦でモンゴル軍に対して使ったという「震天雷」という爆雷と「飛火槍」という発射火器が使われていることは注目に値する。沈船からの引き上げでその実態が明らかにされている。日本では「てつはう」と記録され殺傷力のある兵器だった。まだ利用に制限の多い兵器で、勝敗を決定づけるほどの力はなかったのは我々にとって幸いだった。BS1スペシャル「原子の力を解放せよ〜戦争に翻弄された核物理学者たち〜」で、日本の原爆開発の決定的な立ち後れを知った。兵器開発への常々の強い関心の必要性を改めて感じた。

('20/8/20)