耶律楚材(上)
- 陳舜臣:「耶律楚材 上、下」、集英社、'94を読む。上巻には「草原の夢」、下巻には「無絃の曲」という題が付いている。「「馬」が動かした日本史」('20)がきっかけになって、中東から北アジアにかけて活躍した遊牧騎馬民族に目を向けるようになった(「騎馬民族国家」(20)、「さまよえる湖」('20))。陳舜臣は著名な作家だが、まだ彼の作品を読んだことはなかった。神戸生まれで最終的には日本国籍を取得したヒトという。今回再放送中のNHK「シルクロード〜絲綢之路」(全12集)の日中共同取材班に同行し、納得の行く解説を挟んでくれた。
- Wikipediaによれば、耶律楚材は、モンゴル帝国皇帝チンギス・ハンと第2代オゴディに仕えた遼(契丹)出身の漢化した家系であった。モンゴル帝国の官制に中国流を持ち込み、帝国の安定に尽力したとされている。晩年にはイスラム系財務官僚層が台頭して、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らと対立した。楚材らは信任を失っていったとされる。彼の血統から見れば、彼は、この時代の公平で適切な証人と評価して良いようだ。私は、中国史関連文書に、彼がときおり顔を出すことを、朧気ながら覚えている。
- 耶律とは遼王室の血統であることを示す。遼は唐が滅んだときに独立、北宋時代には北中国の大同あたりまで進出。契丹民族は南西満州のシラムレン川あたりが本拠地であった。半農半牧で、モンゴル−ツングースの混血族とも云われている。だが耶律楚材が生まれたとき、遼はすでにツングース族系の農耕・漁労・牧畜・狩猟に従事する女真族(のち満州族と称す)の金に滅ぼされ、吸収されつつあった。金の本拠地はアムール川河畔から河口、更に沿海州にかけて広く分布していた。渤海もこの民族系であった。契丹人は金王朝に取り込まれ、宰相のような高い地位まで与えられる存在であった。耶律家では楚材の祖父あたりから金の重要官職に付いていた。中国文物の取り込みという意味では遼は金より先輩だったし、そもそも金の版図に対して女真族の人口は十分とは云えなかった。能力次第の採用は漢族ほかに対しても同様で門戸を開いていた。
- 女真族は遼を追って北中国に侵入し、金を建国、敵対する契丹人をサマルカンドあたりにまで追っ払ってしまう。契丹人はそこに西遼を建国した。楚材が元服するころの金の勢力版図は、西に西遼との間の西夏、東に遼の残存勢力、南に淮河あたりからの南宗、北の万里の長城を境にモンゴル民族があった。南宗との軍事バランスは金に有利に推移していたが、モンゴル族にチンギス・ハンが立つに及んで、金の立ち位置が危うくなり出す。
- 金王朝は、古来からの中国王朝の伝統手法に従って、モンゴル各部族を互いに反目させて金の優位性を保つ戦術を採り続ける。当時のモンゴルには3大部族(東にタタル、中央にケレイト、西にナイマン)が競い合っていた。中央の一支族に過ぎなかったチンギス・ハンが覇権を握り、彼が略奪戦利品の公正な分配をすると認められると、モンゴル系は言うに及ばすウィグルらの西方民族から漢族まで、配下に加わってくる。東方に呻吟していた契丹の民も、モンゴルを背景に金に奪われた旧地の回復を意図して、盛んに攻勢に出るようになった。
- 農耕地域、中小都市ではモンゴル軍にたいして連戦連敗になった金王朝は、ついに燕京(北京)を立ち退き副都の?京(開封)へ遷都する。チンギス・ハンは戦略的に燕京占領は肯定していなかった。あまりにも広大な城で10万程度の軍勢では囲みきれないし、モンゴル軍は野戦は得意でも攻城戦はまだ苦手だった。また一時的な略奪殺害ではなく、恒久的に絞れる「金の成る木」にする狙いを持っていた。
- しかし幕下の契丹人スタッフの強い願いに、配下の契丹人軍団に燕京の皆殺し(屠城)のない占領を条件に許可を出す。モンゴル軍の本営は出身の地ブルガン山麓・トラ川河畔より西南西800kmほどのカラコルムであった。今のモンゴルの首府ウランバートルはブルガン山との中間である。チンギス・ハンは25才ほど楚材より年上だから、60才に手が届きそうな年齢であったはずだ。
- チンギス・ハン直接指揮の7年に及ぶ征西では、各地で屠城が実行された。ペルシャ側の史書に「彼らは来た、破壊した、焼いた、殺した、奪った、そして去った。」と記録されれた。首府サマルカンド近くのホラズム防衛拠点ボハラの守将は、溶銀を耳に注がれるという残忍な処刑を受けた。チンギス・ハンは中東の外交手段戦闘作法には無理解だったし無視した。何よりもこれからの大遠征を受ける諸国への恫喝の意味が強かった。楚材はすでにチンギス・ハンの幕下にあった。29才になっていた。チンギス・ハンは無学文盲に近かったが、耳学問に長けていた。
- チンギス・ハンは宗教に寛容だった。モンゴル部族の伝来の宗教は素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズムとされているが、隣国の遼、金の影響で、仏教の浸透が早かったろうと思える。仏教はもちろん全真教(儒、仏、道の教義の良いとこ取りをした道教の一派とされている。既成道教が説く迷信的な現世利益を排除し、内面的な修錬を重視した。本書からは第3代教主の長春真人に対するチンギス・ハンの信任は厚かったことが偲ばれる。)、道教、回教(イスラム教)、景教(ネストリウス派キリスト教)にいたるまでの、それぞれの賢者が「おとぎ」衆に加わっていた。宗教ばかりか一芸に秀でておれば技能者や技術者の話にも耳を貸したとある。楚材とその周辺は、将来を見据えて、チンギス・ハンの騎馬狩猟民族の残虐な習性の方向修正を目指す。
- 事件の内容と共に年月が記載されている。この時代は塞外塞内勢力が抗争に明け暮れたから、歴史に空白が多いだろうと思ったが、きちんと整理されて史書が残っているのには驚かされる。一国が終焉を迎えるとそれを嗣いだ国が前代の歴史を書き残すシステムが、もうその頃には出来上がっていた。担当役所まで、胡の国においてすら当然のように備わっていたようだ。
- 歴史は後世への証文といった思想が、中国には深く根付いている。正史・後漢書が語る卑弥呼や邪馬台国を、日本古代史にとって唯一の纏まった文字資料として歴代の史学者が重視してきた。ロブ・ノール湖の位置をめぐる論争は、まずは正史記載事項から始まっている。そしてそれが正確であることも論証できている。中国文明は、この点では偉大である。だが新中国になって、歴史をねじ曲げて残そうとする姿勢が加わっているように思える事件が起こるのは残念だ。
- 敗戦(終戦)記念日の毎日の余録に、軍と官僚たちによる徹底した資料焼却の話を載せていた。憲兵隊司令部は、まさにトップの責任回避だけのために、歴史の検証を不可能にする操作を箇条書きで求めている。引用すると、「引き出しの奥にはりついた文書はないか。棚の奥に落ちたもの、焼却物の焼け残りや周囲への散乱、私物の本へはさんだものはないか……箇(か)条(じょう)書(が)きで点検を求め、なかには「机の動揺止めの為(ため)脚下等に挟みたるもの」まで挙げている」とある。直接的には再々話題に成る政官界の「記録を残さない」姿勢に対する警告だ。国民の歴史に対するそれこそ骨太の姿勢の確立が望まれる。
('20/8/15)