さまよえる湖

NHK BSPから「シルクロード〜絲綢之路」の再放送が行われている。40年ぶりで見る映像である。シルクロードには外国人を入れなかった新中国が、日中共同取材という形で初めて(ヘディン以来46年ぶり)門戸を開いたドキュメンタリーで、鮮烈な印象を残した。長編で月1集(50分)の割で全12集であった。再放送は第9集まで進んだ。TV放送と並行して本の出版も行われ、その何冊かは読んだ。砂また砂の紀行だった。
英米合作映画:「アラビアのロレンス」が、ときを同じくして放映された。物語はシルクロードと直接の関係はないが、砂漠の民の生活が活写されているという点で、行ったことも見たこともない砂漠の性質を身近に感じさせる名画だった。私の砂との直接のお付き合いは、鳥取砂丘(「冬の山陰観光旅行T」('15))ぐらいで砂漠とはまったく違う。少年時代に筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」('65〜)が世に出て、その中に「さまよえる湖」の話がたしか要約で入っていた。私の近くの湖といえば琵琶湖で、湖とは安定した存在と思っていたから、それが彷徨うとは驚きだった。
あらためて「井上靖、岡ア敬、NHK取材班:「シルクロード 絲綢之路 第三巻 幻の楼蘭・黒水城」、日本放送出版協会、'80」と「「スウェイン・ヘディン探検記9 さまよえる湖」、関楠生訳、白水社、'89」を読んでみることにした。井上靖の「楼蘭」の記憶も残っている。以下は上記のドキュメンタリー、映画、成書、旅行などをひっくるめた、砂(漠の水)に対する私の印象の記録である。
盗泉は死に値するのがロレンスのころ(1次大戦)のアラビアの掟であった。新中国以前のシルクロードもおそらくはそうだったのだろう。オアシスあるいは井戸の水は管理する部族が命がけで守る。映画には出て来なかったが、砂漠の民は山脈の雪解け水を集落まで延々と地下水道(カレーズ)で引いて利用する。「シルクロード〜絲綢之路(8)熱砂のオアシス トルファン」では水道の維持管理に当たる部族民の姿を写し、実際に地下30mの水道まで下りて、放出口まで歩いて確かめている。遺跡には遺跡近くになって開口の水路跡が見つかる場合があるが、乾燥砂漠地帯横断では、延々長距離を開口の運河で運ぶことは、水ロス甚大で実用的ではない。
ヘディンは第1回探検(1900年)で楼蘭が面していたはずの湖ロブ・ノーブルが失われて、遙か西南に移動している(カラ・コシュン湖&カラ・ブラン湖)ことを発見した。川が運ぶ堆積物と砂塵の移動で河床が動き、湖の位置が彷徨うものという仮説を出し、歴史的に1600年周期ではないかとした。楼蘭の記録は330年を最後に途絶える。そして34年後の探検のとき、予想通りにロブ・ノーブルが復活したことを確かめることが出来た。小規模ながら黒水城(カラホト)に近い湖ソゴ・ノールとかガジェン・ノールも彷徨った結果である。漢初の史籍にはずっと東に、カラホトが面する大きな湖・居延澤として記載されているという。
'80年の取材班は、中国側の軍用地図にも記載されているロブ・ノールが、またも姿を消したことを確認する。中国軍ヘリコプターはロブ・ノールに注ぐ孔雀河の乾いた河床を上流側へ向かう。水溜まりが発見され、おいおいそれが多くなってやがて連続した水流になる。周辺の動植物相は最近までロブ・ノールの近くまで河道が続いていたことを思わせた。衛星写真ではロブ・ノールの痕跡ははっきり読み取れるが、カラ・コシュン&カラ・ブランはただの砂漠の一部に過ぎない。ヘディンは何を間違えたか。
当時の地理学の重鎮・保柳博士の説が本に引用してある。天山山脈の積雪を源とするタリム河・孔雀河の流水量は時代ごとに変化する。氷河期、温暖期にタイムラグを入れて対応させれば、その変化は歴然としている。博士の作った海面変動と流水量の変動の経時変化図はそれを物語る。今は温暖化が進行中だ。水量はどんどん減少しつつある。ヘディンが考えた1600年間は水量豊かな時代であった。
居延澤は干上がっていたが、わずかに伏流水が水源になった昔の100分の1かの天ウ湖が残っている。ソゴ・ノールは20年前に比べるとグンと縮小しているという。浅い湖で、水深はせいぜい2mあまり。水源は祁連(キレン)山脈の雪解け水。解放後あちこちの河川にダムが造られ、上流のオアシスは灌漑農業が盛んとなった。しかし砂漠中央の湖はどこも干上がる一方のようだ。
タクラマカン砂漠のオアシス都市でも、類似の現実が今回の紀行で報道されている。崑崙(コンロン)山脈からのホータン河とホータンの町の関係がまさにその通りだった。トルファン盆地のアイディン湖の土手の中を歩く映像があった。一見干からびているが、足を踏み入れると泥が出てきてヒトを吸い込む。カラカラのロブ・ノール状態まではまだ時間がありそうだった。上流部での取水のために、黄河の河口に水が来ない映像はだいぶ以前に見た。それを克服するために、長江の水を北中国に運ぶ「南水北調」が、着々と進行している。昨年の北京市の水道水の7割は、長江の水であったと報道されている。中国は国土改造に懸命である。
明時代から海のシルクロードが開け、陸のシルクロードはおいおいと寂れてゆく。それでもヘディン探検隊はエチナあたりで1000頭単位のラクダの隊商としばしばすれ違っている。カラホトには隊商宿の遺跡が残っている。西夏がジンギスカンの軍隊に滅ぼされ廃墟となってからも、隊商ルートは繁栄を続け、ゴビ砂漠での中心は、西よりのエチナの町であったらしい。
黒水城の取材に同行した専門家は岡ア敬・九州大文学部教授。第三巻々末に「漢居延城と西夏カラホト古城〜エチナ旗の遺跡〜」という一文を載せておられる。歴史地理を俯瞰した解説で、映像だけでは解らない前後左右の関係を理解するのに役立った。なかに西夏王国解明に対する日本の貢献が記されている。戦前日本からは探検隊は出なかった。スタイン、ヘディンあるいはロシアのコズロフと云った探検隊が蒐集した遺物が戦後になって世に出て日本の研究がスタートした。中心は京都大。大きな研究チームで、岡ア先生もそのメンバーであった。西夏文字の一部解読に成功した西田龍雄先生が、文化功労者に選ばれたことは覚えている。漢字の作り方をもとにしてつくられたが、意味は漢字とは無関係という。西夏語はチベット=ビルマ語系とわかったのであった。
雑感を述べよう。今回のシルクロードの旅は仏教の後退、イスラム教の進出を見る旅でもあった。数多くの仏塔はただの土塊と化し、イスラム教は住民に根付いていた。遺跡では、トルファン近くのベゼクリク千仏洞の破壊は痛々しかった。イスラム教徒の破壊(仏像の首は飛び壁の仏の絵は目玉がくり抜かれている、イスラム教の進出は11世紀。)と20世紀のヨーロッパ各国(ドイツ、ロシア、英国、スウェーデン)探検隊の美術品蒐集により無残な状態になっていた。中華民国成立後、西域の外国人閉め出しが続いたのは、外国人の強引な持ち出しに、中国知識階級が猛反発したことが大きいという。オアシスでは漢人とも西方民族人とも区別が付かぬ顔立ちの人々が同じような衣装で出てくる。ラクダはフタコブラクダだが、「グレートネイチャー 10min.「シルクロードの灼熱炎(地中から50年噴き続ける天然ガス)〜トルクメニスタン」」ではヒトコブラクダが歩いていた。ラクダはまことに従順な動物だが、ときには暴走するそうだ。
「ヘディン探検記 さまよえる湖」は読み出してすぐ解説から読むべきだと気が付いた。遙か紀元前からの歴史、次ぎ次と訪れる各国の探検隊の報告、ヘディン自身の何回もの探検との照合など、よほどの予備知識がないと意味を取るのに苦労する。地名一つとってもヒトによって異なる場合がある。今日と厳密に対比しようなんて野心は抱かない方が無難だと思わせた。解説は長沢和俊・早稲田大教授(当時)である。
「さまよえる湖」は'33〜'35年の北西自動車遠征隊の記録三部作の一つで、35年ぶりに、自分の立てた仮説「ロブ・ノーブル湖は彷徨う」を実証できた興奮を中心に書いている。中国はナショナリズムの高揚で、前出のごとく外国探検隊に懐疑的になっていた時代であった。しかも現地には東干軍の反乱があり、それが北軍(ロシア人将軍魔下のロシア人、西域人、中国人などの混成軍で中華民国国軍ではないようだ。)と闘っていた。ウルムチ(トルファンの北西150km)で東干軍に監禁され、彼らが北軍に敗れてやっと解放されるという危ない橋を渡っている。
長沢先生の「さまよえる湖」に対する見解は、当時の中国史学界の見解を肯定したものだ。'21年に土豪がタリム河下流に大きなダムを造り、タリム河の流路が変更されクルク・ダリア(今回取材班の孔雀河のことらしい)に合流した。解放後、タリム大ダムの建設の結果、タリム河の流路が再び変わり、クルク・ダリアの水量が激減したためとする。人口激増による灌漑・開墾がここでも理由の一つになっている。コルラは漢代4900人だったのが、今では軍事工業都市化で20〜30万に膨れ上がっているそうだ。

('20/8/9)