虫とゴリラ
- 養老孟司、山極寿一:「虫とゴリラ」、毎日新聞出版、'20を読む。養老先生は解剖学者で趣味の「虫」学で著名、山極先生は霊長類学者で人類学者。「ゴリラで世界的に著名な」と紹介文にある京都大学長。お二人の看板からこの題名になったのだろうが、読み始めたらすぐ生物全般を話の種に自由奔放に人間哲学を語り合う本だと解る。
- 新型コロナ騒ぎで、アジア人と非アジア人との間には、感染性にも耐性にも有意差があることが解った。日本人でもアルコール耐性は夷・隼人の末裔と神武天皇の天孫族(「騎馬民族国家」('20))の末裔の間には明らかな格差がある(「県民性の日本地図」('02)、「日本人になった祖先たち」('07))。だからフォッサマグナを境に東西でニホンザルが遺伝的に離れているという話も、房総半島のサルは幼形的で小型という特徴があると云う話もすっと耳に入る。
- 民主主義になって万民平等となったが、それぞれの纏まりごとに何らかの特徴を持っている。先日NHKの「よみがえる新日本紀行「三つの鳥居〜鎌倉・若宮大路〜」」を見た。昭和47年の映像。そのころすでに鎌倉が観光地化しつつあって、鎌倉気質がやせ衰えて行くと言った話しぶりだった。まさか鎌倉人だけの遺伝子特性など無いだろうが、集団ごとの後天的特異性は自然と出来てくるものだ。
- 自然科学じゃなくて自然学をやろうと今西錦司先生は云ったとある。自然科学は数値化する、デジタル化する、法則性を明確にする、でも網に掛からず抜け落ちてしまうデータにならないもの、感覚的感情的なあるいは漢方の気と云ったもの、その他を加えてトータルで自然と付き合おうではないかという意味らしい。私には、災害時におけるGPSによる集団行動のビッグデータ解析などは、「気」をAI解析に参加させる補足手段としての意味が出かかっているように思える。本書には既製情報の運用としてのビッグデータが陥る欠陥を、アメリカみたいな奇妙な社会に導くとしている。「アメリカみたいな」とは何を指すか意味深長で面白い。
- 好奇心がヒトと類人猿を区別している。好奇心が人類の草原地帯へのアフリカ出立を促した。その裏に他人の運ぶ「食い物」への信頼があるという。食べ物が「情報化」して、経験のない草原の食べ物が今までの森の食べ物と同類と信頼された。その信頼が食品市場に行き付いている。他への信頼が団結社会を生み個としては弱いヒトが、動物社会に覇を唱える理由になった。情報社会が始まり言葉が生まれ交換の商売が行われる。言葉が意味を持つためには、聴覚は絶対音感から相対音感にかわらざるを得ない。どんなトーンでも中味が同じでなければならぬから。類人猿は知識を蓄積できない。時間的な行為のつながり「因果関係」がわかりだすと知識を蓄積するようになる。これが新しい創造の原動力になる。
- ネアンデルタール人は身体能力強健で言葉もあった。でも我らとの競争に勝てなかった。なぜかというのが私の長年の疑問だった。彼らは蓄積する文化、創造する文化まで進めなかった。「抽象化と脳容積」という項があって、ネアンデルタール人の大脳容積は1800ccほどだったのに、我らホモサピエンスは1200ccほどに縮まったことへの考察がある。感覚依存が強いと、脳は具体的な技術を覚え込まねばならないから、退化できない。ディープラーニングよろしく抽象化してメモリーを間引いて行くと、使わなくなった分だけ脳を小さくできる。脳活動の「外出し」に当たると書いてある。脳容積から見たネアンデルタール人の敗因である。私はExampleに棋士を考えた。将棋ソフトはディープラーニングのAIで次の最良の手を決める。将棋ソフトを使って良いなら、棋士の脳はだんだん隙間だらけになるだろう。昔から棋士は過去の5万とある棋譜を覚えて打っているのだから。
- NHKのワイルドライフ「アフリカ大草原 サバンナのオオカミ 知恵と絆で生きる」を見た。サバンナのオオカミは昔はハイエナの一種と考えられていたが、遺伝子からアメリカのオオカミと繋がりがあるという。それぞれが環境に順応して、アメリカでは大型にサバンナでは小型になった。それがライオンを頂点とする肉食動物の中で堂々と生活している。家族単位の生活で、子どもは授乳期が終わってからも、親が狩りから戻って吐き出す肉を食って成長を続ける。親と拮抗するほどの体格になると、親の生活圏から追い出される。
- 親から貰う食事の獲得競争は激しい。争奪戦に負けて成長が遅い子どもは、家族に留まることを許され、ヘルパーとして親の次の子育てに参加する役割を貰う。その中で成長し、親の食糧を奪い親の勢力圏に小便によるマーキングを始めると、親が同居を許さなくなり、独り立ちさせられる。小集団で生活を営む動物には、ほかにも、類似の育児システムを取るものがあると記憶する。ヘルパーも初めて聞く言葉ではなかった。人間のそれとの比較は教育期間の長さという点を除けば特異なものとは云えない。
- ヒトには他にない2つの教育期間がある。1つは離乳してから6才までの「食べられるもの」の教育、2つは「思春期スパート」と云って子を産み育てる事が出来るようになるまでの特別なモラトリアムの時代。動物でも「真似る」学習はするが、周囲が手を貸す教育はしない。今度のコロナ騒ぎで盛んにテレワークが推奨されている。私はそれではまともな仕事にならない場合がいくつも出てくると思う。本書では幼児の実物教育の大切さで説明してある。図鑑教育ではダメだと。成果追求は長い目で。日本が奇跡の復興で「日出づる国」ともて囃されたころ、日本の株主は欧米と異なり短期の成果を会社に求めないことが、早い成長に貢献しているという分析が為されていた。
- 女系家族型集団ハレムを作るる動物では、ボスの地位をめぐるオスの闘争はよく知られている。身近ではシカだ。ボス戦に破れたものや一般的に云えばハンデを背負った個体は、例外は報告されているが、まずその集団で生き続けられない。日本の場合、敗戦で、あっという間に高齢者や身障者をも抱え込んでいた大家族制度が崩壊した。今は高齢者の4割ほどが独り暮らしだそうだ。身障者は施設にしか行くところがない。
- 神奈川県相模原市の障害者施設で19人が刺殺された事件で、元職員の犯人は、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。事件があると預けた方は犯人に憎しみをぶちまけるが、その身障者は、家族からどれほどの待遇を受けていたのかと疑問を感じることもある。私は経験的に預けっぱなし状態の施設入居者が非常に多いことを知っている。ヒトは、メディアが口にするきれい事や正義感のほかに、動物本来の「生きる厳しさの感覚」も持っていることも事実だ。
- 「結界」とか「縁側」の裏にある日本の建築に対する考察は、樋口可南子主演の映画「阿弥陀堂だより」('02年公開)の老婆(北村谷栄)から流れ出る思想(本HPの「阿弥陀堂だより」('02)、「小説:阿弥陀堂だより」('19))にマッチして納得できるものだった。映画のロケ現場も見に行った。そこで見た阿弥陀堂は実はロケセットで使われたもので、撮影後そこに保存してあるものとあとで知った。
- 今回は一通り通読してから、印象に残った話題についてコメントを書いた。
- 養老先生には遠く及ばないが、私も虫(蝶)取りに夢中だった時期があった。しかし本書に対する興味や関心は何と云っても人間との距離で、虫の話よりかヒトに近いおサルの方の知見に引きずられたのは、養老先生には申し訳ないが、やむを得ない。フィリッピンに旅してメガネザルを見学(「フィリッピン民族の祭典」('19))した。しかしどう見ても下等で、その次にインドネシアで見たコモドドラゴン(「悠久のオリエンタルクルーズY」('18))と同じような関心度しか持てなかった。ニホンザルは類人猿ではないが、知能程度は高くて鏡の中の自分を自分と判断出来るそうである。これぐらいだと感情移入が出来る動物と認めることが出来る。あのメガネザルは私を見つめていても全くの無表情で、人との距離の長さを思い知らされた。山極先生がニホンザル以上に絞って話すのは当を得ていると思った。
('20/7/31)