騎馬民族国家T

江上波夫:「騎馬民族国家〜日本古代史へのアプローチ〜改版」、中公新書、'91を読む。日本国家と民族の起源を東北アジア騎馬民族の日本征服に求める江上説に、懐疑的な史家は多いが、"流石"に古代の馬に注目した「「馬」が動かした日本史」(「〃」('20))には、もっともな面があると好意的な紹介がしてあった。本書を読む気になった理由である。著者は'91年文化勲章受章の東大名誉教授。故人。
騎馬民族というと私の頭にはすぐ万里の長城が浮かぶ。何度もTV画面で万里の長城を見ているからだろう。映像の力はすごい。最近ではNHK【ザ・プレミアム】星の生まれる海へ〜中国・黄河源流への旅〜に出てきた。西夏の王城があった銀川あたりから黄河の源流を訪ねる旅番組だが、途中のところどころで万里の長城の遺跡が顔を覗かせる。西夏の民は基本的には遊牧民だったが、西夏文字を流布させるころはかなり文明化していたのであろう。
万里の長城は騎馬民族と農耕民族の境界線である。農耕民族は人口は常に遊牧民を凌いでいたのに、戦では不利だった。遊牧民は集散力と機動力それから騎馬戦力でいつも農耕民を悩ませた。遊牧民は基本的に人口疎らで、かつ、個々が独立した核家族単位の集合体だが、戦闘がもたらす略奪の利益が損害を上回ることが確実と知れると、たちまち大軍勢に膨れあがる。農耕民側は定位置に張り付いている。守る方は辛い。いつ襲うとも分からぬ相手を常に監視し、防御上の泣き所の補強に努めねばならぬ。馬匹の数を揃えるにもハンディがある。馬上訓練は遊牧民にとっては日常生活なのに、農耕民にはやっかいな重荷だ。専従兵士を抱えるとしても、重荷に変わりはない。映画:「七人の侍」の、野武士に襲われる村人のぼやきが全部当てはまる。
騎馬民族が農耕民族に対し戦いで優位に立てるようになった理由の1つは、轡の発明である。古代都市文明地帯の戦は歩兵戦術から戦車戦に移行した。しかし馬2匹が引く2輪車で闘うよりも、馬のコントロールができるなら騎兵の方が強い。轡を牧民が発明し騎馬民族に成長した。「ハンニバル戦記(中)」('03)にはハンニバル軍のヌミディア騎兵が強かったが、そのわけはカエサル軍にはない鐙の採用であったとする。騎兵の進歩は遊牧民側から来ることが多かったようだ。
日本古代史がお付き合い戴く騎馬民族は夫余、高句麗あたりからだが、万里の長城あたりで農耕民と闘った遊牧民系騎馬民族ではなく、半農半猟民系あるいは農主副猟民系の騎馬民族である。西夏の民もおそらくこの部類だっただろう。著者はアジアの地理的環境を4大別した。モンスーン地帯、西アジア乾燥地帯、内陸ユーラシア乾燥地帯、北方ユーラシア森林地帯だ。モンスーン地帯は農耕域だがその他は遊牧域である。遊牧域の生活様式は単純で意外と広範囲に類似性がある。日本古代史に残る騎馬民族的雰囲気を探るために、まずは各地の騎馬民族を勉強する。「騎馬民族とはなにか」という状況証拠の蒐集である。
スキタイは西洋史に出てくる騎馬民族である。ギリシャ史家ヘロドトスが紹介したスキタイに関する記述が、墳墓の発掘調査により信憑性が高いことが実証されている。彼が知ったスキタイは、黒海北部を東から西へ王族スキタイ、遊牧スキタイ、農業スキタイ、農耕スキタイに区別出来、王族と遊牧のスキタイが政治的・軍事的な中心で、農業と農耕の農民階級を隷属せしめていた。中心のスキタイは騎射の兵で、草原を漂白する「車の住人」であった。黒海北沿岸のギリシャ植民都市とは保護、略奪品の交易などで共存し、繁栄した。王は強い支配力を持ち、その墳丘からは数々の騎馬文化産品が出土している。妃妾や廷臣近習の殉死?遺体が数多く埋葬されている。副葬馬匹も100体単位で発見された場合がある。
匈奴は東洋史で華々しく活躍するが、内情は殆ど知らなかった。考古学的な検証はこれからのようだが、史書に詳しい。匈奴は最盛期は漢の高祖の時代(前202-195年)と重なる。漢も隆盛期で国勢拡大に意欲的な時期であったが、匈奴との正面衝突は努めて回避した。東は中国東北部から西は東トルキスタン(タクラマカン砂漠のタリム盆地)、北はバイカル湖辺、イェニセイ河上流域、南は長城地帯、オルドス方面に及ぶすべての民族を、冒頓(名:ボクトツ)単于(大王の位:ゼンウ)一代で築きあげた騎馬民族国家である。
最盛期で匈奴の人口30万、兵力6万騎。これに非匈奴種を入れると人口150万、動員力30万騎。農耕民族の漢(人口7〜8千万)に比していかにも少数であるが、スキタイ伝来の騎馬兵団は、戦車と歩兵の漢軍団より戦闘力に勝っていた。単于氏族とその姻族(貴種、名族)が政治・軍事を独占する。単于には神格が付与された。侵すべからずだ。近親者から24万騎が選ばれ、単于直轄領の左右に分地と云われた封建領的軍管遊牧区に配置された。万騎とは1万の兵を徴集し統率しうる王将の意だという。その下に1000、100、10を率いる隊長がいる。師団長の万騎以下に4階級あるといったところだ。彼らは世襲ではなかった。その他の氏・部族あるいは部族連合は臣従以前の形を維持している。そこは徳川家の藩幕体制に類似している。万騎のもとに統率され、兵の徴集を受けときには収奪される。
中央の政治は用事大臣の責務で、姻族がその任に当たった。政教分離はよく聞くが政軍分離はあまり聞かない。生産力の乏しい民族が栄えるには軍事力が頼りだ。中国との力のバランスが崩れる時が落日の日だ。漢の高祖を破ってから250年ほどを経て匈奴は南北に分裂、南匈奴は中国王朝に服従したが、服従しなかった北匈奴は更に半世紀後に中国との接触が出来ぬ西方にまで追いやられる。独立心が高い氏族の連合体が、四面楚歌の大陸の中でともかくも250年続いたことは、評価すべきなのであろう。匈奴の国会は氏族長会議で軍事行動、次期単于の決定などが決議される重要会議だった。単于の相続は男子子孫に限られた。一夫多妻制。后妃には単于決定に強い発言権があった。
突厥は6世紀中頃に成立した。我が国では大和政権の地盤が固まり、中国は南北朝時代後期に入っていた。突厥はアルタイ山脈山麓の北西から出たトルコ系騎馬遊牧民国家である。東西の突厥に分離してから隆盛期に入った。ソグド人と組んだシルクロードの交易事業はあったが、侵略奪略の遊牧民基本体質は変わらなかった。鉄生産が彼らを有利に展開させたと云われる。東は興安嶺、西はアラル海、北はイェニセイ川(バイカル湖が源流)上流域、南は長城に跨る広大な地域を勢力圏とした。西突厥は7世紀中頃、東突厥は一時の復興期があったが8世紀中頃滅んでいる。
周辺諸族との絶え間ない攻防、ことに中国の巧妙な離間介入と懐柔策あるいは武力交戦などが歴史を彩る。中国は略奪「馬賊」団に身を縮めているだけの、かっての農耕民族ではなくなっていた。突厥の消長は、国家が受け取る上がりの大小によって、烈しく移り変わっている。国家体制は匈奴のそれとよく似ている。神なる不可侵の阿史那氏からだけのカガン(天子)を戴く1国1王朝。我が国との対比で云うならば万世一系で皇室が阿史那氏だった。国の支配体制も似ている。遊牧民最初の文字・突厥文字(表音文字)を碑文や墓碑として残した。匈奴と違い、彼ら自身の発言が、中国の史書に信憑性を与えている。
北の墳墓は中国文化の影響を残すが、西の墳墓と豊富に出土した副葬品は、突厥の元来の社会制度や生活を物語る。葬礼や墓制は日本の古墳時代のそれと対比するべく詳しく述べられている。騎兵としての姿は、短い弩弓と鉄の鏃の矢(日本の古墳時代、奈良時代と同制の鳴鏑(かぶらや)もある)や、長槍、長剣に鉄製の甲冑というのが貴人クラスで、一般はもっと軽兵装であった。馬具に簡単な鉄製の輪鐙(匈奴の馬具には記載がなかった!騎兵戦力向上に大切)が轡とともに使われていいる。
興安嶺以西の匈奴や突厥は、中国に侵攻略奪はしても、移住とか征服王朝の樹立を意図したことはない。それに反して興安嶺以東の鮮卑と烏桓は、北シナへの領土的野心を持ち続けた。五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、長城南を含む領域を占領領有した。後日の満州族の清朝の先触れのような姿勢で、中国民族中国文化に臨んでいる。興安嶺の東の住民も遊牧民であるが、半定住性の牧主農副の民で、中国に注ぐ眼は純遊牧民族とは自ずと異なっていた。匈奴の退勢につけ込んでまず烏桓(総勢50万)が中国王朝の傭兵的功労で北シナに移住し、そのあとを鮮卑が勢力を張る。烏桓は魏の曹操に敗れ、以後勢力回復ができなかった。
現在の我々が親しく接することができる彼ら(鮮卑)の遺産は、北魏(386-534年)の雲崗石窟だ。彼らは民族伝承のシャーマニズムから仏教信仰に乗り換えている。早くから中国文化の取り込みに熱心だった。いずれもトップダウン。北魏が滅ぶのは王朝宮廷が中国人官吏の登用に熱心で、もともとの鮮卑民は中央からは遠ざけられ、国境線の守備兵職のような賤民になりさがる状態になり、しかも民族伝統の部族体制が解体される、中国式の政治体制となる、言語は中国語を強いられるなど急激な中国化政策の結果、鮮卑民が氾濫を起こし、洛陽の中央王族官僚を皆殺しにしたためという。
騎馬民族国家Uは「日本における征服王朝」を論じる。

('20/7/10)