新書太閤記 第四分冊
- 越前撤退の殿軍の役割を立派に果たした秀吉は満身創痍となってなんとか京都に帰り着いた。信長は急遽本拠地の岐阜に戻り、越前出兵を失敗させた妹婿・浅井長政討伐の兵を挙げる。信長の中央進出とそれに続く越前作戦の失敗は、全国群雄を自然と信長包囲網作戦に導いていた。秀吉は1千の部隊で、岐阜と小谷を結ぶ連絡網に脅威を与える、不破の関周辺の、浅井側700が守る支城の数々を取り除く作戦を難なく成功させる。最難関には半兵衛が妹・於ゆうを連れて説得工作に赴き、降伏させたのであった。
- 姉川合戦は、朝倉(1万余)浅井(8千)連合軍と織田(2.3万)徳川(6千)連合軍の野戦で、朝倉には横山城、浅井には本城の小谷城があった。家康が先鋒、秀吉は第四陣であった。靄がまだ晴れないころ、浅井の猛将・磯野丹波守が1.2から1.3千を率いて信長本陣をめがけて突進する。13段の11段までが突破され本陣が危うくなったとき、徳川軍が脇を突き、乱戦の中磯野丹波守が討ち取られ、信長は危機を脱する。浅井は小谷に引き、朝倉は50余町を後退。織田・徳川軍の勝利となった。横山城は秀吉が落とす。
- 第四分冊は浅井征伐を終え、秀吉は軍功に対し羽柴姓を貰い小谷城を与えられたが、守りの山城を嫌って湖畔の長浜に新に築城し、そこを本拠とするところまでである。
- 元に戻って、大勝した信長はすぐ岐阜に帰還、家康が三河に戻ったのを見届けてから上洛。京都は旧勢力の放つ流言蜚語や攪乱行動で平穏ではなかった。その後ろには信長を疎み始めた将軍義昭の影があった。近畿には叡山衆徒、一向宗(本願寺)門徒、三好残党、松永一派などが反信長勢として各地で連帯しつつ跋扈する。信長は将軍を擁する形で反勢力の一大中心地・石山本願寺(のちの大阪城)攻略に向かう。
- 石山本願寺側の戦力は強靱だった。姉川合戦のころから鉄砲が主兵器になってきたが、本願寺は財力と堺に近い地の利から新式鉄砲の数は信長軍を上回っていた。信長軍も光秀の献策で新式化に力を入れてはいた。それから僧兵の射撃照準に対する集中力が信長軍の苦戦を強いたとある。石山本願寺に呼応して叡山側には朝倉・浅井の軍勢が詰めかける。合わせて2万有余。信長軍は次ぎ次に部将を討ち取られて瓦解しかかっていた。京都守備隊の要は光秀であった。
- 信長が都へとって返す。そうと知った三井寺布陣の朝倉・浅井軍は叡山へ退く。包囲軍は動かず干乾し作戦に出る。山法師と兵士合わせて2万数千。たちまち山上に飢餓が訪れる。秀吉は自発的に横山城から参戦する。蜂須賀党出身者を使って放火を行い、堂衆の志気を挫く。信長は信玄西進開始の報を受け、将軍仲介の形で浅井・朝倉の軍勢を郷里へ帰還させる。真冬になっていた。明けて秀吉35才。病身の半兵衛が血を吐く。
- 信長は四面楚歌だった。彼はまず長嶋の門徒一揆から片付けようと大軍を発進させた。長嶋は尾張伊勢境。木曽川と長良川の河口が作る三角州が長島町である。この付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていた。一種の自治勢力であった。信長は北畠領平定は出来たが、この長島は支配していなかった。一揆は僧俗合わせて7万を数えた。
- 浅井は39万石で姉川合戦に動員した兵員は8千だった。長嶋の支配地は10万石、その割合だったら2千が常識的な数だから、一揆の集めた精神力の強さが解る。犠牲のわりに好転しない戦況に、信長は石山合戦の時のように、総退却を命じる。殿軍の柴田勝家は退路を追撃され重傷を受ける。もう一方の殿軍は指揮官を失う。損失は甚大だった。
- 今では秀吉配下の乱波・天蔵が信玄の征西上洛の決心を盗み聞く。乱波とは隠密で、スパイ活動はもちろん敵国攪乱のためにはあらゆる工作を担当する、のちに云う第三列である。彼の注進は信長の対叡山作戦の軍議の直後であった。信長には武田軍上洛までに難敵の一つを片付けられる天運が廻ってきた。軍議では、国家鎮護の霊域の伽藍の焼き討ちに諸将は猛反対で、代表として佐久間、武井、光秀の3將が死覚悟の諫言をしていた。秀吉は信長に問われて、我ら実行部隊隊長の罪とすればよいと云う。山上の大伽藍には次ぎ次に火がかけられ、8千の僧は皆殺しになった。光秀は志賀郡を貰い坂本城を根拠地とすることになる。作戦終了後、信長は平時の出で立ちで京都に向かう。叡山ほか反信長勢を煽っていた義昭は戦々恐々だったが、信長は敢えて面会もせずに岐阜に立ち帰る。
- 武田領は130万石、武田武士の武勇は鳴り響いてる。しかし信長の活躍には中央への立ち後れを感ぜずにおれなかった。既に信玄は齢50、年齢的な焦りもある。上杉との和睦は捗らなかったが、北条とは和議が整った。日頃、家康にはジャブを繰り返してきたが、上杉が雪に閉じ込められる季節を選んでついに本格的に立ち上がる。信長は叡山焼き討ちへの贖罪のように熱田神宮の修理に取り掛かる。このHPの「熱田神宮初詣」('12)に信長塀を記録している。桶狭間戦勝記念奉納とあるから、造塀はこの時よりは以前だったのかもしれないが、信長は一方では敬神の念が厚かった。
- 甲州勢3万に対し、徳川は1.4万。織田の援軍は3千。甲州勢は天竜川東の遠州から本城浜松を目指すように南下してきた。三方ヶ原の戦いにおける家康と徳川軍の勇戦振りには三河武士何十年の苦節忍耐が結実していた。甲州軍は1%強の損失だったが、徳川・織田連合軍は10%に近い損害を出していた。だが本城は抜かれなかった。家康は戦には敗れたが、武田の東進を阻むことが出来た。信長への重圧の一角は一時的にしろ取り去られた。
- 武田軍は浜松湖の北に駐軍し半月後その西の野田城を攻略する。織田―徳川の連絡線を断ち切るためだろう。そこで黒沢明映画「影武者」のハイライトとなる信玄鉄砲狙撃による暗殺事件が発生する。史実かどうかは解らない。しかしこれまでの武田勢の旗印にある「其疾如風」に背いて、僅か500で守る小城を力攻めにしなかった。信玄が重い病床にあったのは本当のようだ。その情報を掴んだ秀吉が信長に注進にやってくる。於ゆう連れだった。極秘事項の隠蔽工作でもあろうが、この頃から秀吉の房事が騒がしくなる。
- 信長は直ちに大軍を率いて、石山本願寺へ威示行軍を行い、最後は京都に向かう。威圧に負けた将軍は信長の17箇条の諫書に従うと承知した。それから100日も経たぬ日にまたも信長は上洛し二条の将軍館を取り囲む。諫言遵守はとうに反古にされていた。将軍は京都から追放され、これまでのつてを頼りながら西国へ放浪の旅を続けることになる。もう彼の反信長の煽動に、本心から乗るものはいなくなっていた。
- それから半月も経ぬ7月末に信長は北近江に向かう。越前の朝倉義景が3万の大軍を率いて田神山周辺に進出してきた。のちに勝家と秀吉が闘う賤ヶ岳の戦いの戦場付近だ。北国街道筋にあり長浜市木之本町である。私は北陸へ自動車旅行をしたときに立ち寄っている。古い街並み(本陣など)と地蔵堂で有名だが、朝倉勢進出の遺跡はなかったと思う。朝倉勢は信長軍の急迫に木っ端微塵となる。義景は本城一乗ヶ谷に追い詰められ自刃する。電光石火の陥滅。あっけない終末であった。理由に主将・義景の武将としての無気力と無能が挙げられている。最後までお公家さんの域を出なかった。姉川合戦での敗戦で越前勢は縮かんだままだったのかもしれない。
- 一乗ヶ谷遺跡には2回ほど足を運んだ。特殊な構造だ。山上に一乗ヶ谷城がある。これは本丸に相当する。谷は上流の上城戸と下流の下城戸という高い石垣に区切られ、その中に領主館、武家屋敷や職人商人の民家が並ぶ。寺院は城戸の内外に数多く存在したようだ。城戸内は、さしずめ平城であったら二の丸三の丸と城外の重要施設を、雑多に取り込んだような構成であった。山で囲まれているとはいえ、あまり守りやすき構造とは思えなかった。万を数える兵員が常駐できるはずはなく、兵員は常は在郷であったと思われる。近世の城ではなかった。庭園の遺跡が目に付いた。みやびた都風の生活を夢見て拵えたのであろう。佐倉の歴博の第2展示室は中世だが、一乗谷朝倉氏本館復元模型(16世紀)があって、破滅寸前の隆盛を極めたころの朝倉を偲ばせる。
- 8月の下旬にはもう信長は小谷城を包囲していた。虎御前山に築城。小谷城と虎御前山城間の中心距離は2kmはあろうが、城の最先端(小谷城出丸と高速道路縁)間は500mほど。浅井勢は舐められたものである。小谷城は佐々木六角氏の観音寺城によく似た山城で、地図の中にも多くの砦や曲輪、小城の遺跡が犇めいている。山頂の本丸に長政夫妻、稜線上の小丸に父・久政、中間の中丸に老臣という配置だった。石垣は秀吉ののちの長浜城築城に再利用されたのだろう、現地には特に低い位置のそれらは殆ど無くなっているようだ。秀吉は京極曲輪の老臣共を籠絡し無血?入城してしまう。地図には京極丸がある。京極丸と中丸は連絡していたようだ。浅井父子は分断された。
- 久政は自決、本丸にも最期が近づく。太閤記には多くの合戦の描写があるが、小谷城の攻略は筆者が力を入れて描いたものの一つだ。攻城戦の華々しさではなく、小義と総括されている浅井家の立場と大義の信長の対立関係と、信長が政略結婚で15才で嫁がせた妹・お市への肉親の情が軸となって、解くに解けない卍絵を何ページにも亘って記述する。信長はお市の良人・長政を見込みある武将と愛していた。長政夫妻は城内の反信長の空気の中で仲睦かしく、次ぎ次とついにお市が20を過ぎたころには4人の子宝に恵まれていた。お市は長政と運命を共にすると誓っている。
- お市とその子たちの救出交渉を秀吉が城へ使者に立って執り行う。最後はのぞき見した幼い嫡子・万寿丸を人質にとって長政と会見し、痺れを斬らした信長の総攻撃の中を無事救出する。火をかけられ落城寸前の、血走る将兵の中を、女子供を引き連れて落ちようとする描写など、さすがは大衆小説の巨匠と感服させる。信長の前でお市はただただ泣くばかりだった。それが信長の不興に繋がる。四囲に列強を控えいつ彼らからの戦闘が始まるかしれない中で、1日延ばしにお市を待った愛情が報われなかった感情が、信長を苛立たせた。
- 殊勲甲の秀吉は旧浅井領の半分強22万石を与えられ、ついに大名に出世する。彼は今浜(長浜)に築城する。これは彼の初めての居城である。洲股城や横山城は、信長にすれば武将の暫定的な駐屯地だった。洲股から呼び寄せられた母と妻・寧子は岐阜城に信長を訪ね、新城を目指す。信長は寧子の男(秀吉)を選んだ目の高さを評価し、於ゆうを頭に悋気を慎めと云う。当時の英傑が孫子の「兵法ノ極ハ、兵ヲシテ、歓デ死ナシムルニアリ」を臣の家庭にまで目配りすることで成し遂げている例に、寧子との会話を披瀝したようだ。
- 秀吉は家来の大勢を美々しく装わせて町外れまで出迎え、母の駕籠の前では平伏して迎えた。城下町の民衆は、領主が、民が渇望する平和の雰囲気のもとで豪勢に母と妻を迎え入れる姿勢に感じ入り、鉦太鼓に合わせて俗謡を歌い踊り狂って迎えた。秀吉治世が起源となったという長浜曳山祭りは今では日本三大山車祭りの一つに数えられ、重要無形文化財になっている。その出発点である。私は曳山博物館(「梅雨の近江路」('06)、「歴史のなかの鉄砲伝来」('06))へ見学に行ったことがある。曳山に掛けられた見送り幕のなかには、約400年前に織られたというベルギー製のゴブラン織(重文)などもある。これは祇園祭の山車山鉾の絨毯と同根で、その輸入ルートと保存状態損失状態などを追った番組(NHK?)を見た記憶がある。
('20/6/11)