新書太閤記 第三分冊
- NHK大河ドラマ「麒麟がくる」はあと3回で中断される。新型コロナウィルス大流行のために製作不能になった。5/17の第18回が「越前へ」だった。本日が「信長を暗殺せよ」。光秀は朝倉家に任官し、将軍家が越前に避難してくると、将軍に仕えるようになるはず。信長に光秀がお目見えするのはその先だから、はたして中断前最後の回までに、太閤記との次の接点が現れるか否や。
- 第三分冊の出だしは「春の客」。永禄5年正月、信長29才、藤吉郎27才、元康21才、斎藤義龍は先年死去、龍興が嗣いだが、暗愚との風評。清洲では久しぶりに平穏な正月行事が祝われた。前線から引き揚げてきたばかりの藤吉郎の人情味溢れる行動、信長の敬神祖霊礼拝勤皇姿勢などの描写がある。元康が150騎を従えて訪問してくる。土豪の蜂須賀小六ですら鉄砲鍛冶を抱えていたし、戦闘ではまだ主力兵器ではなかったにせよ、注目の新兵器で、道三―信長会談でも信長は精一杯の鉄砲隊を引き連れていたという世情だったのに、元康の行列には鉄砲隊の記載がない。元康は三河に帰還するやいなや、今川方の上ノ郷城を攻め落とす。三河にあって唯一今川に与していた城であった。藤吉郎には信長に対しあくまで対等な元康の姿勢が印象的であった。
- 終わりは「北征」。「春の客」から10年近く経った。信長(37才)と家康(29才)が相携えて悠々と花見と鷹狩りを催しつつ上洛。秀吉(35才)は大津で出迎え。将軍邸で北征(朝倉攻め)が決定される。北征の大義名分は、上洛催促の将軍令の無視、皇居造営不参加が御相伴衆として許し難いということだった。江州坂本に勢揃いした軍勢は、三河の軍勢8千を伴う10万と号した。藤吉郎は力攻めでは落ちない金ヶ崎の城を口説きで落とす。木目峠から朝倉のの金城湯池・越前平野を望めるところまで進軍した時、浅井の寝返りを知り、信長・家康は京都へ引き返す。
- 信長が真に恐れたのは本願寺門徒の本能的襲撃であった。本HPの「神々の明治維新」('16)や「近代天皇像の形成」('16)には、本願寺が明治政府の神道国教化にだって抵抗する姿勢を伝えている。信長時代でも本願寺は別格の強さを持つ宗教団体であったのだろう。藤吉郎が殿を引き受けて、血戦血戦を重ねようやく虎口を脱して都にたどり着く。光秀はかっては朝倉に仕えた負い目を背負い控えめに行動する。それが信長に好感を抱かせる。
- さて元に戻って「洲俣」。洲股とも墨俣とも。墨俣一夜城のお話である。佐久間が兵3千、人夫5千で築城に取り掛かったが、洪水と美濃兵の襲撃のため兵と資材を失うだけに終わる。続いて柴田。3番手は従兄弟の織田勘解由左衛門。従兄弟は敗走の中で戦死。地図で見ると洲俣はとんでもない築城不利の位置だ。藤吉郎が4番手に指名される。まだ足軽50人の小隊長だ。藤吉郎の秘策は、3~4千はいると思われる野武士を糾合して織田勢に組み込むことだった。蜂須賀小六との旧縁をたぐり始める。出発した藤吉郎勢は荷駄隊を入れても600名に満たなかった。
- 小六との会談は大所高所の国論から始まった。室町幕府の体制が形骸化し地域地域に有力大名が揃いだした時期だ。力の狭間で野武士が唯我独尊的に闊歩できる時代は過ぎようとしている。蜂須賀にとって千載一遇の機会を逃せば未来がない。斎藤家との腐れ縁も実質は信長の妨害で途切れがちだった。思案が纏まらない小六は中休みをとり、来訪中の東福寺僧・恵瓊(のちの安国寺恵瓊)の意見を聞く。恵瓊は明解に藤吉郎の将来性を打ち出す。織田方参加がきまり、藤吉郎は持参の貢ぎ物を披瀝する。その荷駄を引いてきたのは、小六が行状許し難しと追い求めていた甥・渡辺天蔵であった。
- 墨俣一夜城を現在の地図で捜すと、長良川に犀川がぶち当たる場所の西北角の洲にある。この小説では木曽川の上流から木材を筏で流し、川の東岸に築城したとある。当時は長良川と木曽川は一つだったのだろうか。いくら隠密裏にといっても、城一つ造るのだから、せいぜい進捗状況を誤魔化す程度だったろう。城裏でブロックを作るような工法だったらしい。稲葉城の方針は城を完成後に乗っ取り、美濃方の拠点とするというものだった。基礎土建が終わって3日で城が出現した。小六に応じて築城に参加したのが5-6千、攻め寄せた美濃勢と闘ったのは藤吉郎指揮下蜂須賀勢2千とある。戦闘は3度に及んだが、美濃勢は城を抜けなかった。信長は洲股城を藤吉郎の居城とし500貫を与えた。名のりの秀吉もこのときに与えている。小六は秀吉の後見になった。信長は小牧に城を移した。秀吉は500貫を美濃領からの切り取りにしたいと願い出る。
- 美濃衆は洲股に懲りていた。以後の守備は鉄壁で信長は2敗する。膠着状態を脱すべく秀吉の工作が始まる。まずは美濃軍最前線を任されている猛将・治郎左衛門を手なずけ、彼を介して更に稲葉を支える3名将を軍門に下らせた。次ぎに彼は若くして(29才、秀吉より1才上)隠棲している稲葉の軍師・竹中半兵衛に手を打つ。敵中を遠回りに潜行して関ヶ原に近い半兵衛の草庵に変装微行する。
- 斎藤家に随身していた頃の半兵衛の、諸葛孔明ばりの業績が紹介してある。周辺の諸大名は手を変え品を変えてそのヘッドハンティングに腐心したが、隠遁したままであった。病身でもあった。秀吉は何度も門前払いを喰い、やっと面談が叶った時も茶を一服馳走されただけで終わり、歯が立たなかった。諦めて帰国に出発するその朝、最後の懇請を同情心厚い妹に託す。返事は秀吉の臣としてならというものであった。秀吉の人たらしの才能は美濃工作において最大限に発揮された。
- 準備の整った織田軍1万が美濃を目指して火蓋を切った。戦闘準備の噂が美濃に伝わってくる。太平洋戦争では日本軍は米軍の暗号解読は出来なかったが、米軍の情報密度の統計的解析などで、相当に相手の行動を把握出来ていたと聞いたことがある。新型コロナ感染で俄にクローズアップされるようになったビッグデータ利用は、噂情報の蒐集と解析のより進んだ形である。稲葉城でも対策に取り掛かった。織田軍は洲股城を基地に、上洛路に立ちふさがる美濃の切り取りにかかった。だが龍興の命令に反し、秀吉に説得されていたかなめの4将が動かない、半兵衛も招集に応じない。組織的に見ると、信長は軍指揮権の集中に成功していたのに対し、美濃勢は中世以来の国衆の寄り合い所帯的軍隊であった。
- 織田軍の進撃は稲葉城下までは順調だった。だがここに来て戦いは一進一退になる。もともと名うての堅城であるのと鉄砲隊の整備が出来ていたためという。光秀が将来性を先取りして準備したのだとある。「麒麟がくる」にも光秀と鉄砲の話が何度も出てくる。秀吉が野武士の精鋭を連れて間道を進み搦め手奇襲に成功。さしもの難攻不落の城も龍興の降伏で終わる。稲葉城は岐阜城となる。秀吉は間道に迷った時に堀尾茂助に出会い、随身させ、道案内に立てる。秀吉の馬印は、茂助の樵夫小屋でその母から贈られた、水筒代わりの大瓢箪を攻城軍への合図に振り回したところから来ている。
- 半兵衛が家中の人となる。清洲から母(51才)、姉(30才、のち秀次付き家老となった三好吉房の妻となる)、義理の弟(小竹→小十郎24才、のちの秀長)、義理の妹(21才、のちの家康の正室)を洲股城に呼び寄せる。筑阿弥は既に死去していた。
- 越前に逃亡し潜伏していた光秀は朝倉の一向一揆対応に献策したのが縁で、朝倉家に奉公するようになったが、名家の中での彼の位置はいつも微妙で、出世の芽は出なかった。そこへ放浪の将軍足利義昭の臣・細川藤孝が訪れてくる。将軍は朝倉義景を頼って寄食していた。義景が義昭に肩入れして将軍の実権を取り戻すために働く気は更に見えなかった。光秀は藤孝に信長を推薦し自ら使者の役を買って出、朝倉家から逐電する。光秀は信長の信頼を勝ち取り3000貫で召し抱えられる。破格の待遇だった。ただ領地は旧明智領ではなかった。義昭主従は信長に国境まで出迎えられる。信長33才、光秀39才。織田はもう120万石の太守に成長し、近隣の大名とは婚姻政策で結びつきを強めようとしていた。隣交遠計としてある。遠計には京都の朝廷や中央政権が入っている。
- 翌年の永禄10年に、光秀は150名を率いて伊勢平定軍(主将:滝川一益)への援兵(支隊長:池田勝三郎)として参軍する。思い切った新参者抜擢だった。続いて秀吉も出征。彼の旗印はまだ瓢箪1個だった。最後に信長が5千を引き連れて出陣するが、軍功の第1は秀吉で、伊勢勢の要である高岡城を弁舌で開城させた。守将に北畠家の安泰を条件に、説き伏せた。第2は光秀で、諸国漫遊時代の知識から国衆の離反を画策した。伊勢を治める北畠や神戸の地盤が、もともと独立性の強い土豪や国衆の緩やかな団結で成り立っているところをついたのであった。秀吉、光秀はその後も軍功で並び立つ存在となり、やがて光秀は禄5千貫、500騎の侍大将に取り立てられた。
- 洲股城で母方の叔母の息子・虎之助(加藤清正)を小姓とする。遠縁の市松(福島正則)も既に小姓組にいた。譜代の家来など1人もいない秀吉は、中村郷あたりから縁を頼ってくる人々を次ぎ次に家臣団に加えていった。
- 上洛が決定される。信長は「武門の奉公は一に禁門の御守護にあり」と綸旨に応える宣言を全軍3万に伝える。家康も1000人を派遣した。行動は早かった。佐々木承禎、六角の守る観音寺城、箕作城をたちまちに陥落させた。私は観音寺城を2~3度見学した。観音寺城の本丸は今は観音正寺になっている。西国33所中の第32番の札所である。そのころの城にしては抜群の、堅固な全山石垣城郭と言えるほどの山城だ。石垣だけなら安土城に比べても劣らないと云えるほどだった。ただ配置を見ると、主君に権力が集中しているのではなくて、有力家臣団の集団指導型を示す城構造であった。簡単に落城をした理由もそこら辺にあるのだろう。観音寺城の本丸は焼け止まった。昔「第32回歴博フォーラム−天下統一と城−」を聞いたメモの中に、その本丸御殿は安土城に移設されたと書いてあった。
- 秀吉の計らいで降伏した日野城主・蒲生賢秀が嫡子と共に謁見に出る。嫡子はのちの蒲生氏郷。最後は豊臣の東の押さえとして会津若松あたりを支配した(「山形、郡山、会津若松、越後湯沢U」('09))。会津に近世を持ち込んだのは彼だとされている。100万石に近い大大名になっていた。逢坂山で勅使を迎える。信長は東福寺に陣を敷き、禁中、市内の警備を厳重に行った。禁令を破った兵士が処刑された時、市民は渇望した天下人が現れたと実感した。岐阜を発ってから21日であった。荒木村重の臣従を受け入れる。これも秀吉の計らいだった。
- 群雄にかすめ取られていた朝廷の御料地、将軍領地は返還させた。信長は恩命を固辞し続けたが、最後は微官を受ける。京都に秀吉と兵2千を残してサッと尾張に引き揚げる。義昭の本国寺が反信長の1万に包囲され、秀吉苦戦になった。荒木村重が尼崎から援軍に駆けつけこの事件は事なきを得た。都の争乱を聞くやいなや信長は軍勢を率いて上洛。殿上人から民衆に至るまで安堵の胸をなで下ろす。信長はすぐ二条城跡に将軍の居館を建造し始める。竣工の宴には細川藤孝の子が信長の小姓として舞を見せる。のちの忠興、光秀の三女ガラシャの良人だ。義昭が信長を父と呼んだのはそのころだった。続いて禁裏の修築。それぞれが賦課を担った。野次馬が信長の顔を見ようと、女装して覗いたとたん彼は斬り殺される。市井では恐ろしさの評判も立った。京都守護職に秀吉が任命される。
- 堺を阿波三好党(十河一族)が占拠し、軍事拠点化を進める。合戦を恐れて女子供家財などは既に田舎に疎開していた。堺の自治は千宗久(利休)を筆頭とする十人衆が握っていた。戦雲に対処する相談の会席に飾る茶花を求めに邸を出た宗久は、十河の兵士に拘束される。一時帰宅を許された宗久は、残りの十人衆に、一度は三好からの使嗾に乗って撥ね付けた、だが異心のない証拠に2万貫の賦課金を密かに信長のもとに船で送り出すように依頼する。公方家再興資金は堺以外にもまんべんに資金力に応じて賦課された。石山本願寺でも5千貫を割り当てられている。
- 宗久は危ないところを急襲してきた信長軍に助けられる。信長は、十人衆自慢の名器を買い取る。堺の町政、自治の制度などを、すべて改変して自分の手に収め、堺の代表者たちからは、謝罪文と誓紙とを入れさせて、なお、向後の町の公役には、その人々をそのまま命じた。秀吉は信長が大きな名器(宗久)を拾い残したと云って笑う。
('20/5/24)