新書太閤記 第一分冊
- 吉川英治:「新書太閤記 第一分冊」、青空文庫、2014を読む。
- 毎日が日曜日の身分な上に、新型コロナウィルス騒ぎでなお一層ヒマだ。でもいつもの本屋は閉店のままだし、5月に入って店を開いた本屋も三蜜ケアで、店頭で吟味するのは憚られる。図書館も当分は開くまい。丁度今NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三と高政(義龍)の親子が対峙している(「長良川の対決」)。この時代を描いた小説はたくさんあるが、吉川英治本が第1だ。だれの作品だったかは忘れたが、太閤記は年少のころに読んだ記憶がある。人たらしの太閤さんは、冷血英雄の信長や鳴くまで待とうの家康よりも私は好きだ。ともかく道三が敗死するまでを新書太閤記で追ってみようと思った。青空文庫はWebでフリーだ。気楽に読めるのがいい。
- 第一分冊中頃。蜂須賀党の30−40名が稲葉の城下町に潜んでいる場面。蜂須賀小六は道三の与力。彼は尾張と美濃の中間にあって年200貫を贈られている。合戦開始前に城下町に火を放ち、稲葉城の義龍を揺さぶる役目を引き受けている。日吉18才もその一人だ。日吉は矢矧川の渡し舟に野宿しているところを蜂須賀党の一団にたたき起こされ、その非を臆せずに詰ったのが契機となって、小六に拾われた。ただ野武士の土豪に手下として仕える決心はしていない。城下町をうろつく日吉を誰何したのが光秀であった。彼は不和な道三親子の仲直り工作に懸命であった。切れすぎる男として出ている。光秀は日吉の手引きで蜂須賀の乱波と渡り合うが、放火を止められなかった。日吉は蜂須賀党の正体が、頭領・小六の正義感道義感は認めてはいたものの、所詮土豪の野武士から抜けきっていないと見定め、身を引き放浪を再開する。
- 「生み落された嬰児は、母(30才)が貧しい物しか喰べていなかったので、五年樽の梅干みたいに、赤くて皺だらけだった。」とある。小兵の猿面は、彼の自我育成に大きく関わってくる。実父・木下弥右衛門(40才)は織田信秀の足軽だったが、戦傷で寝たきりの生活だった。母と姉(おつみ)の野良仕事が生活を支えていた。実父が日吉が7歳の時死んで、翌年同輩だった筑阿弥が婿入りしてくる。筑阿弥は家計の再建に懸命に働く。1年ほどの間に生活は楽になる。日吉の悪童ぶりが激しくなる。義父とはそりが合わない。日吉に対する折檻が度を過ぎるようになる。かばいきれない母は、日吉を寺の小僧に出す。
- 小僧生活は2年と持たなかった。近隣の悪の頭になって暴れ回りとうとう11歳で家に戻される。筑阿弥は貧乏の立て直しに飽きて、働く意欲をなくし、酒を喰らう日が続くようになっていた。母や姉わけても自分に辛く当たってくる義父を憎悪し、見守るだけしかできないが、気を配ってくれる母に親子の情をつのらせる。秀吉の母・大政所(お奈加)に対する孝養は史実だろう。信長、家康には産まれながらにしてサンバン(地盤、看板、鞄)があった。全くのゼロだった秀吉の唯一の心の支えは母だったのだろう。弟の小竹(のちの秀長)が生まれていた。日吉は望んで奉公を始めるが、どこも勤まらずすぐ我が家に戻される。
- 商家への奉公の最後は茶碗屋であった。日吉はここでも労を惜しまず生来の利発さを活用して懸命に働いた。野盗が押し入る寸前に気転を利かした日吉が、最小限の被害に留める事件が発生する。だが茶碗屋は日吉に塩2升を与えて暇を出す。並外れた才覚と小まめさが奉公人仲間の嫉妬を買っていたし、主人側も気味悪がりだしていた。実家に戻った日吉は奉公先を選ぶ大切さを痛感し、母は反対だったが、武家奉公を目指す決心を固める。母は、元服のまねごとをしてやり、おつみの嫁入りのために残してきた、なけなしの弥右衛門の遺産:一貫文を彼への餞別にする。当時の一貫文は今の15万円ほど。ときに日吉は16歳。欲しかった祖父伝来の脇差しは、もう義父の酒代となって消えていた。縫い針の行商人となって小田原、甲州、駿府から北越まで売り歩く。
- 蜂須賀小六の懸人の期間はそう長くはなかった。再び針売りになったが、浜松で松下嘉兵衛に拾われる。彼が日吉の異相に興味を持ったのが縁だった。秀吉が天下人となってから、彼を一城の主に迎えて恩返しとしたという話は知っている。本書には松下嘉兵衛は、遠州の地侍の、今川家から封を受ける駿河旗本で、禄高三千貫、頭陀山の砦を預かるとしている。日吉は18歳。主人と家族は彼の才覚を愛したが、面白くない周囲の軽輩は彼を誹謗して止まないようになった。家憲に「奉公人たる者は、朝夕武道怠るべからず」とあるのをいいことに、叩きのめそうと計る。主人は胴丸の鎧を1領買うという用事を言いつけて、邸から逃がしてやる。貰った金はそっと母の元に届けた。
- 日吉は旅の先々で聞いた信長の評判が気になって仕方がない。粗野で癇持なたわけ者びた若殿と評判は散々だ。父信秀は既にこの世にない。日吉なりに遍歴して見聞した諸国との比較では、枠にはまらぬ法外な姿が、世間が言う破綻の道であるとも傑出した英傑であるとも受け取れたのであろう。川岸の信長軍の軍事訓練を覗く。烈しく真剣に実戦さながらと見た。評価を高めた日吉は機会を待つ。
- 信長が手短に語られる。彼にはともかくもサンバンはあった。しかし織田は絶えず斎藤、今川からの外圧、攪乱工作に晒され、血族を芯とする内紛も絶えなかった。信長の代になって、もっとも有名なのが、重臣を巻き込んだ母と弟の家督相続に関する反旗である。名古屋には政秀寺が残っている。平手政秀は信秀が信長に付けた守り役で、忠義一途に勤めたが、信長の将来を思って諫死した。3人の息子への教訓でもあった。それを悼んで後年信長が彼の冥福のために建立した。
- 対斎藤外交は道三の娘との政略結婚(信長16歳)で新しい展開を見る。「麒麟がくる(14)聖徳寺の会見」では道三と信長の会見がある。本書もほぼ同じ筋の話を掲載している。尾張と美濃の国境の一向僧の坊主領の正徳寺が会見の場。正徳寺は春日井市で昔なら山地に入ろうとする風景の場所、聖徳寺なら一宮市富田で木曽川の畔で平地だ。聖徳寺あとには会見の場所という石碑が建っているという。岐阜城(稲葉城)に近いが、木曽川を背にしている。ドラマの映像の印象は正徳寺の方に近いと思った。信長のセリフに「飛騨川越えて、こよいの(信長の)宿舎まで退り」というのがあって、地図関係はむちゃくちゃである。飛騨川は遙か上流で木曽川に合流している。そこは美濃国で道三の勢力圏だ。日吉はまだ信長に仕えていない。
- 日吉は庄内川川辺の軍事教練から引き上げてくる信長に向かって「我が君」と連呼しながら突進する。はや突き殺されかけたとき、生命を賭して訴えた情熱が信長に届いた。下問に「特別の能はないが命を貼って働く」と答えたのが気に入ったようだ。御小人組の端に入れられ木下藤吉郎と名乗る。19歳。実家に戻り、母の喜びの涙を見、胸を熱くする。
- 草履取りの藤吉郎の奉公ぶりは目覚ましかった。台所役人に引き上げられる。お城勤めの中では疎まれる役柄だ。後世のそろばん侍の話はドラマや映画になった。 磯田道史:「武士の家計簿−「加賀藩御算用者」の幕末維新−」(本HP:「武士の家計簿」('03))は映画にもなった。平時でも地味な裏方役である。例によって仲間は目の仇にしたが、臆せずに成果をあげて、炭薪奉行に任じられた。彼の活躍はそろばん侍よりはずっと幅が広く、お城から領民全体に及び、改善策が信長に提議される。検地で納入業者はごまかしが利かない相手と悟るようになる。
- 藤吉郎21歳は台所方から厩方に出世する。知行30貫で邸も貰う。清洲名物の米饅頭を母に贈る手続きをする。母の好物だが、買うゼニもなく店前を素通りしたお店奉公時代の記憶が頭を過ぎり涙する。そこへ弓之衆の浅野又右衛門長勝が娘を連れて現れる。娘の名は寧子(ねね)。17−8の小柄な麗人だった。藤吉郎は以前から目を付けていて、手紙や贈り物を欠かさなかった。贈り物には京染だの、堺織の錦など身分不相応の高価な品々を、断られても断られても折り目の日を選んでは届けていた。実家の姉にも忘れていなかった。
('20/5/12)