量子コンピュータ
- 竹内繁樹:「量子コンピュータ〜超並列計算のからくり〜」、講談社Blue Backs、'05を読む。ほかに手頃な本がないからだろうか、今年に入って第12刷になった。これだけホットな話題に新しい理系向け教養書がここ何年も出ないとは。Webで調べても、一般向け解説書と専門書の中間に当たる書籍の出版がないとある。本書を買った理由の一つは、毎日新聞の記事であった。量子コンピュータに関する特許出願数は、日本が'05年ではトップだったが、今では米国、中国に抜かれて第3位に下がっている。カナダのD-Wave社が'11年に商用の量子コンピュータを売り出した。量子コンピュータでこのHPを検索すると、少子化対策を論じた「人工子宮」('06)で、初めて触れていると知った。関心だけは人並みに長い。
- 電子計算機は電子の粒子性を使う。量子コンピュータは量子、例えば光子、の粒子性と波動性の両方を用いる。波には振動方向と位相がある。振動に方向性があることは偏光実験で解る。位相は干渉で作られる縞模様がいい証拠だ。第3章「量子の不思議」までは確率波、重ね合わせ状態、不確定性原理などを解説する。高校から大学の理系教養あたりまでの物理ではなかろうか。私にはもう60数年以前に学んだ話。とっくに忘れていたが、昨年の白内障手術の機会にぺらぺらと読み直した(「白内障」('19))。昔から気にしていた問題点にさらりと触れてある。完全反射鏡では位相は反転し、半透鏡での反射は1/4波長遅れる。マクスウェルの電磁気学を使えば証明できるそうだ。
- 第4章「「量子」を使った計算機」は従来の電子計算機と量子コンピュータの基本的な相違点を説明する。電子も量子だから、正確には粒子性利用コンピュータと(粒子性+波動性)利用コンピュータの原理比較である。粒子性だけだとあるかないかの2通りだが、重ね合わせ状態を区別出来る量子だとたちまち情報豊富になる。地球に喩えると、前者は北極と南極だけだが、後者は地球表面のあらゆる場所に可能性がある。それは緯度と経度で指定できるはず。緯度は、重ね合わせの結果北極と南極の出現する確率と結びついている。経度は位相を示す。
- 量子コンピュータの構成要素は電子計算機と同じだ。メモリにレジスタと処理装置。量子ビットが2つ並んだ量子メモリだと4つの重ね合わせ状態、3つの量子ビットだと8つの状態、100個だと2の100乗の状態が可能で、その性質の利用で大規模な並列計算を一度に行える。
- キモは勿論処理装置で、量子ゲートが作る量子論理回路が計算する。量子ゲートには回転ゲートと制御ノットゲートがある。回転ゲートは量子ビットに回転を与える。y軸(赤道面)で180度回転すれば古典ゲートの「ノットゲート」相当になる。多く使われるのが、アダマールゲートと特に名付けられている45度軸回りの180度回転である。重ね合わせ状態を出現させたり取り消したりするゲートである。制御ノットゲートは、制御ビットがオンのときだけ信号ビットを反転させる。双方の作用結果はエンタングル状態になって、もはや2つの量子ビットの状態を切り離して考えることができない。このもつれ合いは、量子情報通信の「量子暗号」で非常に重要な概念である。
- 量子コンピュータにC言語のようなプログラミング言語はまだ無い。特徴的な問題を解くアルゴリズムがいくつか発表されているという段階だ。
- その一つ、ドイチェ−ジョサの問題は、未知のピット列(ブラックボックス)を試して、均一([00・・・00]または[11・・・11])か等分([]内で0と1が同じ数)か(2種しか入っていない)のどちらであるかを判断する論理回路の設計である。頭の体操問題で実用性はなさそうだ。重ね合わせの状態数がビット列と同じになるように、アドレスビット数を取る。アドレスビットにアダルマーゲートを、レジストビットには制御位相シフトゲートを用意する。重ね合わせが起こって観測アドレスビットには答が入る。誤解されやすいが確率的な答ではなく100%正確な答えだ。未知ビット列が2のN乗だったとする。電子計算機だったら最大で(2の(N-1)乗-1)回の試行が必要だが、量子コンピュータでは(2N+3)回のステップ数ですむ。Nが少し大きくなるだけで、両者は雲泥の差になる。
- 次の例はデータベース検索のアルゴリズム(グローバーのアルゴリズム)である。量子回路は、量子ビットの次ぎにアダマールゲートが入り、量子データベース回路を通る。量子データベース回路の次には折り返し量子回路がある。「隠された番号」に対応する確率振幅だけを増大させる装置である。前例と異なり観測値は確率事象で、正解確率の高いアドレスビット列にだんだんと追い込んで行く。だいたいNの平方根回程度この操作を繰り返すとほぼ正解になる。量子データベース回路では、「隠された番号」に相当する入力各アドレスビット列の時だけ、アドレスビット列の位相が反転する。観測値が「正解」かどうかは、観測値をもう一度量子データベース回路に戻し、位相がマイナスになって出てくるかどうかで確かめられる。
- 最後の例はショアのアルゴリズム。世の中には以上3つのアルゴリズムしか発表されてない。さてショアのそれは因数分解を対象とする。公開鍵暗号は公開鍵と秘密鍵(プライベート鍵)を使う、因数分解の困難性に着眼した暗号である(「暗号技術入門」('17))。因数分解の方法としは数学的にはユークリッドの互除法があるが、桁数が大きいと、膨大な計算になって、現実には「スーパーコンユータでも解けない」ことを利用する。逆に超々高速の量子コンピュータが実用化されたら解けてしまって、秘密鍵は丸裸になる。
- ユークリッドの互除法の手順の解説がある。x^r mod N(N:因数分解したい数 x:任意数(<N) r:偶数 modはあまりの演算子)=1が成立するxとrをtrial and errorで求める。するとx^(r/2)+1とx^(r/2)-1とNは最大公約数zを必ず持つ。zが求めたかったNの因数である。r vs.(あまり)をプロットすると周期性のあるスペクトルが得られる。そのような波の解析にはフーリエ変換が数学的取り扱いに有用だ。赤外線や質量あるいは核磁気共鳴の機器分析では、30-40年ほど以前からのお馴染みである。
- フーリエ変換により、解析したい波の周波数と振幅を知ることができる。だが冪数が相手だ。少し大きな数字を扱うとなると実際の計算はお手上げ状態になる。ショアは量子コンピュータを用いれば、周期を高速で求めることができることを発見した。キモは量子コンピュータによる量子フーリエ変換である。変換回路を2量子の場合に対して数式を用いて説明し、そこからショアのアルゴリズムの流れを解説する。残念ながら私のレベルでは、その物理的イメージがなかなかつかめない。「粒子の量子状態」を座標に依らずに表わす方法として、ケットベクトル記号|A>が多用されているが、我らには馴染みが薄いから、本式にはそこから勉強せねばならぬ。この随筆は本書の要旨を書き残そうとするものだが、果たして正確にやれているかどうか。
- 光子は量子ビットとして使い易い。光学機器の開発が進んでいる。電子や原子では1個だけを精度良く検出するのが困難だが、光子にはその検出機器が既に存在する。光子の通過経路を量子ビットとする時は、半透鏡利用で回転ゲートを組み立てられる。光子の垂直水平偏光を量子ビットとする時は偏光板で回転ゲートが作れる。光子の制御ノットゲートは、次世代の超高速通信方式として開発中の光位相スイッチと類似していて、信号量子ビットの波長を制御量子ビットで半波長ずらせる工夫になる。著者らの研究が紹介されている。
- 電子、陽子、中性子、原子核にはスピンがあり量子ビットになり得る。分析機器のESRは電子スピン共鳴を計っている、NMRは核スピン=磁気モーメントの共鳴を求めている。MRIも同じく核磁気共鳴を求める。そんなスピン対象の道具を量子コンピュータに活用する研究が進んでいる。分子の中の近接し合う原子の核スピンのゼーマンエネルギーは、双方の方向が同じか反対で微妙に異なる。この相互作用はデカップリング操作で切ることが出来る。だから一方のスピンを信号ビット、他方のスピンを制御ビットにとり、制御ノットゲートとなし得る。
- 量子コンピュータの実用化には小型化が欠かせない。長足の進歩を遂げたLSIの材料シリコンによる量子コンピュータ研究が進んでいる。核スピンを持たないシリコン同位体だけの基板に、上向きと下向きの2通りだけのスピンを持つリン31なる同位体をドーピングして用いる。スピンの方向を量子ビットに使う点では上段のNMR方式に類似している。スピンの重ね合わせ緩和時間が10日間もあるという大きなメリットを持っている。
- NMRと同じく磁場においたシリコンチップに、スピン方向によるエネルギー差に対応する共鳴周波数の電磁波を照射する。リン原子1個につき1つの電極がついていて回転ゲート操作ができる。原子の間隔は~20nmほどだが、リン原子に局在する電子は、数10nmに広がって局在するので、隣接原子間ではこの電子を介在とする相互作用がある。中間点に別の電極を置き負電圧をかけると、相互作用を遮断できる。2種の電極で回転ゲートと制御ノットの操作が可能になる。非常に魅力的な話だが実験的にはまだ成功例がないそうだ。同じ固体量子ビットでも、NECの超伝導量子ビットは回転ゲート実験に成功している。
- 量子コンピュータの実用化に対する最大の問題は、量子ビットの生命である重ね合わせ状態が計算時間中に破壊される(デコヒーレンス)ことだ。計算時間はある程度推算可能だ。それに対して一般にはまだまだコヒーレント時間は短い。この緩和が起こると、量子は古典的な世界に戻ってしまう。緩和を利用する分析機器もある。パルスNMRは緩和時間の差から資料全体の性質を知る。
- 通常ビットの通信回路のエラー(緩和も含む)検出と補正に「誤り訂正符号」の方法が使われる。[0]を[000]、[1]を[111]と3倍のビット数で送れば、中間は全部ビット反転エラーの結果だからすぐ訂正できる。「量子誤り訂正符号」のアウトラインが紹介してある。エラー検出と補正に持って行くしくみは簡単でないとして説明が省かれている。
- 量子暗号は執筆時点の15年前に既に実用化段階に入っていたという。これは使い捨て暗号(バーナム暗号)である。光通信で乱数を使って量子暗号化した文をやり取りする。そのキモは量子の不確定性だ。光子の垂直と水平の偏光方法と光子の+45度と-45度の偏光方法をランダムに並べた列に、不規則発生の光子ビットを順に1個づつ置き発信する。受信者は偏光方法未知のまま任意の偏光方法にかけてビット列を作る。そして偏光方法の列は受信者から送信者への連絡(これは光通信でなくても良い、衛星通信の漫画が描かれている)で送信者に解り、送信者は双方一致の位置を受信者に知らせる。一致した偏光が共有乱数になる。以後はこの乱数を秘密鍵のビット列として、光通信するのである。秘密鍵は送信文と同じ長さのビット列である。
- 盗聴者は盗聴しても盗聴がばれないようにするために、光子を再生してケーブルに送り込まなければならぬ。だが不確定性原理で送信された光子の偏光状態については解らないから、正規の受信者には偽装がすぐばれる。秘密鍵のビット列が知られない限り、量子暗号は絶対安全な暗号通信になる。すなわち送信者、受信者と(衛星)中継基地ががっちり秘密を守れば、盗聴されてもたちまち盗聴に気付くように仕上がる。
('20/4/25)