海の地政学T
- 竹田いさみ:「海の地政学〜覇権をめぐる400年史〜」、中公新書、'19を読む。近年の、これまでの海の秩序にたいし否定的に行動する中国をどう見るか。巧妙に作られて行く国際ルールの、本当の意味はこんなもんだと理解できるように書かれているだろう。我が国は、世界覇権に関しては、2次大戦の時の挑戦者として顔を出すだけだから、ちょっと寂しい思いをせねばならないだろうとは想像がつく。戦前に海に雄飛しようとしていた日本郵船、大阪商船などの姿が出てくるだろうか。
- 大航海時代からイギリスの覇権確立に至る世界史事情が、第1章「海を制した大英帝国」に記載されている。本HP:「イギリス近代史」('11)には、ほぼ同じ時期に対する別の著者によるレビューを紹介している。海賊行為を国家事業としていた貧しい国イギリスが、海洋自由論のオランダ漁船を退けるために、海洋領有権の概念を打ちだし、3度の英蘭戦争に勝ち、航海法で保護主義重商主義を現実に反映させて、貿易立国オランダをつぶす。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある当時の絵画には、オランダ貿易船の活躍を伝える作品が多いそうだ。国立西洋美術館では、生憎と新型コロナウィルス騒動で開幕が延期になってしまったが、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展が予定されている。
- イギリスの覇権は、航海法を支える海軍力と産業革命で確立した200年後(1849)には無用となり、海洋自由を国是とするようになる。その一方で密輸船排除のために領海3海里を打ち出す。自国では外国密輸船を排除し、外国ではできる限りの海洋自由を確保するぎりぎりの妥協距離が3海里であった。英国の国益に関わる変わり身の柔軟姿勢は、今や中国のよきお手本となっているとある。オランダの東インド会社の成功ぶりは、長崎の出島和蘭商館跡でじっくり見学した(「ミレニアムで行った長崎」('17))。インドネシアはその頃はこの会社の財産だった。それを真似たイギリスの東インド会社も世界に猛威をふるったが、自由貿易主義を取るようになってからはその独占体制が問題になり、解散させられる(1858)。
- 英国海洋覇権の基盤・世界貿易航路は要所要所の海軍基地に守られ、その基地の安全に陸軍駐屯地が睨みを利かす。帆船が蒸気船になってもこの構図は変化しなかった。しかし大陸諸国が軍事的に台頭し出すと「光栄ある孤立」を捨てる。日本海海戦の東郷艦隊勝利についての英国の日英同盟による貢献を書いてある。バルチック艦隊は無煙炭の購入が出来ず黒煙もうもうで航海した。早々と航路をキャッチされた一つの理由になっている。
- 海底ケーブルによる世界情報通信網が英国を中心として進行した。多くの情報がロンドンを経由する。情報の重要性に英国は早くから気付いていた。1次世界大戦における独外相の、米墨戦争敗戦による失地(カリフォルニアからテキサスに至る広大な旧領土)の回復をエサとする、メキシコの対米戦勧誘秘密電文が英国の機関により解読された事件が、米国参戦の一つの引き金になったことが載っている。
- 船名にクイーンを付けることを許されていることで有名なキュナード社はP&O社と共に、英国が世界の海運業を牛耳るためにバックアップを惜しまなかった会社だ。先述の日本郵船、大阪商船も、一切触れられていないが、これに習った支援を日本政府から受けていたのではないか。フランスのスエズ運河掘削とイギリスの並行する鉄道路線の海運対陸運の戦争は、私には耳新しい事実であった。勝負にならない陸運のイギリスは、財政困難のエジプト副王からまんまとスエズ運河の44%の株式を買い取ることに成功。スエズ運河防衛を理由にエジプトを事実支配にしたが、対独共同戦線という時流から国際運河の先例とした。
- 太平洋も大西洋もアメリカの捕鯨船によってほぼ全滅に近い状態にさせられた。当時の捕鯨事情について第2章「鯨が変えた海の覇権」が述べている。時計油(「バイオテクノロジーの教科書(下)V」('14))、機械油から灯火油にいたるまで、捕鯨が支えていた時代だった。覇権を達成したのはアメリカである。太平洋の覇権空白地帯が捕鯨業に好適な海域だった。ハワイ王国を滅亡させアメリカに吸収合併(1894)する歴史は、「ハワイの歴史と文化」('02)や「アメリカ先住民激減の歴史T」('16)に書いている。ハワイを訪問した時は、バーボン1本で農地を取り上げたとか無知につけ込んだあくどい話が伝わっていると聞いた。ハワイ王国時代から日本の出稼ぎ移民が入っており、日本が軍艦を派遣したこともあったという。海兵隊を背景とするクーデターでハワイ併合を急いだ理由の一つに、日本の影があったようだ。
- 時代を遡ってみよう。幕末の頃のペリー艦隊の開港強要は、それまでの海域でのクジラ資源が枯渇するにつれて、日本海附近が漁場として注目されだしたためである。ペリーに纏わる記念碑が関東だけでなく静岡や函館にも沖縄にもある。ただただアメリカ漁船の便宜のために、恐喝の砲艦外交で開港させた外国提督を、なぜこうも「うやうや」しく「顕彰」するのか、私は理解に苦しむ。下田のペリーロードなどもってのほかだ。「観光亡国論」('20)の最後に書いたB級C級観光地の典型である。
- ペリー艦隊はアメリカ東海岸から東回りで英国の補給基地を経由し、アジアでは各地のアメリカ「戦隊」から艦船を調達し、琉球王国を経て横須賀に来ている。琉球も琉米修好条約(1854)を結ばされる。合計5回もペリーは沖縄に来た。沖縄県立博物館や那覇市歴史博物館でその頃の水彩画やスケッチを見た覚えがある。我らが歴史書などで普通にお目に掛かる絵は、「ペリー横浜上陸図」(東京国立博物館蔵)だが、沖縄で見た上陸兵士などの絵は、当時の沖縄の暮らしも描かれている情報豊富な風景だ。ハワイ王朝も日本に頼ろうとしたことがある。表は日本対清国で処理されたが、沖縄が琉球処分(1872)を承託した裏には、アメリカの砲艦による併呑脅迫をかわすのに、まだしも気心の分かっている日本を、笠に選ぶという思惑もきっと働いていたに違いない。
- スペインの斜陽化に乗じて、アメリカはキューバ、プエルトリコ、グアム、フィリッピンを割譲させた。フィリッピンを訪問した時マニラのサンチャゴ要塞で、スペイン軍の戦意のなさを聞いた(「悠久のオリエンタルクルーズZ」('18))。米西戦争は米国の楽勝だった。ハワイは続いて一気呵成に併合した。「海洋パワー論」とそれを実行したセアドラ・ローズベルト大統領の時代である。大統領は大海軍主義を掲げた。
- 米西戦争で、太平洋艦隊と大西洋艦隊の有機的連合の必要性を痛感したアメリカは、国家事業としてパナマ運河開通を目指す。破産したレセップスを引き継いだアメリカは、コロンビア・ルートでの、今の閘門(こうもん)方式による開削を決心する。レセップスはスエズ運河の水平式を目指していた。機械力の備わる今日の工事としてでも、水平式はちょっと無謀に思える。
- コロンビアの干渉を防ぐために、パナマ独立運動を支援し、海兵隊を動員し、艦隊を並べて開削地へのコロンビア軍進出を許さなかった。ハワイ併合と同じ手法をパナマでも用いた。レセップス失敗の一因は熱帯病対策であったが、アメリカは住宅病院娯楽など当時としては万全周到の対策で臨んだ。作業員のリクルート応募率も定着率も高かったという。スペインのメキシコ銀山における先住民酷使の坑道とは違った風景だったようだ。それでも累計で6千名に近い死者を出した。内白人は350名だったとある。私は、住友別子銅山の鉱山町の跡を何回か見たが、大きな芝居小屋の跡は印象的だった。パナマの工事人夫の町は、あの何倍もの規模の体制だったのだろう。
('20/3/23)