平将門四
- 海音寺潮五郎:「平将門」、朝日新聞社、'75の第4巻(最終巻)を読む。今頃になって本HPに「風と雲と虹と」('12)があるのを思い出し、そこで引用しているやはり本HPの「摂関政治」('12)とも合わせて読んでみた。前者は同名のNHK大河ドラマ総集編の要約、後者は歴史学者の時代解説書の紹介である。小説「平将門」へのイントロとしてもそこそこに書けている。
- 平将門の乱の背景には、朝廷を笠にした中央の横暴に、民の憤懣が爆発寸前にまで来ていたこと、地方豪族が徐々に武力を蓄え、地方行政はそれとの協調なしには立ちゆかなくなってきたことが基底にある。しかし律令体制成立後400年になって、朝廷に対する畏れは住民の心底にしみ込んでいて、表向きの恭順姿勢が世渡りの常識になっていた。適切な火付け役の行動次第で全国規模の騒動が可能な状態だった。
- 火付け役となったのは西の藤原純友、東の平将門だが、裏方とプロモーター役を務めるのが興世王、藤原玄明と三宅ノ清忠である。前2者は「将門三」までに述べたように、将門に食い付いていて、板東の騒動の源になっている。後者は純友の配下にあり、純友の天下転覆理念の具体化を画策している。清忠は玄明と密に繋がっていて、彼に指図する立場にある。純友は上級貴族の家系だが、上揩フ列に加わることが出来ず、海賊退治の使命を帯びた伊予の守・紀淑人に従って伊予掾として下向し、そのまま土着、海賊となった。NHK BSプレミアム「ニッポンぶらり鉄道旅「“伊予の心づくし”を探す JR予讃線」」の宇和島紹介で、沖合いの日振島が純友海賊の本拠地だったと聞いた。瀬戸内海への出撃にはちょっと不便な場所を選んだ理由に興味を覚えた。
- 玄明は潮来あたりに落ち着き、盛んに周囲の他領を武力で蚕食し始める。国司が乗り出してくると、ついに租税の稲穂が封印してある不動倉を襲撃、保管国有財産を奪いさる。玄明の部隊は国司の追捕を避けるため、略奪物や自らの家財財宝を将門勢力圏に陸揚げしようとする。将門は叛逆罪を恐れず、良識派常識派の忠告を抑え、それを許す。「将門三」の終わりの方に出ていた玄明への義理を優先させた。このときも「ことあれかし」の興世王の弁舌が冴えた。常陸の大介・藤原惟幾は兵を募る。6千を号するが、大半は土民兵。彼は潜伏中の貞盛を捜し出し、軍事訓練を任せて彼らを鍛えに掛かる。
- 将門は躊躇しなかった。手勢1千と玄明の200で国府を目指す。惟幾は1千を貞盛に預けて伏兵とし、5千で立ち向かう。総勢7千余りの大会戦になった。しかし勝負は話にならなかった。たちまちのうちに国司勢が崩れ降伏。貞盛は正面が崩れると直ちに部隊を解散して遁走し行方をくらます。国司らは官の印鑑、倉庫の鍵を取り上げられ、碓氷峠から板東の外へ追い出された。将門は板東一円に叛逆軍への参加を呼びかける。玄明の兄・玄茂が兵500を引き連れて随従を乞うた。かれは豪族だが、常陸掾でれっきとした国司でもあった。
- 豪族が次ぎ次ぎと馳せ参じる。将門軍は10万を号するに至る。実際は上野で1.5万とある。下野国府(栃木市田村町)、上野国府(前橋市元総社町)では国司が無条件降伏の有様で無血入城だった。国司は家族共々京へ送り返された。将門軍首脳陣から選んだ新国司の除目が行われた。上野惣社の神憑った巫女のお告げで、将門は八幡大菩薩から「みかどの位」を授かる。興世王のやらせのようだ。彼は以後新皇を名乗る。惣社(総社)というのは、国司の~拝を効率化するため、管内の諸社を国府近くに合祀したもの。Webのコトバンクには、惣社の史料上の初見は,1098年としている。将門の乱より160年ほど後だ。ちょっと引っかかる。
- 板東北部の雄となっていた秀郷は微妙な立場になった。国司の要請にぐずぐず対応しながら、北下野の公領は抜け目なく占領している。兵6千と云うから無視できぬ勢力だ。国司降伏で、将門に郎党を多くの貢ぎ物とともに派遣してお祝いの態度を示すが、対面を避けている。面従はするが朝廷の出方を待っている。興世王は新皇の国家体制の具体化に着手した。興世王はことあるごとに旧勢力の打破を叫びながら、現実のプランとしては、自身は入れなかった旧勢力の位置に、自身を据えるに過ぎない構想しかもてなかった。王城モデルは京都で、将門の故郷・石井郷に建設すると決めた。国家制度も太政大臣以下の律令制度がそのまま移植されるようだった。将門軍には、自然発生的な感覚から一歩前を思惟する、経世哲学に長けた幕僚がいなかった。
- ほぼ同じ時期に純友の海賊は公然と跳梁を始めた。京に忍び込んだ清忠の一隊は暴れ回って京都を無警察状態にした。今の西宮と芦屋の中間の須岐駅あたりまで進出した。東西の火の手に、朝廷は公卿僉議(つまり全員会議)を持ち、参議・藤原忠文を征東(征夷とも書いている)大将軍に任じる。朝廷は、私兵500を入れても全部で2500と云う、京都の治安維持に最低限程度の軍備しか持たなかった。大将軍が京から率いることが出来たのは、下人を入れても40名足らずだったという。あとは各地で召集する豪族隊や百姓兵が、大将軍の軍隊になるはずというお粗末な計画だった。公卿衆は、朝廷の号令があればすべてが整うという空想を大真面目で信じていたようだ。大将軍一向は大津の宿で、清忠の奇襲を受けるが、忠文は度胸の据わった人物であった。
- 貞盛は秀郷を訪ね庇護と反将門挙兵を計るが、秀郷は将門伺候を決心する。貞盛はその土産になるはずだったが、彼は下女の計らいで難を逃れた。正式拝謁では失望した秀郷であったが、非公式会食で将門をあっぱれ誠実の勇士だが機略に乏しい、正直すぎて図太さがない、それに周囲に謀臣を欠くと判断する。将門は会談後すぐに自らが先頭になって貞盛探索勢を出発させる。たちまち従うもの3千。この時代は、太平記でもそうだったが、豪族は半独立武装集団で、その時の時流に応じて集散が極端に変わる。新皇の軍もその例外ではない。貞盛は虎口を逃れたが、その妻女は探索網にかかりさんざ弄ばれたのち、将門に引き渡される。将門は堅物ぶりを発揮して、懇ろな待遇ののち女どもを叔父の良正へ送り届ける。
- 常陸の大介・惟幾とその子・家憲が秀郷を訪れてくる。征東大将軍の下向前に手柄を立てねば将来がない。秀郷は板東に覇を唱えたい野望はあるが、臣従の身ゆえ仄めかして気を引くが迂闊に本心は披瀝しない。留めておけば国司は新皇への手土産にもなる。大将軍下向で将門には逆風が吹き始めている。不即不離がいちばん。秀郷は二枚腰三枚腰のしたたか者であった。将門の2番目の弟・将平が陸奥へ出奔する。将門の新皇即位に反対であった。
- 将門は兵士を帰郷させる。農繁期を思い計ったためという。将門周辺の手勢は3−400ほどになっている。秀郷は機は熟したと俊敏に働く。3千は召集できる。貞盛を捜し出し打倒将門を誘う。落ちぶれてはいるが板東平氏一門の一方の頭領だ。弟は健在だし旧領からの応募もあろう。彼は兵800を集めた。惟幾・家憲親子は500。秀郷は実質の総指揮官として行動する。まずは全軍の軍事訓練。鉦や太鼓で各部隊が連携行動できるようにする。ここら辺は創作だろうが、作者は近代戦の戦術を頭に置いているのだろう。今までに出てきた戦闘は、大将が自ら突貫し、その武勇に誘われて、郎党以下が突撃する素朴な形式だった。
- 将門は秀郷挙兵に直ちに反応した。兵の集合を待たず、とりあえずの1千で十分と判断した。過去の将門は「寡をもって衆を制す」戦闘の連続だったから、自然な判断だが、寡兵で突撃するのは秀郷の立場で、新皇(帝)の位に上った以上は、将門は一度や二度の負け戦があっても立ち直れる懐の深い戦法で応じるべきであった。数日あれば3千、日数を掛ければ8千の兵は集まるとあるのだ。
- 将門軍の先鋒250+250が秀郷軍の軍略の罠に掛かり大敗する。先鋒隊の将軍が過去の戦功から相手を舐めてかかり、将門の到着を待たず、一番手柄の功名に走った。第2陣中軍の250へ先鋒の生き残り200が逃げ込むが、秀郷軍の怒濤の進撃を支えきれず敗退。合わせて僅か50が本軍にたどり着く。将門暗転の始まりとなる。本軍は将門の250に弟・将頼の300の550騎に過ぎなかった。将頼は徴兵に出発、将門は後退し、今の茨城県八千代町水口に布陣する。現在もあちこちに旧河川の名残のような湖沼が存在する地域だ。ここは鬼怒川が氾濫を繰り返す地方で、昔はもっと多くの広い湖沼があったという。だから自然の要害地で、寡兵で守るには適した位置だった。
- 秀郷勢は疾風迅雷だった。将門は既に伝説的武将だった。彼が招集を掛けた兵が集まるまでに勝たねば、敗れてしまう。正面衝突で300騎ほどとなった将門軍は、もっとも弱い家憲軍に突撃し、蹴散らし、戦場より10kmほど南の本拠地・石井(坂東市)に退却。そのときは150騎になっていた。石井から家族を妻の実家・下総平氏の公雅(弟)のもとへ避難させる。次ぎ次の敗報のためか兵は集まらない。かっては万を越したことがあるのに、せいぜい250だった。何度も言うが、豪族の自主性自律性の高さが解る。4千の秀郷勢に対し将門勢は総勢400であった。
- 石井の北・駒跳あたりが決戦場になった。今は住宅と農地が混ざる坂東市の田園地帯だが、当時はまだ荒れ野となだらかな丘陵が続く原野であったろう。順風を天佑と思い将門軍が突っ込む。逆風で矢合わせには不利だったが、かまわず秀郷軍は前進する。突出を避けながら、軍鼓を響かせ、隊列を整えながら迎え撃つ。突き崩されそうになりながらも戦陣を維持し得たのは、秀郷の指揮の才のたまものだった。でも敗色濃厚になって後退を重ねる。一騎打ちには乗らなかった。最後は100騎と300騎の戦になる。秀郷軍の消耗はひどかったが、秀郷、貞盛、家憲は健在だった。突然に将門側が逆風になる。今度は秀郷軍の弓勢が効果を上げる。追っかけ追っかけ、ついに将門が逃げる秀郷のとどめを刺そうとしたとき、秀郷に幸運が訪れる。将門は秀郷の矢をこめかみ近くに受け即死した。
- 将門軍に間に合わなかった部将たちは各個撃破で次ぎ次に敗死、平定された。幼年の嫡男は捕り手を逃れて陸奥を目指す。妻たちは公雅の保護で無事だった。板東武者に流れる風評の重要性を心得る秀郷、貞盛は公雅の追求は形に留めたが、家憲は嫡男逮捕に異常な熱意を示す。しかし雷光がきらめき訴人が黒こげ屍体になると、それが新皇の怨霊の祟りと信じられ、事件は大団円を迎えた。朝廷の論功行賞は事件の評価として興味があるが、本書にはない。でも吉川英治の「平の将門」に出ている。と言うことで続いて「平の将門」を読むことにする。
- 「あとがき」に、著者の時代小説を占領軍(進駐軍と書いていないところがよい。進駐軍とは、印象を和らげるために官僚が発明したoccupation forcesの意図的な誤訳である。)が出版禁止処分にしたことが書いてある。占領軍が自由主義の本家面をして教師的態度で日本人に臨み、言論の自由を一枚看板にしているくせに、実際には言論取締をやると怒っている。「正月の概要(2020)」に(ベルギー人神父が容疑者の)日本人スチュワーデス殺人事件を引用している。占領軍にも神父にも、我らは好き勝手にやられたという感覚を私は持ち続けてきた。自由独立の価値を体験的に知っている人の発言を大切にしたい。
('20/1/4)