平将門三
- 海音寺潮五郎:「平将門」、朝日新聞社、'75の第3巻を読む。第2巻までで登場人物のあらかたは顔を揃えた。Web:「叛乱オンライン」は、現代までに伝わった「将門記」を初めとする将門関連の古文書を、総括的に現代語訳付きで一覧させてくれる。そこからは、一族の私闘が所領争いと女論(女性に関する紛争)であることは推測出来るが、登場人物としては、頭領の名前以外は殆ど出て来ない、妻子の名すら僅かしか出て来ない。小説中の重要人物で、大河ドラマ「風と雲と虹と」では吉永小百合が演じた貴子姫に触れた記事など全くない。彼女は観音寺の創作である。詳細の解らぬ資料で、かくも雄大な物語を綴る小説家の力量に感心する。
- 「角館と恐山」('01)、「飢餓海峡」('01)にイタコの記事を載せている。将門の2番目の弟は学問好きで菅原家の師につくが、この師が将門所領の近くに土着した。将門は彼の依頼で「火雷天神」を招聘するが、その雷神が老婆に乗り移って予言を吐き、雷神の幟を押し立てた将門軍を勝利(第8戦)に導く。老婆が神憑るさまを小説は描写しているが、まさにイタコだ。神あるいは霊の存在を信じきっている時代だ。老婆を介したお告げは兵士にすざましい活力を与えた。
- 実は正反対の事件が、伯父叔父連合軍に将門軍が敗れたときに起こっている。それも2度だ。連合軍は、1度目(第6戦)は「高望王」木像を、2度目(第7戦)は将門の父・良将の画像を前面に押し立てて将門軍の戦意をくじいた。それが敗因の一つだとは現代人にはとても信じられない話だ。三国志由来の「死せる孔明生ける仲達を走らす」は、仲達が木造を孔明が生きていたと錯覚したことによるが、将門の敗戦は、将門軍が明確に木像の人物、画像の人物が死んでいることを知っておりながら霊を恐れたための事件であったとしている。
- さて本に戻って順に読んで行こう。
- 訴訟に勝ち板東一の武者という名声をあとに、京都からたち帰った将門は、戦災からの復興事業に取り掛かる。しかし伯父・良兼、叔父・良正、従兄弟・貞盛は復讐戦の準備を進めていた。立ち後れのまま将門は第6戦に向かう。連合軍は800騎なのに、将門は50騎しか揃えることが出来なかった。上段記載の木像担ぎ出しの心理作戦にも引っかかった。「新平家物語」(溝口監督、市川雷蔵主演)の最後のシーンにあるように、将門も御弊かつぎの木像に矢をつがえたがその弦が切れる。初めての敗戦で、兵士は神罰を恐れた。連合軍は、将門の本拠は直攻せずに手薄な周辺の要衝を攻め落とす。味方領地は大損害を被った。連合軍は荒らし回ってからサッと引き上げた。
- 将門は退勢挽回に腐心する。与力が減る一方だ。復讐戦は早いほどいい。しかし将門は脚気を病み、足が不自由となり行動中に落馬する。脚気は、ビタミンB1欠乏症で、足のむくみ(心不全)や足のしびれ(神経障害)が起きる。だから「脚気」だ。いつもの勇壮果敢な戦闘ができない。前線ではそれが士気に影響する。今回は将門側は準備万端整えた500騎だった。敵はそれを少し上回る程度。第7戦の正面衝突での敵の木像作戦はあまり効き目がなかった。しかし第2軍は上述の良将画像を翻してきた。新心理作戦はかなりの効果が出た。本拠地まで攻め入られ館ほかの家屋は悉く炎上する。敗戦はまたも将門側に甚大な損害をもたらした。
- 家族の女子供は逃避行の途中で良正の部隊に捕らわれる。哀れをとどめたのは貴子姫だった。遊女に身を落としていたことは敵に知れていた。一族とは認められなかった。森に拉致され、輪姦の挙げ句殺される。屍体が発見されたときは、全裸で下半身は血まみれだったとある。発見者はかっては彼女と関係のあった貞盛で、今後の展開に複雑な影を落とすことが予想させる。将門の家族は妻・良子の父・良兼の元へ送られる。良兼の妻・詮子に、16才になっていた長子・公雅は姉・良子たちの処置に疑念を持つ。彼は義母の詮子が実家に戻った隙に、家族を将門の元へ送り返す。
- 眷属無事帰郷の知らせで将門陣営が活気づく。味方が増え1800を数えるに至った。既述の「火雷天神」の必勝の御託宣を受けて、第8戦に立ち上がる。敵は今まで表に出て来なかった叔父・良文の400を加えて2000を号した。緒戦でその400を蹴散らす。将門の挑戦状に返事はしたものの、敵は正面会戦を避ける。貞盛、源護、良正の所領や本拠は一斉に焼き払われた。関東における将門の武名は一挙に高まった。
- 富士山が噴火(937年、現在の河口湖と富士吉田市の間にあった「御舟湖」が埋まった。)して北関東まで降灰に覆われる。下総の国衙で将門は、朝廷から良兼、源護、貞盛、良正、良文らに将門追捕とそれに対する国司の協力令が出ていると知った。事情を知っている国司は好意的で、官命に対する国解(弁解書)を書いてくれた。だが四六時(本書は二六時という表現が出てくる。干支の十二刻で表した1日。)警戒せねばならぬ立場となったと思い知らされる。
- 第9戦は間者情報により将門本拠の警戒の手薄を知った良兼が、自ら80騎を率いて夜襲を掛けてきた。良兼は将門の下人を捕らえ飴と鞭で間者の潜入を助けさせる。寸前で間者に気づいた将門の郎党の気働きで、将門は10騎ほどの手勢で邸を守りきる。その強弓がものを言った。良兼軍は半数以上を討ち取られ、意気消沈した良兼は床につきやがて死去する。スパイを引き入れた下人はすべてに見放され放浪の末事故死。将門の名声は一段と上がり、もはや包囲網は名ばかりになった。敵将は残り領土の防衛に汲々とするようになった。貞盛領地は半分を削られた状態だった。
- 貞盛は朝廷の追捕システムを本格的に動かすことで事態を好転させようと決心する。これまでの追捕の官符は、大規模の軍備を持たず、土地豪族との融和でしか動けない地方官僚にとって、実効のある行動は無理であった。弟・繁盛に領地の後事を託し、100騎を率いて上洛を画策する。将門の追跡から逃れるため、下野の国から碓氷峠を越えて今の上田に至る迂回路を辿る。あとは美濃路の大回り。私は旧碓氷峠を歩いたことがある。あんな杣道をと思う。下野の藤原秀郷(俵の藤太)がそれをキャッチし将門に通報。将門は上田市国分寺の千曲川河原で待ち伏せ、散々に打ち破るが、1矢は放ったものの貞盛を見のがしてやる。将門は情にもろく、最後のトドメをいつも曖昧に納める欠点があった。しかし一の郎党・真樹ほか全部で85騎を倒す。これが第10戦の顛末であった。
- 第1戦から第10戦までを読んで作家が当時の社会情勢、生活状況、思想思惟信仰などの心の持ち方を、雑多なデータから見事に肉付けした構想から語っていると感じる。戦いが一族内の私闘であるためもあろうか、後世のようには結果を徹底させず、負け側に生き残る余地を残して終えている。それが終わりの見えない抗争に発展する。上下身分の厳しさ、婚姻関係の重大さ、女権が意外に強く貴族時代と武家時代の中間的な雰囲気にあることなど、何かこの時代が身近にあるような錯覚を、あるいは親しみを覚えさせるのは作家の力量の賜である。
- 秀郷は3年の伊豆流人生活を終えてからは、真面目な生活に戻っていた。34才。蝦夷人奴隷を買い集めて開墾に励み実入りを増やし、兵を養った。板東北部では実力が認められ、下野国府から押領使(警察)を委嘱されている。将門には一応の好意を見せたが、深くは交わろうとしない。中原への大志を抱いているかのようだ。藤原純友に従って伊予に行っていた鹿島ノ玄明が将門を訪ねてくる。彼は若い頃は板東の与太者として周囲の嫌われ者であったが、将門に好意を抱きすり寄っている。情報通でもある。貞盛が追捕使として縁者の藤原惟幾を伴い、板東に戻ってきたと伝える。惟幾は常陸の大介(実質の長官)としての赴任だった。除目の時期でない更迭人事で、貞盛が、繁盛と分けた半分の領地のそのまた半分を、主人・忠平に献上するほどの犠牲を払った運動の結果であった。将門は、直ちに貞盛狩りに着手。
- 玄明が貴子妃なぶり殺しの犯人を捕らえて引き渡す。彼らは居住村で見せしめの処刑を受ける。彼らは叔父・良正の領民だった。良正は相続く敗戦で2/3の領地を失い逼塞状態にあった。しかし他領での処刑は敢えてやらないのが当時の常識であった。このエピソードは将門が板東支配にあたって一段乗り越えたことを意味する。
- 貞盛は暗殺の恐れで、惟幾の館から一歩も外には出ることが出来なかった。惟幾は除目で担った将門追捕の任務が、まったく進捗しないことに悶々としていた。そこへやはり縁者の惟扶が陸奥守として下向してくる。貞盛は陸奥に逃れて再起を図ろうと同伴する。それをまたも秀郷がキャッチし将門に通報。だが将門は今回も取り逃がす。将門の訪問に秀郷は面会を回避した。貞盛も訪問し、秀郷を味方に付けようとするが、秀郷の拒絶に会う。
- 武蔵の権ノ守に興与王、介に源経基が赴任してくる。興与王は王でありながら盗賊まがいのアウトローぶりなのを、将門は京で見たことがある。だが将門が警戒的なのに興与王は好意を示す。経基は小心翼々だが、朝廷の威と身分を傘に居丈高に振る舞うタイプ。2人は着任早々郡司・武芝と悶着を起こす。郡司は土地の有力豪族。国司の巡視に立ち会わなかったことを理由に、武芝の財を公租隠蔽と称して国府の武力で奪い取った。強盗団顔負けの処置で、当時の悪国司が、地方を搾取し放題の任地と考えたことをよく物語っている。
- 双方が戦支度を始める。玄明が双方の仲立ち役を将門に持ち込む。将門は支配地から離れた武蔵国ゆえ渋っていたが、和議が成立したかのところまで持ち込んだ。だが最後調停に関係者4名が府中への同行する運びになって、経基の小心疑心が郎党間の弓矢の合戦(939)を呼び込み、ご破算になる。将門の乱は同じ年の11月からである。経基は一目散に京都に逃げ帰り、将門、興与王、武芝3者が示し合わせた襲撃事件として告発する。将門は京では太政大臣・藤原忠平の家人だった。忠平は御教書を書き、板東の各地の国府が将門支持の解文を奉り、一応は一件落着した。しかし武蔵の正国守に百済ノ貞連が任命されてから雲行きが悪くなる。貞連と興世王とは不仲であった。
- 蝦夷女が、11年前、その姉が若き将門との間にもうけた男児を連れて訪れてくる。将門36才。蝦夷女の描写はアイヌの特徴を写している。作者は蝦夷人をアイヌ系と思っていたらしい。
('19/12/25)