平将門二

海音寺潮五郎:「平将門」、朝日新聞社、'75の第2巻を読む。
本書の中程に「辺境の掟」という項がある。著者の武士の発祥と気質についての見解が簡潔に述べてある。大宝令の常備軍は平安初期、この小説の141年前に廃止になった。中央政府の経済的負担は軽減されたが、一面警察力でもある軍備の低減は、大型盗賊団にたいしての取締力を失わせる結果になった。検非違使では対応できなくなった。住民は自然発生的な自衛手段を講じる。地主は領民を武装させてその一部を家の子郎党という武士にし、寺社には僧兵、神人が置かれる。板東が武士の本場であった理由は、常に蝦夷人との対立関係に置かれ鍛えられていたからだ。板東武者徳目のトップは武勇だった。氏族への忠誠もあった。
伯父・良兼は上総平氏の頭領であった。「平将門一」の終わりに出てきたように源護の長女・詮子を娶る。良兼を夢中にさせた詮子は、実家の基盤確立と勢力拡大に熱心な政治性を持っていた。継子の良子を源の長男・扶の嫁にと画策する。良子には既に将門からの申し込みがあったがそれは良子には伝えられず、使者には拒絶の口上が伝えられた。将門は略奪結婚を実行する。良子は好意を寄せてきた従兄による拉致を喜び、父には幸福のありさまを書き送る。将門を咎める出兵は、良兼が中気で倒れて取り止めになった。脳卒中で軽い「よいよい」になった。
詮子はことの収拾策に将門の謝罪訪問を促す。良子は里での詮子に対する感覚から、本能的に「罠」と悟り将門を引き留めるが、和を重んじる将門は謝罪に出立する。良兼が出兵できなかったことは判断に好材料であったのだろう。だが「罠」は本物で、しかも源家だけが相手ではなかった。常陸平氏・国香の農民が加担していた。「罠」は一旦は成功しかかるが、将門の弟・将頼の牽きいる70騎が到着すると、戦況はたちまち逆転。源の扶ら3兄弟は枕を並べて討死。そこへ国香が100騎で到着し将門勢に打って掛かるが敗れて、伯父も戦死。国香の家族も源護の家族も常陸国府(石岡市)に落ち延びる。彼らの邸宅や敵対した領地農民の家は焼き払われ領地は将門に獲られた。
この将門の乱の引き金となった地域戦争はなかなか見事に活写してある。第1戦の源氏勢の陣容は100騎と加担の国香領領民。将門勢は10騎と下人(歩行の半農半兵)20名だった。多勢に無勢、下人は殆どを失ったが、なんとか持ち堪えたのは将門の戦場感覚(戦意)と5人張りの弓勢、それに蝦夷と日夜闘った父・鎮守府将軍魔下の経験豊富な兵卒たちであった。土豪化の日が浅い源家とは武者の質が違っていた。精兵(強弓をひける兵士)の数が違っていたとある。矢合わせで最初の優劣が決まるのが当時の戦いであったようだ。第2戦の国香軍は板東武者であり、国香はかっては鎮守府将軍を務めたこともある。強敵だった。他氏族の源氏に味方して同氏族の将門を討とうとする理不尽を、国香との一騎打ちで将門は声高らかに叫んだ。
先に読んだ「私本太平記」でも感じていたが、この時代の一つの特徴は弟の存在感の重さである。兄と表裏一体となり働く。将門と将頼、扶と2人の弟、国香の子の貞盛と繁盛。弟が積極行動派で兄のバランス感覚、情実へのおもばかり、周辺思惑への配慮などによる慎重姿勢と対称的な場合が多い。
都の貞盛は万難を排する一気呵成な仇討ちは考えなかった。彼には将門とは従兄弟同士としての太い絆があった。彼の性格も解っていた。武勇優れた勇士とも認めていた。冷静に父が将門に対して一族の頭目としては相応しくない行動を取ったと感じていた。平氏一門の繁栄を図りたいという大局観もあった。貴子姫の懸命の引き留めがあった。官職にあり権門の家人でもある立場は、私情の欲するままの行動は許さなかった。だが領土を失っては、貞盛が目指す京での栄達に支障が出る。何もしないでは、弔い合戦を期待する世間を失望させ、それが将来を暗くする。血気はやる繁盛や郎党に引きずられるように、届け出を済ませた貞盛は、郎党の半分を牽きいて関東に下り常陸国府を目指す。まさに和戦両様の構えであった。箱根あたりからその行動は、将門側に監視されている。将門は襲撃を自粛する。
貞盛は開戦派に取り囲まれながら、かなりの危険を冒して和平工作に乗り出す。将門の本拠近くにまで出掛けて、騒擾を拡大しないことで将門と一致する。しかし伯父、叔父たちの行動は正反対であった。一番感情的だった叔父・良正が将門に攻め掛かる。第3回戦。押され押されて一騎打ちにまで持ち込んだが敗れて良正軍は60騎余りを失い後退。互いに150騎程度の戦だった。板東の戦は騎乗武者の戦いである。
良正は良兼の救援を頼む。一門の内紛に本気ではなかった良兼であったが、詮子の主張を断れず、ついに救援に出兵する。良正の正室は詮子の妹であった。兵力千余騎。合わせて2000。関東のそのまた一地方の地域戦争での動員数である。当時としてはこれは驚異的な大兵力であった。貞盛は挙兵に応じなかった。しかし復讐戦にはやり立つ繁盛は郎党50騎を無断でつれだし伯父たちに合流。連れ戻しに出た貞盛は伯父に拘束されてしまう。将門は200が精一杯。衆寡敵せずのはずの第5戦だったのに、戦いは将門に軍配が上がった。ここでも将門は伯父に逃げ口を拵えてやり、後日に含みを持たせる。
戦が農繁期に行われたのが、当時としては異例だった。後年の戦国時代の信長軍と武田軍の違いを論じた話に、半農半兵の程度の差があった。信長軍は軍事専門の軍団を組織し季節お構いなしの戦闘が組めたが、武田軍は他国出兵に農閑期を選ばなければならなかったという。叔父の軍略では兵を集めにくい時期に、将門領を戦場にして荒らし回り、生き残ったとしても再起不能にするというものだった。だが戦闘は味方領内で行われ、しかも敗戦したから、打撃は深刻であった。
将門は、召喚状に応じて下総府中(国府)に「私闘」を正直に申告、腫れ物に触れるように迎え入れた国司の守は申告を了解して、その通りを記録に留めた。下向してきた太政官が同席していた。源護は太政官に訴えていた。土着前は中央の貴族であった護にはその手づるがあったのだろう。下総府中は千葉県市川市にある。下総国分寺跡は訪れたことがある。国府はその南西の国府台にあった。戦国時代の後北条氏と里見氏が、関東の覇権を懸けて戦った国府台合戦のあった土地である。腫れ物に触るようにとは、国府の軍備と豪族のそれとの圧倒的な差を意味する。裁判に上洛出頭することになる。
源護と国香側の郎党・侘田ノ真樹には、常陸の国府で同様の沙汰が太政官より発せられた。聴取した太政官がどんな反応をしたかを書いてない。都の裁判を小野道風は、「ことの正邪は埒外で、賄と贈り物の競争が決める。」と将門を諭す。将門は知っているとは云え憂鬱な京生活が始まる。「当地のものはいい稼ぎ時とほくほくだろう。」ともいう。道風は今の世にも聞こえた書家で、権門への出入りも頻繁だった。将門の次の次の弟の師の師という縁であった。被告原告が耕作で汗水垂らして稼いだお金を、京の役人が絞れるだけ絞るしくみになっている。だから贈られる方は出来るだけ裁判を引き延ばす。1と月の予定が半年になる。将門は資金不足を起こしては領地から補給させている。
貴子姫の消息は衝撃的であった。遊女宿の遊女に身を落としていた。貞盛が関東に去ってからしばらくは留守居の郎党が世話をしていたが、戦いの火蓋が切られてからは彼らも関東へ去った。住まいが火事に見舞われる不幸が重なり、さらに悪行を生業とする連中に誘拐され、弄ばれたうえ、遊女宿に売り飛ばされたという。貴子姫は作家の作り上げた史書には存在しない女性だろう。時代劇にはしばしば同類の薄幸な女が登場する。その宿に将門は彼女を訪ねて行く。将門は彼女を東国に連れ帰ることにした。
検非違使庁の法廷は、畢竟は私闘で罪科は軽く、天皇元服の大赦で放免するとした。ただし原告側には、被告と同罪なのに、被告のみに罪を着せようとしたのは、「よろしからん」という一文が添えられた。将門側の一応の勝訴であった。所領の復元などについては何ら触れられていない。これだけの判決に、家が傾くほどの財を費やし、東国を出発してからほぼ半年かかっている。それでも判決は、まだかすかに「正義」が機能していたことを伝えている。太平記(「観応の擾乱」('18)、「私本太平記の「建武らくがき帖」」('19))に記す建武の中興の失敗の一つの大きな理由が、実効の挙がらない訴訟制度であった。将門に対する訴訟はその400年前の話である。

('19/12/20)