平将門一
- 海音寺潮五郎:「平将門一」、朝日新聞社、'75を読む。全4巻本の最初だ。関西から関東に移ってきたとき、平将門の足跡が関東一円に残っている事に気が付いてはいた。彼を主人公とするNHK大河ドラマ:「風と雲と虹と」は'76年の放映だった。しばらく忘れていたが、先月下旬、BSプレミアムで「英雄たちの選択「平将門・謀反の真実〜悪霊か正義の武士(もののふ)か〜」」と言う番組があった。「世界大百科事典」、平凡社、'88には彼関連の記事が1ページ半ほどあって、史実を記述していた。吉川英治にも「平の将門」なる作品がある。先日読み終えた「私本太平記」よりは400年ほど昔の物語。結局大河ドラマの原作となった海音寺の「平将門」を読むことにした。
- 平氏は将門(小次郎)の祖父・高望王の代から関東土着の豪族となって、開拓開墾に力を尽くし勢力を根付かせる。我々は明治の頃の北海道開拓の歴史は具体的に良く理解しているが、平氏が来た頃の「東夷」の原野は、北海道に屯田兵や開拓民が入植した頃と殆どよく似た状況であったかのように描かれている。ところどころに土饅頭がある。そこは農地開拓のときに出てくる石を集積した場所だといった説明がある。一族が定着した場所は下総常陸が中心で上総国山武郡に跨っている。将門一家は筑波山の西南の下総国豊田郡が地盤であったのだろう。下総の国は今の千葉県と茨城県に跨っているのでよく場所を探し損なう。関東鉄道常総線石下駅の東1-2kmほどの所に豊田と言う地名が見える。茨城県だ。鬼怒川と小貝川に挟まれた平地だ。
- 平氏は桓武天皇に発する名家でこの流れを桓武平氏という。清盛は200年後のヒト。しかし第3代にもなると、中央政権に有力ポストはなかった。権力は藤原一門中のそのまた一握りが独占していた。賜姓皇族であっても下級貴族で既に霞んでいたという。猟官運動が功を奏しても、せいぜい受領(国司筆頭)に任命される程度だった。将門の祖父・高望王は第3代で従五位下,上総介(介は国司4等官の次官クラス、上総は親王任国のため現地では守(長官)と同じ)で 平朝臣の姓を賜わり、退任後も現地に土着した。第4代の父・良将は鎮守府将軍(守相当)、清盛の家系となる叔父・良香は先(既に交替している)の大掾(国司第3等官)であった。宿敵となる貞盛はその子だ。
- 将門が思春期に入ったころの筑波明神の闇祭が描写してある。今とは異なりここは陰陽神が祀られていた。祭りの夜は男女の乱交がおおっぴらに認められていた。宇治の県神社の夜祭りは、現代まで引き継がれている陰陽がむつみ合うお祭りとして有名だ。全国を捜せば同じ主旨のお祭りはまだまだ数多く存在するのであろう。将門は初めて小督姫に惹かれる。その姫には貞盛が執心している。その貞盛が起こした今の大掾・源護の郎党との喧嘩に巻き込まれる。貞盛はその原因を将門であるかのように報告する。将門は父の任地・胆沢城に急遽戻される。途上にアウトロー的挙動を咎められ伊豆に流されるのちの藤原秀郷(俵藤太)に出会う。兵站基地は多賀城から胆沢城に移っていた。70年ほどの間に蝦夷平定は100kmほど北上した。
- 蝦夷の民俗が将門の行動範囲で記述されている。蝦夷とは何者か。大百科事典には平安時代は東北北部の民は言語学的にアイヌ近縁だが、それ以南は中央に従わぬ民を指す政治用語だとしている。Wikipediaによると、縄文語があってそれが当時の東北や裏日本の基層言語だった。そこへ上層の大和語が乗っかかり、だんだん廃れていった。ズーズー弁はこの基層言語の特徴を残す。ズーズー弁が事件の鍵となる松本清張の「砂の器」の出雲弁が、この分類に入る理由も縄文語の後胤と思えば何となく解る気がする。
- 将門は側を流れる北上川を舟で渡り蝦夷の部落に着く。部落民は蝦夷語を話す。インデアン部落に近接してアメリカ軍のフォートがあるのと同じ構図だ。彼はいい娘のいる家の長に酒瓶を贈る。長のお返しがその娘を一夜妻にすることだった。一夜妻のもてなしは、東北のこの時代だけのものではなく、うらおぼえだが、遅く江戸末期頃まで全国的に残っていた慣習だった。将軍の息子が持ってきた酒は、おそらく米から作ったアルコール度の高い美酒だったと思う。三内丸山遺跡からは、エゾニワトコの実から酒を醸造していた証拠が見つかっている(「縄文文化の扉を開く」('01))。また千葉の加曽利貝塚には、醸造瓶らしい土器が展示されていて、野イチゴでブドウ酒を醸していたらしいと書いてある(本HP「加曽利貝塚遺跡」('07))。だから蝦夷の民もアルコール度の低い酒は醸造していただろう。美酒でなければ、いくら将軍の子息が相手でも、娘を夜伽に出したりしないだろう。
- その父将軍が急死。豊田に戻った将門は父が預けていた土地証文を国香から返却して貰うが、かなり横領されている。その返却交渉に対し、やはり横領の片棒を担ぐ大掾・源護の三女(小督)に将門が恋していることにつけ込み、結婚の条件に「官位」を要求させ、京都に将門を追いやる。将門は恋敵が貞盛であるとも知らなかった。横領を疑っている相手に、結婚の仲立ちを依頼すること自体が不可思議な行為だが、剛直純真清廉潔白の若者にはその分別はなかった。平氏から源家への橋渡し役としての配慮が、当時では優先されるべき基準であったのかもしれない。
- 上京した将門は、優美婉曲の中に狐狸妖怪海千山千の跋扈する高等戦略戦地の京都ではまったく通用しない存在だった。3年半の権門での家人生活で得たのは、右兵衛府の少志(4等官最下位)だった。賄賂(砂金や織布、まだ貨幣制度は一般化しておらず、ことに地方では物々交換的経済体制だった)や東国から引き連れた18名ほどの郎党の手当などはすべて自分持ちだから、たいそうな負担だったろう。同じころ上京した貞盛は左馬寮の大允になった。実質のランクは将門の2つぐらい上のようだ。
- 源氏物語は将門より少し後に書かれた小説だ。源氏物語の末摘花は、光源氏の保護を受ける前は、高貴な出身であるのにもかかわらず、不運に縁戚を失い、孤独でわびしい暮らしに追いやられていたことになっている。読んだときは治安の悪い時代にそんな生活がなり立っていたのかと云うことだった。疫病が流行ると屍体が羅生門に放棄され、中堅クラスの貴族の館さえ強盗団に襲われる事件が勃発している。一方彼は貴人の種であった遊女を見ている。そんな世の中で、将門は末摘花そっくりの境遇の貴子姫をみつけ、恋心を隠しながら誠実に面倒をみる。もう少しで光源氏になろうとしたとき、期待の除目に外れて落胆状態であった将門の心の隙を突くように、貞盛が光源氏になる。
- 将門が板東武者の真髄を発揮したのは、市の倉を襲った大強盗団との対峙でであった。将門は首領ほかを斬り殺す。将門は廷でも街でも武勇のヒトとして名が高まる。しかし斬られた3人が貴公子の「盗賊王」であったのが禍を呼んだ。家人として仕える主人に莊相当の贈り物をするように貞盛は忠告をするが、将門の正義感と潔癖性はそれを許さなかった。除目が期待はずれに終わる要因だった。中央政権は瀬戸内海の海賊には手を焼いていた。九州からの官船は7割方が襲われたという。将門と同じ時期に西国で反乱を起こす藤原純友が海賊征伐に出立する。純友も武人肌で将門とは誼を通じていた。
- 都に見切りを付けた将門は帰郷する。取り掛かったのが叔父たちの土地横領問題だった。良将が胆沢城で死去したのを幸いに、叔父は、将門に被せた源の郎党との諍いの代償と称して、預かっていた土地の3荘を源護に譲り、叔父たちは別途その見返りの土地を源から受け取っていた。源護は任期後はここに居住することを決め、有力豪族との提携に熱心であった。在任多分4年での源の中央の権門に劣らぬ邸宅は、地方官のうま味を伝えるとある。苛斂誅求思いのままに私腹を肥やせるからと云う。その長女、次女は叔父たちと婚姻関係を結ぶ。三女は貞盛との結婚が予定されている。貴子姫を京の妻に置き、領地ではこの三女が妻だ。当時は一夫多妻は不思議でなかった。京では妻問い、東では夫の家に同居するようだ。貞盛は都での栄進を目論んでいる。
- 横領側の将門包囲網が完成した。横領問題は水掛け論に終わり、将門は氏族放逐となった。もはや何事が起こっても氏族としての援助は期待できない。当時の抗争はほぼ氏族単位だったから、将門にとっては大変な環境になった。横領のそもそもの原因は、祖父・高望王が遺産相続のとき父・良将に重く配分したことにあるという。力が支配する時代の分配は、能力の比重が高かったのであろう。しかし差を付けられた方は黙ってはおれなかった。
('19/12/16)